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第一章
風雲急
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5月に入った。
穏やかな日々が続いていたが、風雲は急に告げられた。
昼四ツ(午前10時)、信昌が閑所(書斎)で書物を読んでいる時だった。
「殿、一大事にござりまする!」
重臣の松平弥九郎景忠の慌てた声が所内に飛び込んできた。
景忠は、もともと徳川家康の家臣であったが、奥平と徳川との同盟を機に徳川から送られてきた。
景忠は信昌の人柄に惚れ込んで家康と同様に忠義を尽くす一方で、信昌は景忠の功績を讃えて重臣に取り立てた。
「如何した」
「武田が動きました!」
むうっ…… 信昌は一つ唸った。すぐに言葉が出なかった。
掌に大量の汗が浮かんだ。
戦神と讃えられた武田信玄が亡くなったのは、元亀4年(1573年)の4月。
それまで武田家に従属していた奥平家は、「潮目の変わり」と判断して徳川家康に寝返り、結果、武田家に人質として預けられていた前妻おふうは殺された。
が、継嗣の武田勝頼の怒りは、おふうを殺しただけでは済まない。いつか必ず矛先は我にも向けられるだろう。
想定の範囲内ではあった。
「遂に動いたか、勝頼め」
堂々と諱を口にした。前妻の敵め。
はなっから覚悟を決めていた信昌の言葉には覇気がこもっていた。
「評定(会議)を開く。急ぎ皆を広間に集めよ」
「ははっ」
景忠の言動は迅速だった。
間もなくして広間には、景忠をはじめとする十名ほどの家臣が集まった。
全員、顔が強張っていた。来るべき時が来た。固唾を飲む者の喉元から音が聞こえた。
信昌が上座に現れた。家臣一同、さっと平伏した。
信昌は命じた。
「皆、面を上げよ」
一斉に頭が上がった。全員の顔に静寂が貼り付いていた。
途端に、ぷううっと信昌は噴き出した。
「なんだなんだ、其方ら、いったい! 何をそんなに緊張しておるのだ!」
その場にいる者全員が呆気に取れらた。貴殿こそいったい、なんなのだ。
「と、殿、敵が攻めて来るのでござるぞ」
居たたまれなくなった景忠が、家臣を代表して口火を切った。
「んなことは、わかっとる」
信昌は笑顔を絶やさなかった。
「じゃが、今さらジタバタして如何する。わかり切っていたことではないか、儂が武田から徳川様に寝返ったのだから」
確かに家臣一同が、この日を覚悟していた。
寝返った者が、裏切った者が、元の主からどのような仕返しを受けるのかも。
「して、敵の数は、いかほどか」
信昌の軽やかな口調に些か狼狽しながらも景忠は応えた。
「1万は超えるかと」
「ほお、数で物を言うてきたか、腰抜け勝頼め」
信昌の悪口に景忠は慌てた。
「と、殿、相手の大将は、戦神、甲斐の虎と称された信玄公の嫡男にござるぞ」
「はんっ、バカバカしい。それがどうした」
信昌は吐き捨てた。
「左様に呼ばれていたは親父殿であろう。息子は神ではない。虎ではのうて猫かもしれぬぞ」
「猫とはまた……」
「そうでなければ、儂らの如き弱小集団に1万もの軍勢を送ろうとはしまいて。勝頼は恐れているのじゃ。この長篠の城を」
ガハハハと信昌は高笑いした。評定に参加する誰もが、ポカンとした。どういうことだ、この明るさ。
と同時に、誰もが気付いた。殿の、あの口調、あの立ち居振る舞い。誰かに似ている。
そうだ、強右衛門だ。
「武田の軍勢は、今いずこじゃ」
信昌の問いに景忠は即答した。
「今しがた城を出たばかりかと」
「そうか」
信昌は、ニンマリとした。
「この城に集まる手勢は、せいぜい500じゃ。まともに対峙しては到底勝ち目はない。よって、籠城する」
初めて告げられた具体的な作戦に、評定の全員が頷いた。異論を唱える者は誰もいない。
「水と食糧を大量に備えておけ。それと、この戦に参じる者ら全員に伝えよ」
信昌の声が張り詰めた。
「家族との時間を大切にしてから城に参じよ、と」
この時、信昌を含めた全員が、死を意識した。
穏やかな日々が続いていたが、風雲は急に告げられた。
昼四ツ(午前10時)、信昌が閑所(書斎)で書物を読んでいる時だった。
「殿、一大事にござりまする!」
重臣の松平弥九郎景忠の慌てた声が所内に飛び込んできた。
景忠は、もともと徳川家康の家臣であったが、奥平と徳川との同盟を機に徳川から送られてきた。
景忠は信昌の人柄に惚れ込んで家康と同様に忠義を尽くす一方で、信昌は景忠の功績を讃えて重臣に取り立てた。
「如何した」
「武田が動きました!」
むうっ…… 信昌は一つ唸った。すぐに言葉が出なかった。
掌に大量の汗が浮かんだ。
戦神と讃えられた武田信玄が亡くなったのは、元亀4年(1573年)の4月。
それまで武田家に従属していた奥平家は、「潮目の変わり」と判断して徳川家康に寝返り、結果、武田家に人質として預けられていた前妻おふうは殺された。
が、継嗣の武田勝頼の怒りは、おふうを殺しただけでは済まない。いつか必ず矛先は我にも向けられるだろう。
想定の範囲内ではあった。
「遂に動いたか、勝頼め」
堂々と諱を口にした。前妻の敵め。
はなっから覚悟を決めていた信昌の言葉には覇気がこもっていた。
「評定(会議)を開く。急ぎ皆を広間に集めよ」
「ははっ」
景忠の言動は迅速だった。
間もなくして広間には、景忠をはじめとする十名ほどの家臣が集まった。
全員、顔が強張っていた。来るべき時が来た。固唾を飲む者の喉元から音が聞こえた。
信昌が上座に現れた。家臣一同、さっと平伏した。
信昌は命じた。
「皆、面を上げよ」
一斉に頭が上がった。全員の顔に静寂が貼り付いていた。
途端に、ぷううっと信昌は噴き出した。
「なんだなんだ、其方ら、いったい! 何をそんなに緊張しておるのだ!」
その場にいる者全員が呆気に取れらた。貴殿こそいったい、なんなのだ。
「と、殿、敵が攻めて来るのでござるぞ」
居たたまれなくなった景忠が、家臣を代表して口火を切った。
「んなことは、わかっとる」
信昌は笑顔を絶やさなかった。
「じゃが、今さらジタバタして如何する。わかり切っていたことではないか、儂が武田から徳川様に寝返ったのだから」
確かに家臣一同が、この日を覚悟していた。
寝返った者が、裏切った者が、元の主からどのような仕返しを受けるのかも。
「して、敵の数は、いかほどか」
信昌の軽やかな口調に些か狼狽しながらも景忠は応えた。
「1万は超えるかと」
「ほお、数で物を言うてきたか、腰抜け勝頼め」
信昌の悪口に景忠は慌てた。
「と、殿、相手の大将は、戦神、甲斐の虎と称された信玄公の嫡男にござるぞ」
「はんっ、バカバカしい。それがどうした」
信昌は吐き捨てた。
「左様に呼ばれていたは親父殿であろう。息子は神ではない。虎ではのうて猫かもしれぬぞ」
「猫とはまた……」
「そうでなければ、儂らの如き弱小集団に1万もの軍勢を送ろうとはしまいて。勝頼は恐れているのじゃ。この長篠の城を」
ガハハハと信昌は高笑いした。評定に参加する誰もが、ポカンとした。どういうことだ、この明るさ。
と同時に、誰もが気付いた。殿の、あの口調、あの立ち居振る舞い。誰かに似ている。
そうだ、強右衛門だ。
「武田の軍勢は、今いずこじゃ」
信昌の問いに景忠は即答した。
「今しがた城を出たばかりかと」
「そうか」
信昌は、ニンマリとした。
「この城に集まる手勢は、せいぜい500じゃ。まともに対峙しては到底勝ち目はない。よって、籠城する」
初めて告げられた具体的な作戦に、評定の全員が頷いた。異論を唱える者は誰もいない。
「水と食糧を大量に備えておけ。それと、この戦に参じる者ら全員に伝えよ」
信昌の声が張り詰めた。
「家族との時間を大切にしてから城に参じよ、と」
この時、信昌を含めた全員が、死を意識した。
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