画仙紙に揺れる影 〜幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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3章

13、画道の行く末③

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 画紙の上の面相筆が、動きを止めた。
 根本は咥えていた絵筆二本を畳の上へ吐き出し、顔を上げる。

「この紅辰砂の絵の具を調合した者は誰ぞ! 顔料の練りが足らんし、膠は多すぎる。膠の溶き方もなっておらん。こんな気の抜けた膠で、絵が描けると思っておるのか!」

 握った絵筆を振り回す根本の手から、血の色が飛び散る。爛々と眸が耀き、口角に白い泡が噴き出していた。
 手を入れていたのは歌川広重の花鳥画『紫陽花に鶏』の写しで、鶏冠とさかの赤の色味を直していたのだ。

「何度も教えたはずだが、膠は多すぎては絵の具が剥がれて浮き上がる。少なすぎては絵の具が紙に着かずに落ちる。模写であろうと下絵であろうと、膠と顔料の配合には、常に気を入れよと言っておるはずだ。こんな絵の具では、描く気が失せるわ!」

 大音声で弟子らを叱った根本は、しばらく肩で息をしていた。
 穏やかな根本をこれほど怒らせるいい加減な絵の具の調合をしたのは、要之介しか考えられない。姿を探したが、いつの間にか要之介は画室からいなくなっていた。

「よいか、明日は膠加減と絵の具配合の初歩を改めて教える。皆、心して学び直すがいい」

 明日は、稲升の屋敷で屏風絵本画の色つけがある。そちらが本業なので行くつもりだったが、膠と絵の具の調合指南を今ひとたび根本から学べるとあれば、この屋敷に来るしかない。
 いくら教えても終わりがない、困ったもんよ、そうぼやいて腹を擦りながら根本は画室を出ていく。
 誠三郎は廊下に出て、要之介の姿を探した。
 厠にでも行ったのかと見まわしたら、要之介は裏庭に面した廊下の端で粉本数枚を手にし、日に透かして目を凝らしていた。

「なにをしておる?」

 誠三郎が声をかけても、要之介は画仙紙から目を離さない。

「誠三郎よ、画仙紙はよく見ると色合い、厚み、素材まで物によってまったく異なっておるのだな。知っておったか」
「ああ、江戸で描かれた粉本は江戸市中に出回っておる紙を使っておろうから、因州の和紙ではなかろう。美濃和紙や越前和紙が、上物として知られておる」 
「紙は漉き方によっても変わるのだな。あの小屋での紙漉きは愉快であった。またやってみたいのだが、佐治谷へ行かぬか?」
「あの納屋は凍えるように寒かったが、また行くのか。冷え込む前に行くか」
「おれは寒くても構わん。そんなことを言っておると、またあの娘に笑われるぞ。お武家はそんなんで勤まりんさるんか、ってな」

 あさとか言ったな、あの小娘は、と言って要之介は紙の手触りを比べながら鼻を鳴らして笑う。
 誠三郎は紅辰砂の調合をしたのが要之介かどうか聞こうとしていたが、どうでもよくなった。要之介は根本家に通ってはいるが、絵師修行をしているわけではないので、絵の具の調合を身につける必要はない。

「おい、誠三郎、これを写してみたか」

 根本が廊下に出てきていた。顔がやや蒼褪めている。
 手にしているのは、錦絵だった。歌川国芳と川鍋暁斎のものである。よく見ると、根本による粉本ではなく売られている色版画であった。

「暁斎の絵は一枚写しましたが、国芳はまだでして」
「国芳も描いてみるがいい。誠三郎は錦絵をどう思う? 町絵師は摺り物が当たれば儲かるぞ。わしは実のところ、江戸で錦絵の版下絵師になりたかったのだ。地本問屋では、まず絵師が描いた下絵を版木に貼り、墨一色の主版を彫師が彫るのだ。下絵師が色挿しを決めれば、一色ごとに彫師が色版を彫りあげ、摺師が色を摺り込んでいく。分業して摺り上げられる錦絵を見ていると、わが絵がこうやって色鮮やかに何百枚と産み出されていったら、どんなにか愉しかろうと思うた」

 庭の松の木に顔を向けているが、根本の眼差しは宙を彷徨い、松の枝ぶりは目に映ってはいない。江戸の地本問屋で錦絵が摺られる様を、思い起こしているのだ。
 こちらを見返って片頬だけ上げ、肩を竦めた根本は声を潜めた。

「まあ、錦絵も検閲を受けて改印を得ねば摺って売ることができんし、藩のお抱え絵師が、案外好きに絵が描けるとも言えような」

 根本から渡された国芳の絵は、『相馬の古内裏』で三枚続きの大判錦絵だった。
 平将門の遺児、滝夜叉姫が妖術を操って呼び寄せた骸骨と、それを成敗に来た若武者の大宅太郎光圀が戦う場面を描いた絵で、山東京伝の読本『善知うとう安方忠義伝』にもとづいている。
 画面半分を占めて巨大に誇張して描かれた骸骨だが、細部まで精巧に描かれ、なんとも奇怪で鬼気溢れる迫力を生じている。

「読本の挿絵や瓦版に添える絵も、これからはもっと稼げるようになろう。江戸では、絵でいくらでも商いができる。これからご公儀や藩もどうなるか知れんが、異国との商いは盛んになる一方だ。南蛮人は、浮世絵を大層欲しがると聞くぞ」

 見終わった錦絵を返そうとしたが、根本は絵を押し戻してくる。ちらと触れた指先がひどく冷たかった。

「これは誠三郎が持っておれ。わしは数枚写してある。摺り物にいくつ色が使われておるか、数えてみるがいい。限られた色数の中でどの色を使うかは、絵師が決めるのだ。……目の前で見た事物、風景を描くだけでなく、聞き及んだ出来事、物話として読んだ珍奇な世界を絵に描くというのも、修練の要る画技である。これからはそのような技が、身を立てるのに役立つ世となろう」

 根本は誠三郎の肩をぽんと叩いてから、要之介を振り返った。

「要之介は、紙ばかり気になるようだな」
「佐治谷に紙漉きをしに行きたいので、用事はござらんか?」

 そうじゃのう、と首を傾げながら根本は要之介の顎先を撫でた。

「急ぎの紙の注文はないな。要之介にはまた、像主を勤めてもらいたいものよ」

 廊下に出てきた雪峨に呼ばれ、根本は画室に戻っていく。
 昼下がりの日差しが翳り、裏庭を吹き過ぎる北風は一段と冷えてきた。

「ちょっと暖まらせてくれ」

 そう言って要之介は荒っぽく懐に顔を寄せてきて甘える。廊下に人影がないか見回しながら、誠三郎は首筋をぼりぼりと搔き毟った。

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