2 / 11
第一章
信昌と強右衛門
しおりを挟む
天正3年(1575年)4月の朝五ツ(午前8時)、強右衛門が長篠城に登城すると、周囲がにわかに賑やかになった。
「よおっ、強右衛門! おはよう! たらふく朝飯は喰ってきたか?」
おちょくりの混じった問い掛けに強右衛門は「ガハハッ」と豪快に笑いつつ
「おおっ、喰うた喰うた。ほれ、腹はこのとおりよ」
太鼓腹をポンポンと威勢良く叩くと、周囲の賑やかさに拍車が掛かった。
「ワハハハッ! いい音だな! この調子でもっと肥えて、もっといい音、聞かせろよ!」
「ああ、期待に沿えるよう、たんと喰うてやるぞ」
「おいおい、まだ太る気かよ、強右衛門。あまり太ると、戦場で走れなくなるぞ」
「ならば、転がってしんぜよう」
「なんだあ? 大玉にでもなる気か?」
「大玉ではのうて、大岩よ」
「ぷうううっ、そんなブヨブヨした岩があるかよ!」
太鼓腹を擦って「ちげえねえ」と呵々大笑の強右衛門。周りも釣られて爆笑した。
「賑やかだな、強右衛門」
城内に上がると大広間に、にこやかな花が咲いていた。強右衛門の主、奥平信昌だった。
強右衛門は慌てて胡坐をかき、平伏した。
「これは殿、おはようございまする。朝から騒々しくて誠に申し訳ございません」
「構わぬ。其方がいると、儂も心が晴れやかになる」
「左様……にござりまするか?」
強右衛門は訝し気に応えた。信昌は笑った。
「ああ、真じゃ。其方には他人を笑顔にする才覚があるようじゃ」
「滅相もありませぬ!」
強右衛門は大いに畏まった。
「そ、某には左様な天賦の才はござりませぬ!」
「左様に平伏さずとも良い。顔が板の間に着いているではないか」
信昌は笑顔を絶やさなかった。強右衛門は返答に困った。
なんと応えれば良いのだろう。強右衛門が当惑している間に、信昌が口を吐いた。
「其方のような家臣がいてくれるお陰で、儂は毎日を笑おうておられる。辛い記憶から立ち直ることができるのじゃ」
ハッとした。強右衛門の背中から、途端に大量の汗が噴き出てきた。
主である奥平信昌が背負うた悲惨な過去を、強右衛門は知っていた。
戦国時代。弱小国がより強い勝馬に乗るのは当たり前の世の中。
情勢有利と考えた奥平家は、それまで属していた武田軍に見切りを付け、織田・徳川軍に味方した。
信昌は、武田家に人質として預けられていた前妻おふうと離縁し、徳川家康の長女・亀姫と婚約した。
「殿、亀姫様にお会いになられたことは?」
強右衛門の問いに、信昌は力なく首を振った。
「ない。所詮は、政略による婚姻に過ぎぬ」
「なんと……奥方様になられる相手の顔を、まだ知らぬとは」
強右衛門の驚きに、信昌はフッと寂しく笑った。
天正元年(1573年)9月、武田勝頼によって、おふうは殺された。まだ16歳だった。
国を守るためとはいえ、「信昌は夜叉になった」と、家臣の中には蔑む者もいた。
信昌は、何も言わなかった。
が、強右衛門には、わかっていた。殿が平気でいる訳がない。悲しみを噛み殺しているに違いない。
なぜなら、他人がどんなに「無駄飯喰らい」と強右衛門を嘲っても、どんなに太鼓腹が膨れても、決して城から追い出そうとはしない。
追い出すどころか、「他人を笑顔にする才覚がある」と褒めてくれる。
こんなに心根の優しい殿が、おふう殿を殺されて平気の訳がない。
きっと、泣いている。人目の届かぬ所で泣いている。
「殿っ!」
強右衛門は顔を上げた。
「某に天賦の才などござりませぬが、殿をずっと笑わすことなら、できまするっ!」
「強右衛門……」
信昌は、小さく応えた。強右衛門は、ニカッと笑った。
「歌いまするっ!」
強右衛門は立ち上がった。
〽 無駄飯喰らいの足軽は~ 手柄なぞより米が欲しい~
〽 喰うて太って太鼓腹~ ますます肥えるぞ強右衛門~
自分を馬鹿にする歌ではあったが、強右衛門は景気良く歌った。
歌い終わるや、前を見た。
笑いつつも、信昌の目尻には涙が光っていた。
「あまり自分を卑下するな、強右衛門」
「いえいえ、殿」
強右衛門は、首を横に振った。
「某、この歌が大好きにござりまする」
「よおっ、強右衛門! おはよう! たらふく朝飯は喰ってきたか?」
おちょくりの混じった問い掛けに強右衛門は「ガハハッ」と豪快に笑いつつ
「おおっ、喰うた喰うた。ほれ、腹はこのとおりよ」
太鼓腹をポンポンと威勢良く叩くと、周囲の賑やかさに拍車が掛かった。
「ワハハハッ! いい音だな! この調子でもっと肥えて、もっといい音、聞かせろよ!」
「ああ、期待に沿えるよう、たんと喰うてやるぞ」
「おいおい、まだ太る気かよ、強右衛門。あまり太ると、戦場で走れなくなるぞ」
「ならば、転がってしんぜよう」
「なんだあ? 大玉にでもなる気か?」
「大玉ではのうて、大岩よ」
「ぷうううっ、そんなブヨブヨした岩があるかよ!」
太鼓腹を擦って「ちげえねえ」と呵々大笑の強右衛門。周りも釣られて爆笑した。
「賑やかだな、強右衛門」
城内に上がると大広間に、にこやかな花が咲いていた。強右衛門の主、奥平信昌だった。
強右衛門は慌てて胡坐をかき、平伏した。
「これは殿、おはようございまする。朝から騒々しくて誠に申し訳ございません」
「構わぬ。其方がいると、儂も心が晴れやかになる」
「左様……にござりまするか?」
強右衛門は訝し気に応えた。信昌は笑った。
「ああ、真じゃ。其方には他人を笑顔にする才覚があるようじゃ」
「滅相もありませぬ!」
強右衛門は大いに畏まった。
「そ、某には左様な天賦の才はござりませぬ!」
「左様に平伏さずとも良い。顔が板の間に着いているではないか」
信昌は笑顔を絶やさなかった。強右衛門は返答に困った。
なんと応えれば良いのだろう。強右衛門が当惑している間に、信昌が口を吐いた。
「其方のような家臣がいてくれるお陰で、儂は毎日を笑おうておられる。辛い記憶から立ち直ることができるのじゃ」
ハッとした。強右衛門の背中から、途端に大量の汗が噴き出てきた。
主である奥平信昌が背負うた悲惨な過去を、強右衛門は知っていた。
戦国時代。弱小国がより強い勝馬に乗るのは当たり前の世の中。
情勢有利と考えた奥平家は、それまで属していた武田軍に見切りを付け、織田・徳川軍に味方した。
信昌は、武田家に人質として預けられていた前妻おふうと離縁し、徳川家康の長女・亀姫と婚約した。
「殿、亀姫様にお会いになられたことは?」
強右衛門の問いに、信昌は力なく首を振った。
「ない。所詮は、政略による婚姻に過ぎぬ」
「なんと……奥方様になられる相手の顔を、まだ知らぬとは」
強右衛門の驚きに、信昌はフッと寂しく笑った。
天正元年(1573年)9月、武田勝頼によって、おふうは殺された。まだ16歳だった。
国を守るためとはいえ、「信昌は夜叉になった」と、家臣の中には蔑む者もいた。
信昌は、何も言わなかった。
が、強右衛門には、わかっていた。殿が平気でいる訳がない。悲しみを噛み殺しているに違いない。
なぜなら、他人がどんなに「無駄飯喰らい」と強右衛門を嘲っても、どんなに太鼓腹が膨れても、決して城から追い出そうとはしない。
追い出すどころか、「他人を笑顔にする才覚がある」と褒めてくれる。
こんなに心根の優しい殿が、おふう殿を殺されて平気の訳がない。
きっと、泣いている。人目の届かぬ所で泣いている。
「殿っ!」
強右衛門は顔を上げた。
「某に天賦の才などござりませぬが、殿をずっと笑わすことなら、できまするっ!」
「強右衛門……」
信昌は、小さく応えた。強右衛門は、ニカッと笑った。
「歌いまするっ!」
強右衛門は立ち上がった。
〽 無駄飯喰らいの足軽は~ 手柄なぞより米が欲しい~
〽 喰うて太って太鼓腹~ ますます肥えるぞ強右衛門~
自分を馬鹿にする歌ではあったが、強右衛門は景気良く歌った。
歌い終わるや、前を見た。
笑いつつも、信昌の目尻には涙が光っていた。
「あまり自分を卑下するな、強右衛門」
「いえいえ、殿」
強右衛門は、首を横に振った。
「某、この歌が大好きにござりまする」
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
3
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる