琥珀いろの夏 〜偽装レンアイはじめました〜

桐山アリヲ

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 サトルさんの家は、海を見おろす高台にあった。
 周辺にいくつか別荘らしき建物が点在するほかは、緑の林に囲まれた静かな場所だ。

 「すごい……」

 天井まである吹き抜けのリビングへ入った瞬間、正面の窓いっぱいに広がる海の景色に圧倒される。

 「気に入った?」
 
 途中で調達してきた食材をキッチンへ運びこんでいたサトルさんが、おれの隣に並んでいった。

 「はい。なんだか……海の上に浮かんでるみたい」

 見れば見るほど、ぜいたくな眺めだった。
 眼下に広がる海は、傾きかけた西日を受けて、無数の宝石を散りばめたようにキラキラと輝いている。
 海だけじゃない。切り立った崖を覆う木々も、遠くに見える灯台も、漁港に停泊する船の並びも、まるで自ら濃いオレンジ色に発光しているみたいだ。
 
 「本格的に住みはじめるまえから、仕事で煮詰まったときには、よくここへ来てた。ここでしばらく海を眺めてると、雑念が消えて頭のなかがクリアになるんだ」

 「サトルさんでも、雑念に悩まされたりするんですね」

 「それはそうさ。恐れや不安やあせり、見栄に嫉妬。そういう感情から常に自由でいるのは、だれにとってもむづかしいものだよ。だからひとは、しばしば大切なものを見失ってしまうのかもしれないな。青い鳥はすぐそばにいるのがセオリーだって、みんな知ってるはずなのにね」

 その顔が、なんとくさみしげに見えて、返す言葉につまってしまった。

 気のせいなのかな……。

 にわかに降りた沈黙をどう受け取ったのか、サトルさんは、くすっと笑っておれの肩に手を置くと、

 「つかれたろう。留守の間に溜まった雑用を片づけてくるから、きみは自由にくつろいでて」

 と声をかけ、キッチンへと戻って行った。

 手伝おうか迷ったけれど、かえって邪魔になるかもしれない。結局、サトルさんの言葉に甘えることにして、近くのソファーに腰をおろす。

 水族館で動けなくなってしまったことについて、サトルさんは、ひとことも触れてこなかった。
 あのふたりの男子高校生に、おれがなにを重ねて見ていたのか……そのことに、サトルさんが気づかないはずはない。それでも知らないふりを通してくれていることに、おれは内心ほっとしていた。
 サトルさんから問われたところで、おれは、答える言葉を持ち合わせていないから。
 
 ──戻りたい。

 焼けつくように強烈な感情が去ったあと、おれの胸に残されたのは答えではなく、硬く乾いた問いだけだった。

 あの夏に戻れたとして、いったいなにを、どうやり直すというのだろう。

 もしも自分の心に正直になるとしたら、おれ自身はすっきりするかもしれない。けれど麟太郎は、まちがいなく傷つく。
 気を許した同性の相手から性的な目で見られるなんて、麟太郎のような男にとっては耐えがたい屈辱だろう。なまじ互いのやわらかな部分で結びついていたぶん、その傷は、なおさら深くなるかもしれない。

 それに……いまとなっては、おれにはサトルさんがいる。
 
 あのときも、そしていまも、おれが自分の気持ちをぶつけることで幸せになるひとなんて、だれひとりいないのだ。
 
 いつのまにか、もう引き返せないところまできちゃってたんだな……。

 開け放された窓から、潮の匂いのする風が吹き抜けて髪を揺らす。
 その風に誘われるように、おれは、凪いだ海へと目を向けた。
 
 いま見えている潮の流れに逆らわず、すべてをゆだねてしまえば、この迷いも苦しさも、やがては薄れていくんだろう。
 あの夏の輝きは、おれの記憶のなかに封印される。そうしていつかは、かすかな痛みとともに取り出して、懐かしく思い返せる日がくるのかもしれない。

 それでいいんだよな、麟。

 
 『タマ』

 遠くで名前を呼ばれた気がした。
 
 「……くん…千年くん」

 やさしく肩を揺らされ、ハッとして目をあげると、すぐそこにサトルさんの顔があった。
 床に片膝をつき、微笑を浮かべておれを見ている。

 どうやら、うとうとしていたらしい。室内へ差しこむ光に変化はないから、そう長い時間ではないはずだ。

 「そろそろ帰る時間だよ」
 
 やわらかな笑みを浮かべて、サトルさんがいった。

 言葉の意味がわからず、おれは、ぼんやりしたまま口をひらく。

 「だけど……今日はここに泊めてもらうつもりで」
 
 「迎えが来たんだ」

 「……迎え?」

 「葛西くんだよ。いま、庭で待たせてる」

 息が止まった。
 ソファーに沈めていた体を、とっさに引き起こす。
 混乱するおれをなだめるように、サトルさんは、床に片膝をついたまま、おれの右手をやさしく握った。

「水族館を出るまえに、メッセージを送っておいたんだ。予想よりだいぶ早い到着だから、正直、俺もちょっと驚いてる。メッセージを見て、すぐに飛び出して来たんだろう」

 「おれ、サトルさんに麟の連絡先なんて教えてないですよね」

 「そうだね。でも一度だけ、俺と彼とで会ったことがある。連絡先は、そのとき彼から直接聞いたんだよ」

 サトルさんの口から出たのは、思いもよらない告白だった。

 「5月の末頃だったかな。千年くんが、俺のマンションに来たことがあっただろう。あの少しあとのことだ」

 「黙ってて悪かった」と続けてから、サトルさんは、そこに至る経緯をくわしく教えてくれた。

 信じがたいことに、麟太郎は、サトルさんが過去に本を出しているいくつかの出版社へ直接押しかけ、作家の深山悟に会わせてほしいと頼みこんだのだという。
 当然そんな要求が通るはずもなく、受けつけであっさり断わられると、今度は会社のロビーに居座って、サトルさんが偶然姿を現すチャンスを延々と待ち続けた。そんな衝動的で無謀としかいえない、そのうえ一歩まちがえたら警察沙汰にすらなりかねない危うい行為を、数社の玄関先で繰り返したのだ。

 その過程で麟太郎が雨宮さんの会社へたどりついたのは、入念な下調べの結果といえるのかもしれないけれど、それ以上に、偶然の導きの方が大きかったんじゃないだろうか。3軒目に行った大手出版社の目と鼻の先に、雨宮さんのオフィスがあったのだから。

 ある程度の事情を把握している雨宮さんが、たまたまデスクにいたことも幸いした。
 雨宮さんから連絡を受けたサトルさんが、すぐに都内のマンションから駆けつけたことで、「大物作家に直接会う」という麟太郎の分不相応なもくろみは、なんとか叶えられたのだ。

 あ然としながら話を聞いていたおれの脳裏に、あの夜の光景がよみがえった。
 おれがアパートへ行ったあの日、麟太郎は、やけにつかれた顔で、朝から出かけていたのだといっていた。
 それがまさか、サトルさんに会うためだったなんて……。

 ──なに考えてるんだよ。麟も、それにサトルさんも。

 頭のなかが、ぐちゃぐちゃだ。

 おれは、ふらふらとソファーから立ち上がった。
 支えるように一緒に立ちあがったサトルさんの腕を、とっさにつかんで揺さぶる。

 「どうしてあいつを呼んだりしたんですか。どうしていまさら、そんなことするんだよ。ちゃんと思い切ろうとしてたのに。おれは、あなたと一緒にいるって決めたのに!」

 いい終わらないうちに、強い力で抱き寄せられていた。
 
 「もちろん俺も、そのつもりだったよ。いまだって、きみを幸せにできるのは俺だけだと思ってる」
 
 「だったらどうして」

 「水族館で、あの高校生たちに会うまで、葛西くんに連絡を取るつもりなんてなかったんだ」

 おれの言葉をさえぎって、サトルさんが話を続けた。

 「あのときのきみの顔を見て、俺のなかに、はじめて迷いが生まれた。このまま強引にことを進めたら、いつか、きみは俺を恨むようになるかもしれない。そう思ったら、少しだけ怖くなった。だから、最後に一度だけ、賭けをしようと思ったんだ。俺自身を納得させるためにね」
 
 「賭け?」

 「俺は、葛西くんを呼んだわけじゃない。この家の住所を知らせただけだ。試したんだよ、彼の反応を。もし彼がメッセージを無視してここへ来なければ、このまま、きみを俺のものにするつもりだった。もちろん俺はそっちに賭けたんだけど、見事にあてが外れたな……」

 きつく抱きしめられているせいで、サトルさんの顔は見えない。けれど、その声が、かすかに震えたような気がした。

 「彼と行くか、ここに留まるのか。もちろん決めるのはきみだ。ただ、葛西くんがなぜここへ来たのか、たしかめたいと思うなら、そのチャンスはいましかないかもしれないね」

 「ひどいですよ、サトルさん。そんなの、おれに選べるわけないじゃないですか」

 サトルさんは、なだめるように、おれの背中をゆっくりとなでた。

 「なにかを手に入れるには、べつのなにかを手放さなきゃならない。だれも傷つけない選択なんてないんだ。でもね、千年くん。きみが思うより、ひとはずっと強いよ。だから、もっと信じていいんだ。俺のことも、葛西くんのことも、もちろんきみ自身のこともね」

 サトルさんが、やんわりと腕をほどいて、おれの体から身を引いた。

 「きみの心が、ほんとうはなにを望んでいるのか。よけいなものを取り払って、もう一度、よく考えてごらん。そうすれば、やるべきことも自然と見えてくるはずだ。そこから逃げてるうちは、きみの時間は、いつまでも動かないままだよ」

 空いていた心のすき間に、カチリと、なにかがはまった気がした。

 そうか……。

 戻るもなにも、おれの時間は、あの夏で止まってたんだ。
 
 おれはすごく臆病で、自分がだれかを傷つけるのも、だれかに傷つけらるのも怖くて、それらしい理由をつけて、まえに進むことを拒んでいただけなのかもしれない。

 「おれ、麟太郎をあきらめる理由ばっかり探してた。いちばん背を向けちゃいけない相手だったのに、大事な部分はぜんぶ嘘で固めて、ごまかして……いつの間にか、ごまかしてる自覚すらあいまいになってた」

 言葉が、自分の意思とは関係なく、こぼれ落ちてくる。

 「そんな自分が信用できないから、麟太郎のことまで、どこかで疑ってたのかもしれない。自分に嘘ついてるやつが、ほかのだれかを心から信じられるわけないのに、そんなことにも気づけなかった。バカですよね、おれ」

 「そうだね」

 いつもと変わらないおだやかな表情で、サトルさんはいった。

 「でもそれをいうなら、警備から通報されるスレスレまで粘って俺に会いに来たきみの想い人も救いがたいほどのバカだと思うし、そのバカをどうしても見限ることができずに、まんまと後押ししたあげく、きみを手放そうとしてる俺だって相当の大バカ者だ。雨宮に知られたら、きっと死ぬまでネタにされるだろうな」

 言葉のわりに、サトルさんは、晴れやかな顔で笑っている。

 「おれ、サトルさんが好きです。サトルさんがおれにくれたものとは釣り合わないかもしれないけど、その気持ちは嘘じゃなかった。だから、謝りません。それで、間違ってないですよね」

 「上出来。よくできました」

 「サトルさん。いままで、ほんとうにありがとうございました」
 
 深々と腰を折った瞬間、喉の奥から熱いものがこみあげてくる。奥歯を食いしばって、おれは、その感情をやり過ごした。
 これ以上、サトルさんに甘えるわけにはいかない。

 「早く行ってやらないと、彼、この暑さで溶けてるかもしれないよ」

 サトルさんの軽いジョークに、おれはようやく頭をあげた。

 「見送りはしないから、ここでね」というやわらかな声に背中を押され、着替えの入った荷物を手に、部屋を出る。

 玄関のドアを開けると、鼓膜をふるわす蝉しぐれのなか、夕方の日差しを背負うように立っている長身のシルエットが、視界に飛びこんできた。

 「タマ」

 前庭へ出てきたおれを見て、ほっとしたような顔をする。

 「麟、おれ……」

 口ごもるおれを見て、麟太郎は小さく息をつき、わずかに口角をあげていった。

 「まぁ、とりあえず乗れよ。日のあるうちに帰るぞ。長距離運転は、あんまり慣れてないんだ」

 麟太郎のかたわらに停められた黒のSUVが、強い西日を静かに照り返していた。

 

 
 
 
 
 
 



 

 

 
 

 
 

 

 
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