煩悩と狗は追いかけ去らず

さか【傘路さか】

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 龍屋との会話が終わって、尾上は撮影ルームを出て行く。見送りのためか龍屋も一緒に部屋を後にした。

 ふと、尾上が座っていた椅子を見ると、何かが置いてある。たっと地を蹴って椅子に跳び乗ると、携帯電話が置きっぱなしになっていた。勿論、俺のものではない。

 噛んで持ち上げるわけにもいかず、俺はまだロックされていないペット用のドアをくぐり、更衣室に飛び込んだ。姿を人に戻し、記憶にないほど急いで服を着ると、撮影ルームに戻って携帯電話を引っ掴む。

 大股に廊下を駆け抜け、玄関付近まで近付く。鼻先に、覚えのある香水の匂いが届いた。ばっと匂いの元へと顔を向ける。

 休憩スペースにある自販機の傍で、缶コーヒー片手に佇んでいる尾上の姿があった。

「あの、すみません。携帯電話、落とされませんでしたか?」

 俺が握っていた物を見ると、彼は目を見開いた。ぽん、と携帯電話を仕舞っていたポケットを叩く。

「ああ、僕の物です。……落としてしまったみたいだ」

 ほっとしたように携帯電話を受け取ると、待ち受けの画像を確認している。間違いなく彼のものであったようで、そのままポケットへと仕舞った。

 俺はほっと息を吐く。

「良かったです。では……」

 その場を去ろうとした腕が、目の前にいた人の掌で捕らえられる。俺が掴まれた腕を持ち上げると、目の前の人はにこりと笑っている。

 犬を前に怯えていた様子とは、全く違った顔つきをしていた。

「届けてくれてありがとう。ジュースでも奢るよ、何がいい?」

 彼は自分の缶を近くのテーブルに置くと、自販機の前に立った。小銭を入れ、どうぞ、と掌で示す。

 運動しすぎてぐったりとした俺は、ぺこりと頭を下げてスポーツドリンクのボタンを押した。ガコン、と音がして、ペットボトルが落ちてくる。

「ありがとうございます。いただきます」

 飲み物を持ったまま立ち去ろうとすると、また腕が掴まれた。今度はあからさまにぶらぶらと振るのだが、力の篭もった指は離れない。

 目の前のその人は、機嫌が良さそうに口角を上げている。

「次の仕事で忙しい?」

「いえ、今日の予定は、既に終わっていますが……」

 正確に言うのなら、今しがた終わったばかりなのだが。尾上の、にっこり、が更に深くなった。

「次の予定までの時間を潰していた所なんだ。飲み終わるまででいいから、付き合ってよ」

「はぁ……。いい、ですけど……」

 表面上は無関係とはいえ、バイト代の支払い主を邪険にすることは憚られた。手招きされるがまま、彼の近くに腰掛ける。

 ペットボトルの蓋を開け、ごっと喉に流し込んだ。潤いが戻ってくる。

 ぷは、と息を吐くのを、尾上が見ていた。シロを見ていた時と、同じ目をしていた。

「僕のこと、わかる?」

「尾上、さん」

 俺が答えると、尾上は嬉しそうに唇をゆるめた。

「流石に、知ってますよ」

「嬉しいな。僕、今日はここに犬に慣れるために来たんだ。君、はここのスタッフ?」

「はい。戌澄です」

「ああ。君が……」

 名前を知っている様子なのが気になった。龍屋が何かの話の時にでも挙げたのだろうか。俺は人としてもこの動物プロダクションに所属しており、肩書きは事務方のスタッフで、シロの飼い主だ。名刺入れから名刺を差し出すと、尾上は両手で受け取った。

 返す名刺は持っていないようで、俺のそれはパスケースに仕舞われている。

「僕はあいにく手持ちがなくて。ごめんね」

「いえ、芸能人だと無闇に渡さない方がいいと思います」

 気を遣ってそう言ったのだが、いや、と彼は俺の言葉を否定した。

「持っていたら、渡したかったんだけどな。そうだ、連絡先を交換しようよ」

 先ほど届けたばかりの携帯を振る様子に、身体の前で手を振る。

「いえ、要りません。尾上さんのうちのプロダクションへの依頼とも、俺は関係ありませんし……」

「あれ? シロくんの飼い主じゃなかったの?」

 え、と俺は声を漏らす。プロダクション内での表向きの関係通りではあったが、なぜ尾上が知っているのだろう。

「他のスタッフが、お伝えしていましたか?」

「最初の打ち合わせの時にヒアリングをしてくれた人が奥に引っ込んだとき『戌澄に相談』というような事を言っていのを覚えていて。あと、服に白い毛が……」

 尾上は骨張った指先を伸ばすと、俺の服の裾から犬の毛を摘まみ上げた。ちょうど濃い色のシャツを着ていたから、目立ったのだろう。犬に変化する時に付着してしまったらしい。

 彼は立ち上がり、几帳面にゴミ箱に毛を捨てると戻って来た。

「シロくんにはお世話になる予定だし、関係が深い人だったらご挨拶しておきたいな、と思ってね」

 強引と思えるほどの誘い方が、真面目な動機から来たものだったとは意外だった。ぽかんとペットボトルを握り締める。

「シロくんは賢いね。とてもしっかり躾がされている」

「あ、ありがとうございます」

 当人なので戸惑ったが、顔に出ないように振る舞う。

「僕は、犬が苦手で。ボールで遊びたがっていたのに、独りで遊ばせてしまって申し訳なかったな」

「ひとりでも楽しんでた……ん、でしょうから大丈夫です。あの、今回の依頼の概要、は聞かされてはいるんですが、犬が苦手な理由、を詳しくお伺いしてもいいですか? その。シロが努力して解決することなら、と……」

 真剣に言葉を選ぶ。

 尾上は気を悪くした様子もなく、渇いた喉を茶色の液体で潤した。苦ったらしいそれが、喉を潤せているのかは疑問だったが。

 コン、と缶の底がテーブルを叩く。

「子どもの頃に、公園近くの家に中型犬がいたんだ。きちんと番犬の役割をしていた子で、あまり近付きすぎると唸られていた。その家にね、垣根を越えて、ボールが入ってしまって。入れてしまったのが僕だったんだよ」

 彼の指先は缶の縁にあたり、器用にゆらゆらと缶を揺らす。倒れはしないが、はらはらと指先を見守った。

「勿論、拾いに行ったんだけど、あいにく家主は留守だった。ボールは犬小屋の近くにあって、その近くに餌もあった。無闇に近付いて噛まれて、外そうとして力を込めてしまったから、怪我をしてしまった」

 彼は、このあたり、と手首の裾を捲ってみせた。元々の傷も浅かったのだろう。薄くなっているのか、何かの傷痕があったことすら分からない。

「それからもその犬は、ずっとその家を守り続けたよ。両親も許可無く家に入ったこちらが悪い、という考えだったし、傷といっても小さくて、大ごとにするほどじゃなかった。大人達の間で話し合いが持たれて、それで終わり」

 ほっと胸を撫で下ろす。噛んだとはいえ、侵入者への対応で犬側に責任を問うのは気分が悪い。

「でも、僕は子どもの頃、彼が眠っているところをよく眺めていたんだ。ふかふかの毛並みが綺麗な、とても好きな子だったから、唸られて噛まれて、ショックでね」

 何だろうな、と彼は自問する。

「好きだった子に、同じだけの愛情を返して貰えなかったことがトラウマなのかな。犬を前にすると脚が竦んで、触れなくなってしまう。可愛い、とは思うんだけどね。シロくんも」

 飼い犬を褒められた筈なのに、ぼうっとして反応が遅れてしまった。ああ、と無味乾燥な声を返し、口元に指先を当てる。

 大好きだった犬に、愛情を返して貰えなかったこと。唸って脅され、噛んで傷付けられたこと。犬としての俺は、どうやったら彼のトラウマを乗り越えさせられるのだろう。

 じっと考え込んでいると、目の前で手を振られた。つられて顔を上げる。

「真剣に考えてくれているの?」

「そりゃあ……。シロの仕事ですから」

 過去を思って固くなっていた表情が、少しだけ柔らかくなったように思えた。美貌があまりにも眩しくて、つい視線を逸らす。

「……今の話だと、犬に愛される経験が必要なのかな、と」

「ああ。そうかもしれないね、しかも、僕が気に入った犬に」

 喉が鳴る音が聞こえた。

「シロは、あんまり好みではないですか?」

「性格は好みだよ。聡くて人をよく見ている。でも、あの子は……」

 ふむ、と彼は首を傾ける。さらり、と耳から髪が落ち、皮膚の上を滑っていった。造形として整っている顔立ちの中でも、目立つ鮮やかな唇が、くい、と弧を描く。

 上がった唇の端から、覗く牙を幻視する。

「少し、か弱すぎるかな。力を掛けたら傷付けてしまいそうで怖い」

 くい、と持ち上げたコーヒーを飲み干すと、彼は立ち上がってゴミ箱へ缶を捨てた。椅子には戻ってこないまま、背後から俺の両肩に腕を置く。

 振り返ると、間近に人形めいた、愉しそうな顔があった。

「戌澄くんくらい、身体がしっかりした子ならいいんだけど」

 凹凸のはっきりした顔立ちは、光を背にして陰を落とす。くちびるは艶笑んでいるようなのに、目の奥が暗い。ひゅっと息を呑み込んだ。

 どく、と心臓が重く鳴る。

 慌てて日の下に駆け出すように、俺は一気に息を吸った。途端に頭が回り、この状況で最適な答えを導き出すに至る。申し訳ないと言うような、冗談を受けて僅かに困っているような、是でも否でもない顔をつくった。

「………………犬でなくて、申し訳ないです」

 はは、と堪えきれないかのように彼は笑い出した。ようやく日差しが届ききった、暗いところのない、太陽の下に引き出されたような表情だった。

 ごめんね、と肩が柔らかく叩かれる。

「冗談だよ。シロくんとは仲良くなれると思うから、僕も歩み寄る努力をしてみるね」

 時間つぶしに付き合ってくれてありがとう、と尾上は言葉を重ねると、こちらに背を向けて歩き出した。

 彼は、誰にも愛されるであろうポメラニアンより、体つきのしっかりした存在を望む。きっと、首輪を掛けて、ぐい、と引いてもぶれないような。

 そろ、と指先を首に当てて、首の真ん中を指で辿る。犬の姿ではなく、今の俺に首輪を掛けられるかと思った。怖いのは、間違いない。

 それでも、きゅ、と首を軽く引くような感覚は、ひどく先まで尾を引いた。




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