命のたまご

いすみ 静江

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第七章 大学院の不死鳥〔平成〕

29 あたたかい光

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  1 情

 ――一九九六年七月。

 菫は、予定日を随分とオーバーして、男の子を産んだ。
 櫻は、慧が菫を送迎する為に、幾週も会えなかったので、どん底にいた。
 大学院へは、毎日通うと決めていたのに、それができなくなって、食事もろくにとれなくなっていた。
 米は一回に半合炊いても二食になるので、炊きにくかった。

「慧ちゃん、私ね。お見舞い? お祝いに森総合病院へ行くわ」
「そうか。大丈夫か?」

 翌日は日曜日。
 櫻は、菫のいる病院に電車で行った。
 待ち合わせた慧と合流し、病室を探していると、廊下で可愛い新米ママと会った。

「さーちゃん、こちらが菫なんだ。そして、菫、こちら夢咲櫻さん」
「初めまして。菫さん。えっと、おめでとうございます」

 挨拶もそこそこに、赤ちゃんの沐浴をすると菫が消えて行った。
 何がめでたいのか。
 おめでたいの間違いではないかと櫻は困惑した。

 帰りは慧がチェリーブロッサム六〇三号室迄、車で送ってくれた。

「ただいま」

 自分でただいまをした後で、折り返し帰る慧に櫻は胸を痛めていた。
 むかむかして、吐き気がし、トイレにこもってゲーゲーしてみた。
 胃液みたいなものしか出なかった。
 歯磨きをしたら、おえっとなり、再び吐いた。
 お腹も痛くなり、下痢になる。
 息も苦しく、喘息気味になった。
 のぼせてしまってくらくらする。
 ずりずりと四畳半に出る。

「け、結婚……。しませんか?」

 櫻からだった。
 勢いだ。
 口にハンドタオルを当てて、顔もゲッソリだ。
 最悪にダサい。
 ふ、振られたら……。
 おしまいだ。

「そんなに、具合が悪くて、あの病気にも罹ったのだものな……」

 慧は、薬の副作用で、乳汁がついた櫻のうさぎさんパジャマを洗って部屋に干した。

「一緒に役場に行く? 夢咲櫻さん」
「え? 役場? 役所じゃなくて? ああ、村役場か……」

 櫻は、ごろごろしていたのを起き上がり、ちゃぶ台の前に座った。 

「はい。絹矢慧さん。えーと、な、何かプロポーズの言葉はないのかな?」
「二年前に言いましたー」

「がちーん。じゃあ、私、吐きながらなんて空振りだわ」

 櫻と慧は、結婚を決めた。

 その後、慧は、アニメ研の人を女性も呼ぶと譲らないので、櫻は、あの女の事を思い出してイライラしていた。

「披露宴に男性側に女性の友人は呼ばないのがマナーだよ」
「俺が呼ばなかったら、向こうが俺を呼べないだろう? 友達なんだよ」

 この会話はループした。
 結婚ってストレスが高いらしい。

 ――一九九六年九月十六日。

 まだ、じんわりと夏の湿り気の残った風が頬を流れた。
 入籍だけにした。
 仲人はいなければならないとの善生の言葉で、絹矢家の親戚の方に頼んだ。
 婚姻届に記名、印などを貰っていた。
 二人で、村役場に届けた。

「あー。ざわつくけれども、胸がすっとするね。慧ちゃん」
「俺もどきどきしあわーせだよ! ひゃっほい」

 大安のその日、愛志も菫もおらず、両家の両親と本人達だけで、お食事をした。
 櫻は、胸やけがするので、サラダが美味しいとばかり食べていた。

 この日、夫婦になったのだから、契りがあるのかと櫻は思っていたが、慧から空振りされた。

「今日はいいよ」

 やんわりと気遣いか、慧の部屋に一緒に眠っただけだった。

 ――一九九七年一月。

 学校の英文の発表の時、さりげなーく、絹矢櫻にして原稿のコピーを配ったら、気付かれてしまった。

「おめでとう、絹矢さん」
「あ、ありがとう……」

 ――一九九七年四月。

 櫻は、大学院の二年に進級した。
 単位は卒業論文を残すのみとなった。 
 大学院と慧の仕事場との中間距離にあるあけぼの市に部屋を借りた。

「二人っきりのあたたかい生活が始まるね、慧ちゃん」
「もう、夫婦だから、安心していいんだよ。さーちゃん」

「えへっ」
「……キスしてもいい?」

「う、うん……」
「ちゃんと愛していますよ……」

 しかし、とわだ大学大学院までの高い定期券を買ったが、通ったのはわずかになる。

 櫻の地獄と慧の優しさの日々に襲われた。
 慧の情がしみいる櫻だが、菫や名前も忘れたファミレスの女と心で闘っていた。
 櫻が男女の仲を知ってもまだ、解決できない深い溝らしい。

  2 ひだまり

 櫻は、具合が悪くなり、通っていた愛の家病院を市立あけぼの病院に変えた。
 時間を掛ければ歩いて行ける所だが、櫻にはそれすらも重い道だった。
 この病院の姫田真理ひめだ まり先生を櫻は気に入っていたが、慧は櫻と生きる厳しさを叩きこまれた先生の印象しかない。

 二人は、闘病の嵐の中を生きた。
 櫻が入院すると、薬が合わずに夜に歩き回るので看護師にベッドに縛り付けられたが、それでも歩くので看護師に叱られた事もあった。
 薬の調整で幾度も入院し、慧がテレフォンカードを持たせてくれた事もあった。
 櫻の顎が動かなくなり、玩具入りチョコレートばかり食べてレタスなど大好きなサラダが食べられなくなった時、補綴ほてつ科の紹介で、四国の病院迄通った事もあった。
 辛過ぎる事は、すっかり忘れてしまった。

 櫻の幸せは、慧。
 慧がいないと生きて行けない。
 慧に甘えてばかりだ。
 慧に餌付けされてしまった。

 ――一九九九年九月。

 ドクターストップが掛かっていたが、櫻は復学した。
 冬場、雪だるまになっても通った。
 慧は、櫻が通うのにあけぼの駅迄送迎をしてくれた。
 どんなに遅くなっても電車を逃した櫻を大学院迄迎えに行ってくれた。
 慧のあたたかさを垣間見、申し訳なく感じた。
 復学したら、他の学生も優しかった。
 感じ方一つかも知れないけれども。

 ――二〇〇〇年三月。

 櫻は、恩師の北倉道助きたくら みちすけ教官と修士論文をまとめ上げられた。

「絹矢くん。実験は再び最初からとなったが、コッホの四原則を満たしている。休学したから成功に導けたのではないか」

 北倉先生は、そこまで仰ってくださった。
 夢だった大学院を無事修了した。
 しかし、大学院の北倉先生をはじめ学生の皆さまや慧の力がなかったらなせなかった事だと感謝をしている。

 ――二〇〇〇年四月。

 卒業後、二人は慧の実家のある村で暮らした。
 その後、慧は櫻に課題を出す。
 仕事帰りに慧は、買い物をして来てくれる。

「焼くだけのパックだよ。千円で三日持つんだから、安いよね。がんばって、焼いてごらんよ」
「は、はい……」

 どうも気が滅入る。
 キッチンに立ち、フライパンを振るう。
 何とか火が通ったかな?

「召し上がってくださいな」
「うん。大丈夫」

「大丈夫って、何? まずかった?」
「食べられるよ」

「じゃあ、褒めてよ」
「いい子ねー」

 赤ちゃんじゃないもん。

「じゃあさ、母さん達と散歩をして来なよ。一時間位は歩かないと体によくないよ」
「今、慧ちゃんと会えたのに、私が出掛けるの? 一緒にいたいぶー」

「はいはい。太っちゃうよ」
「それは、困るでぶー」

 慧は、少しずつ櫻の自立を促して行った。

 そんな慧の情があたたかい。

 ひだまりの様なあたたかさだった。
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