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彼と二度目に会ったのは、一週間後だった。会った、といってもシロの姿だ。同じように龍屋が手配をしてくれて、犬の俺と依頼人とで二人きりになった。
龍屋の去り際に、尾上が声を掛ける。
「今日は、戌澄くんはいますか?」
「え?」
龍屋は不意を突かれたように、今は白いポメラニアンである俺に視線を向けた。不味い、とあからさまに逸らし、尾上に向き直る。
「約束がありましたか? 今は不在ですが、あと三十分もしたら戻ると思います」
今日も触れ合いの時間は三十分だ。終わった後でしか、人としての俺は彼の前に姿を現せない。
龍屋の言葉に、彼は機嫌が良くなった。
「彼に、お礼をしたくて」
「……そういうことでしたら、この後、連れてきましょうか」
ふと龍屋を止めたいような気持ちになったが、声を上げるにも不自然すぎる。それに、尾上の前で怯えを掻き立てるような鳴き方をしたくなかった。
「お手間でなければ、お願いできますか?」
「大丈夫です。仲は良いので」
仲が良かったのか、といつも表情の乗らない友人の顔立ちを見ていると、龍屋はこちらにちらりと視線を向けて、部屋を出て行った。
二人きりになると、また尾上は椅子に座って動く様子はない。今日はボールで遊ぶ気力もないし、休んでいてもいいだろうか。とはいえ、給料が出ているのにさぼっているのは気が引ける。
俺はおもちゃ箱などがある棚に近寄ると、前脚を伸ばして立ち上がる。鼻先でがさがさと棚を漁り、毛繕い用のブラシの柄を咥えた。
身を翻し、ゆっくりと尾上へ近寄る。ぽとり、と彼の少し前でブラシを落とした。
「…………? 毛を整えて欲しい、かな?」
俺は促すように脚でブラシを掻いた。
尾上は恐るおそる近寄ると、手をめいっぱい伸ばしてブラシを持ち上げた。ブラシの先が、俺の毛を掠める。
近寄りはしないまま、そよそよと吹き付ける風のように、毛先がほんの少しだけ撫で付けられた。
彼を愛しているような態度を取るべきなのは分かっている。だが、あまりにも距離感が遠い。結局、床に置かれてしまったブラシを咥え、元の棚に戻した。
どうしよう、と一定の距離をとって尾上の周囲を歩き回る。彼のトラウマを改善させることが仕事なのに、今のところ俺は全くの役立たずだ。
ずりずりと這うように近付いて、足元でころんと寝転がった。
「…………遊んで欲しいの?」
クゥ、と肯定を示すように短く鳴いてみせる。
うぅん、と尾上の喉からは悩むような声が漏れ、指先が持ち上がった。だが、その指先は俺に伸ばされることはない。
開いた拳はまた握り込まれ、俺は寝転んだまま放置された。
「なんだか、気分が乗らない。というか、気持ちが追いつかない、というか……」
ぽつり、ぽつりと呟いて、尾上はまた黙った。俺はその場で立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めた。ほんのすこし、背中だけを彼の靴下に擦り付けながら丸まる。
傷付けるつもりはなく、友好の意思があることを示して、あとは時間が解決することに期待した。
エアコンの風がそよそよと毛を揺らしていく。機械音だけが僅かに響くような室内で、お互いの呼吸音だけが届いていた。視線が合うことはない、だが、視線が向けられているのはわかる。
そういえば、このあいだ覚えたはずの香水の匂いがしなくなっていた。いまは、尾上の生来の匂いが嗅ぎ取れる。
匂いに包まれているような、ゆったりとした時間は悪くなかった。うとうとと睡眠と覚醒を行き来していると、龍屋の迎えの足音が聞こえてくる。ばっと身を起こして、ドアの方に視線を向ける。
コンコン、と扉を叩く音がした。
「失礼します。…………少しは、慣れましたか?」
背中だけを足にくっつけている、俺の姿を見ての言葉だった。尾上の顔は、人としての俺に会う予定を取り付けた時の、あの表情に近いものに変化していた。
すこし。柔らかくなった、んだろうか。
「まだ、先が長い気がしますが。少しは」
俺は低い声を全身で聞き、龍屋に促されてペット用のドアをくぐった。そのまま更衣室に入り、身体を人のものへ変化させて服を着る。
鏡の前でぱさぱさと乱れた髪を直すと、更衣室のドアを開けて廊下に出た。扉の外には、龍屋が待っていた。
「なんで尾上に俺を会わせる、なんて言ったんだよ」
「は? いや、礼をされるようなことをしたんじゃないのか」
訳が分からない、と言うように目を白黒させている龍屋の肩をばしりと叩くと、散れ、とばかりに手を振る。
「次の仕事があるだろ。もういいよ、ご苦労様」
「ああ。…………じゃあ」
本当に次の仕事があったらしく、龍屋は撮影ルームとは別方向に歩いていく。俺はガシガシと頭を掻くと、さっきまでいた部屋へと向かった。
扉のドアに手を掛け、本当に会うべきか一瞬ためらう。ぎゅっと目を閉じて、勢いで扉を押し開けた。
「お待たせしました。ええと、お礼、でしたっけ?」
あたかも龍屋に聞いたかのように言う。うん、と尾上は立ち上がって、鞄から小さな紙袋を取り出した。
持ち上げられた袋はお菓子店のロゴのようで、差し出されたそれを受け取る。
「ありがとう、ございます。あの、でも飲み物も以前いただいたのに……」
「あぁ。ちょうどその店の近くを通る機会があって、折角だから買っていこうと思ったんだ」
袋の中を覗き込むと、クッキーで挟まれたサンドイッチのような形状の菓子が入っていた。
「バターサンド、嫌いじゃなかった?」
「……嫌いな人、少ないんじゃないですか。好きですよ」
よかった、と小さく彼が言った。
袋を見下ろす。ジュースも菓子も貰って、このままバイバイというのも気が引けた。
「……あの、次の仕事まで、まだ時間はありますか?」
「うん。もうちょっと時間を潰したいかな」
撮影ルームの予定は、これから先は入っていなかったはずだ。
「俺、コーヒーとか、飲みたいもの買ってきますよ。ここで食べませんか?」
「素敵なお誘い。でも、どうして?」
問いの答えは、俺自身も明確には持っていなかった。
「まだ、シロに完全に慣れた、という感じじゃないと龍屋に聞いたので。今日の様子でも聞かせて貰えないかと」
「真面目だなぁ。じゃあ、また相談させて貰おうかな」
粘着テープ式の掃除用具でソファを綺麗にし、そちらに腰掛けることを勧める。尾上が言葉に従ったことを視界に入れ、撮影ルームの扉に手を掛けた。
振り返ると、彼の視線はばちりと絡む。
「────飲みもの、何がいいですか?」
「コーヒー。無糖のやつ」
「甘いもの、苦手なんですか?」
「バターサンドが甘いから、バランスを考えてるだけだよ」
確かに、と呟くと、部屋を出た。最寄りの自販機に近付き、小銭を入れる。じゃらじゃらと金属音が落ちていき、灯ったランプを押した。
自分は、とラインナップを見て、無糖コーヒーに揃えた。普段なら、甘味がついているものを選ぶだろうか。
落ちてきた缶を両手に持つと、撮影ルームに戻る。手の裏でノブを下ろし、身体を使って押し開ける。
「お待たせしました」
小さいテーブルを寄せ、その上に缶を並べる。貰った菓子も袋から出して添えた。
ソファを勧めたものの、自分が座るとなると位置に悩む。犬の時とは反対に少し距離を置いて腰掛けた。尾上の眉が上がったが、何も言われなかった。
銀色の輪に爪を引っ掛けて、カシ、と缶を開ける。
「シロ、どうでしたか?」
口火を切ったのは、余計なことを言われないためだ。あの首輪を掛けられたような感覚は、癖になることを避けたい味だった。持ち上げて口を付けたコーヒーは、風味はあれど苦い。
尾上も、コーヒーのプルタブを引く。
「毛繕いをして欲しかったみたいで、ブラシを持ってきてくれたんだけど、気持ちが揺らいで、恐るおそるでしか整えてあげられなくて。それで、気を遣われちゃって、長いこと、僕の足元に身体を付けて寝転がっていたよ」
「それは、……あいつ、のんびりしていて。すみません」
シロのことの体で、俺の反省でもあった。もうちょっとやりようがあった筈なのに、次のステップに進められなかった。
亀の歩みのようなあの時間に、意味はあるのだろうか。
「いや、そうじゃなくて。聡い子だと言ったでしょう、シロは十分、自分の使命も分かっているし、いろいろと考えていると思うよ。視線がよく動くんだけど、全身で僕だけを見てくれる」
ほう、と彼の唇が綻んだ。
一見、ただ嬉しそうなだけの表情が、なんだか美しすぎて恐ろしい。造形の美というものは、根底に力を孕んでいる。
「戌澄くんと似ているね」
ばちり、とまた視線が合った。自然界で視線が合うというのは敵対の意を持つと聞いたことがある、同じように、俺は恐ろしくてやんわり視線を逸らした。
「似て、ますか」
「うん。君は、ほんとうに人をよく見るな、と思って。仕事とはいえ嬉しいよ、関心を持ってもらえることも、知ろうと努力してくれることも」
見ていることを、知られていた。ごくんと唾を飲んで、それでも喉が潤わない。びくびくと内心で怯えながら、視線を逸らせないでいる。
今もそうだ、視線を彼に戻して、また捕らわれる。
「でも、あんまり……結果が出ていません」
「それは……。僕も、どうしようかなと思っているところだよ。けれど、シロくん以外の犬に頼っても、あの子で無理なら、もう無理じゃないかという気がするね」
はは、と苦笑する口元から、白い歯が覗く。
俺は、何を視線で追っているのだろう。
「予定では、あと三回、の筈でしたが……」
「そうだね。あと三週、で初回の撮影が始まる。それまでに何とかしておきたいけど、スケジュールもまあまあ詰まっていて、シロくんを長いこと拘束するのもね」
一時間、の撮影ともなれば、長い、という印象だ。ただ、三十分が一時間になったところで、進展があるのかという気がしてくる。
映画の撮影までには、犬との触れ合いを自然なものにしなくてはならない。与えられた仕事とはいえ、費用もそこそこ掛かっている。結果が出ないのは心苦しかった。
「…………尾上さん、は、口は堅いですか」
転がり落ちた言葉に、俺自身が動揺する。
何を提案しようとしているのか、頭の端では分かっていた。彼がどう答えるかも想像できていた。
指先がめちゃくちゃに躊躇って、服の裾を握り締める。
「社会的な知名度もあるし、立場もあるよ。無闇矢鱈と、人の秘密は明かせない。明かした時、ペナルティも大きい。それに、性格的にもね、どうでもいいことにリスクを負うのは好きじゃないんだ」
距離を保っているはずなのに、隣にでも座っているかのような威圧感だった。いくら空気を作るのが仕事の相手とはいえ、あまりにも呑まれている。
唆されているように、口が滑る。
「空き時間にそちらの家に寄るか、俺の家に来てもらうことは、できますか。俺は時間の都合は付きやすいので、そちらの希望の時間でいいです」
「君の家に僕が行って迷惑が掛かるといけないから、僕の家がいいけれど。もしかして、シロくんを連れてこようとしてくれてる?」
こくん、と頷いた。もう、逃げられないことを悟った。
「元々、バイト代が破格すぎました。……から、協力します。けど、プロダクションには黙っておいて欲しいです。友人になったから、家に呼んだ。そういう建前にしてください。あと────」
力を込めると、視界がぶれた。何度も変化するのは力を使う。が、説明するのなら、このほうが早いだろう。
ばさばさと犬の身体の上に服が降って、もぞもぞとその隙間から這い出した。驚いて目を丸くしている尾上と視線が合う。
キャン、と犬の喉が高く鳴いた。
『俺が、シロなんです。すみません、黙っていて』
尾上は目を丸くしたまま、固まっていた。
俺は犬の喉を開いて、狗神の一族という存在と、自分のことを話し始める。耳には犬が鳴いているように聞こえるそれが、頭には人の言葉として伝わっているはずだ。
俺の言葉を聞く度に尾上の表情は真剣なものになり、色々な質問を経て、また人の姿に戻った。
全てが整合し、人から犬へ、犬から人へ、の変化を見た彼は、長い時間と対話を経て、俺という奇妙な存在を噛み砕いていった。
龍屋の去り際に、尾上が声を掛ける。
「今日は、戌澄くんはいますか?」
「え?」
龍屋は不意を突かれたように、今は白いポメラニアンである俺に視線を向けた。不味い、とあからさまに逸らし、尾上に向き直る。
「約束がありましたか? 今は不在ですが、あと三十分もしたら戻ると思います」
今日も触れ合いの時間は三十分だ。終わった後でしか、人としての俺は彼の前に姿を現せない。
龍屋の言葉に、彼は機嫌が良くなった。
「彼に、お礼をしたくて」
「……そういうことでしたら、この後、連れてきましょうか」
ふと龍屋を止めたいような気持ちになったが、声を上げるにも不自然すぎる。それに、尾上の前で怯えを掻き立てるような鳴き方をしたくなかった。
「お手間でなければ、お願いできますか?」
「大丈夫です。仲は良いので」
仲が良かったのか、といつも表情の乗らない友人の顔立ちを見ていると、龍屋はこちらにちらりと視線を向けて、部屋を出て行った。
二人きりになると、また尾上は椅子に座って動く様子はない。今日はボールで遊ぶ気力もないし、休んでいてもいいだろうか。とはいえ、給料が出ているのにさぼっているのは気が引ける。
俺はおもちゃ箱などがある棚に近寄ると、前脚を伸ばして立ち上がる。鼻先でがさがさと棚を漁り、毛繕い用のブラシの柄を咥えた。
身を翻し、ゆっくりと尾上へ近寄る。ぽとり、と彼の少し前でブラシを落とした。
「…………? 毛を整えて欲しい、かな?」
俺は促すように脚でブラシを掻いた。
尾上は恐るおそる近寄ると、手をめいっぱい伸ばしてブラシを持ち上げた。ブラシの先が、俺の毛を掠める。
近寄りはしないまま、そよそよと吹き付ける風のように、毛先がほんの少しだけ撫で付けられた。
彼を愛しているような態度を取るべきなのは分かっている。だが、あまりにも距離感が遠い。結局、床に置かれてしまったブラシを咥え、元の棚に戻した。
どうしよう、と一定の距離をとって尾上の周囲を歩き回る。彼のトラウマを改善させることが仕事なのに、今のところ俺は全くの役立たずだ。
ずりずりと這うように近付いて、足元でころんと寝転がった。
「…………遊んで欲しいの?」
クゥ、と肯定を示すように短く鳴いてみせる。
うぅん、と尾上の喉からは悩むような声が漏れ、指先が持ち上がった。だが、その指先は俺に伸ばされることはない。
開いた拳はまた握り込まれ、俺は寝転んだまま放置された。
「なんだか、気分が乗らない。というか、気持ちが追いつかない、というか……」
ぽつり、ぽつりと呟いて、尾上はまた黙った。俺はその場で立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めた。ほんのすこし、背中だけを彼の靴下に擦り付けながら丸まる。
傷付けるつもりはなく、友好の意思があることを示して、あとは時間が解決することに期待した。
エアコンの風がそよそよと毛を揺らしていく。機械音だけが僅かに響くような室内で、お互いの呼吸音だけが届いていた。視線が合うことはない、だが、視線が向けられているのはわかる。
そういえば、このあいだ覚えたはずの香水の匂いがしなくなっていた。いまは、尾上の生来の匂いが嗅ぎ取れる。
匂いに包まれているような、ゆったりとした時間は悪くなかった。うとうとと睡眠と覚醒を行き来していると、龍屋の迎えの足音が聞こえてくる。ばっと身を起こして、ドアの方に視線を向ける。
コンコン、と扉を叩く音がした。
「失礼します。…………少しは、慣れましたか?」
背中だけを足にくっつけている、俺の姿を見ての言葉だった。尾上の顔は、人としての俺に会う予定を取り付けた時の、あの表情に近いものに変化していた。
すこし。柔らかくなった、んだろうか。
「まだ、先が長い気がしますが。少しは」
俺は低い声を全身で聞き、龍屋に促されてペット用のドアをくぐった。そのまま更衣室に入り、身体を人のものへ変化させて服を着る。
鏡の前でぱさぱさと乱れた髪を直すと、更衣室のドアを開けて廊下に出た。扉の外には、龍屋が待っていた。
「なんで尾上に俺を会わせる、なんて言ったんだよ」
「は? いや、礼をされるようなことをしたんじゃないのか」
訳が分からない、と言うように目を白黒させている龍屋の肩をばしりと叩くと、散れ、とばかりに手を振る。
「次の仕事があるだろ。もういいよ、ご苦労様」
「ああ。…………じゃあ」
本当に次の仕事があったらしく、龍屋は撮影ルームとは別方向に歩いていく。俺はガシガシと頭を掻くと、さっきまでいた部屋へと向かった。
扉のドアに手を掛け、本当に会うべきか一瞬ためらう。ぎゅっと目を閉じて、勢いで扉を押し開けた。
「お待たせしました。ええと、お礼、でしたっけ?」
あたかも龍屋に聞いたかのように言う。うん、と尾上は立ち上がって、鞄から小さな紙袋を取り出した。
持ち上げられた袋はお菓子店のロゴのようで、差し出されたそれを受け取る。
「ありがとう、ございます。あの、でも飲み物も以前いただいたのに……」
「あぁ。ちょうどその店の近くを通る機会があって、折角だから買っていこうと思ったんだ」
袋の中を覗き込むと、クッキーで挟まれたサンドイッチのような形状の菓子が入っていた。
「バターサンド、嫌いじゃなかった?」
「……嫌いな人、少ないんじゃないですか。好きですよ」
よかった、と小さく彼が言った。
袋を見下ろす。ジュースも菓子も貰って、このままバイバイというのも気が引けた。
「……あの、次の仕事まで、まだ時間はありますか?」
「うん。もうちょっと時間を潰したいかな」
撮影ルームの予定は、これから先は入っていなかったはずだ。
「俺、コーヒーとか、飲みたいもの買ってきますよ。ここで食べませんか?」
「素敵なお誘い。でも、どうして?」
問いの答えは、俺自身も明確には持っていなかった。
「まだ、シロに完全に慣れた、という感じじゃないと龍屋に聞いたので。今日の様子でも聞かせて貰えないかと」
「真面目だなぁ。じゃあ、また相談させて貰おうかな」
粘着テープ式の掃除用具でソファを綺麗にし、そちらに腰掛けることを勧める。尾上が言葉に従ったことを視界に入れ、撮影ルームの扉に手を掛けた。
振り返ると、彼の視線はばちりと絡む。
「────飲みもの、何がいいですか?」
「コーヒー。無糖のやつ」
「甘いもの、苦手なんですか?」
「バターサンドが甘いから、バランスを考えてるだけだよ」
確かに、と呟くと、部屋を出た。最寄りの自販機に近付き、小銭を入れる。じゃらじゃらと金属音が落ちていき、灯ったランプを押した。
自分は、とラインナップを見て、無糖コーヒーに揃えた。普段なら、甘味がついているものを選ぶだろうか。
落ちてきた缶を両手に持つと、撮影ルームに戻る。手の裏でノブを下ろし、身体を使って押し開ける。
「お待たせしました」
小さいテーブルを寄せ、その上に缶を並べる。貰った菓子も袋から出して添えた。
ソファを勧めたものの、自分が座るとなると位置に悩む。犬の時とは反対に少し距離を置いて腰掛けた。尾上の眉が上がったが、何も言われなかった。
銀色の輪に爪を引っ掛けて、カシ、と缶を開ける。
「シロ、どうでしたか?」
口火を切ったのは、余計なことを言われないためだ。あの首輪を掛けられたような感覚は、癖になることを避けたい味だった。持ち上げて口を付けたコーヒーは、風味はあれど苦い。
尾上も、コーヒーのプルタブを引く。
「毛繕いをして欲しかったみたいで、ブラシを持ってきてくれたんだけど、気持ちが揺らいで、恐るおそるでしか整えてあげられなくて。それで、気を遣われちゃって、長いこと、僕の足元に身体を付けて寝転がっていたよ」
「それは、……あいつ、のんびりしていて。すみません」
シロのことの体で、俺の反省でもあった。もうちょっとやりようがあった筈なのに、次のステップに進められなかった。
亀の歩みのようなあの時間に、意味はあるのだろうか。
「いや、そうじゃなくて。聡い子だと言ったでしょう、シロは十分、自分の使命も分かっているし、いろいろと考えていると思うよ。視線がよく動くんだけど、全身で僕だけを見てくれる」
ほう、と彼の唇が綻んだ。
一見、ただ嬉しそうなだけの表情が、なんだか美しすぎて恐ろしい。造形の美というものは、根底に力を孕んでいる。
「戌澄くんと似ているね」
ばちり、とまた視線が合った。自然界で視線が合うというのは敵対の意を持つと聞いたことがある、同じように、俺は恐ろしくてやんわり視線を逸らした。
「似て、ますか」
「うん。君は、ほんとうに人をよく見るな、と思って。仕事とはいえ嬉しいよ、関心を持ってもらえることも、知ろうと努力してくれることも」
見ていることを、知られていた。ごくんと唾を飲んで、それでも喉が潤わない。びくびくと内心で怯えながら、視線を逸らせないでいる。
今もそうだ、視線を彼に戻して、また捕らわれる。
「でも、あんまり……結果が出ていません」
「それは……。僕も、どうしようかなと思っているところだよ。けれど、シロくん以外の犬に頼っても、あの子で無理なら、もう無理じゃないかという気がするね」
はは、と苦笑する口元から、白い歯が覗く。
俺は、何を視線で追っているのだろう。
「予定では、あと三回、の筈でしたが……」
「そうだね。あと三週、で初回の撮影が始まる。それまでに何とかしておきたいけど、スケジュールもまあまあ詰まっていて、シロくんを長いこと拘束するのもね」
一時間、の撮影ともなれば、長い、という印象だ。ただ、三十分が一時間になったところで、進展があるのかという気がしてくる。
映画の撮影までには、犬との触れ合いを自然なものにしなくてはならない。与えられた仕事とはいえ、費用もそこそこ掛かっている。結果が出ないのは心苦しかった。
「…………尾上さん、は、口は堅いですか」
転がり落ちた言葉に、俺自身が動揺する。
何を提案しようとしているのか、頭の端では分かっていた。彼がどう答えるかも想像できていた。
指先がめちゃくちゃに躊躇って、服の裾を握り締める。
「社会的な知名度もあるし、立場もあるよ。無闇矢鱈と、人の秘密は明かせない。明かした時、ペナルティも大きい。それに、性格的にもね、どうでもいいことにリスクを負うのは好きじゃないんだ」
距離を保っているはずなのに、隣にでも座っているかのような威圧感だった。いくら空気を作るのが仕事の相手とはいえ、あまりにも呑まれている。
唆されているように、口が滑る。
「空き時間にそちらの家に寄るか、俺の家に来てもらうことは、できますか。俺は時間の都合は付きやすいので、そちらの希望の時間でいいです」
「君の家に僕が行って迷惑が掛かるといけないから、僕の家がいいけれど。もしかして、シロくんを連れてこようとしてくれてる?」
こくん、と頷いた。もう、逃げられないことを悟った。
「元々、バイト代が破格すぎました。……から、協力します。けど、プロダクションには黙っておいて欲しいです。友人になったから、家に呼んだ。そういう建前にしてください。あと────」
力を込めると、視界がぶれた。何度も変化するのは力を使う。が、説明するのなら、このほうが早いだろう。
ばさばさと犬の身体の上に服が降って、もぞもぞとその隙間から這い出した。驚いて目を丸くしている尾上と視線が合う。
キャン、と犬の喉が高く鳴いた。
『俺が、シロなんです。すみません、黙っていて』
尾上は目を丸くしたまま、固まっていた。
俺は犬の喉を開いて、狗神の一族という存在と、自分のことを話し始める。耳には犬が鳴いているように聞こえるそれが、頭には人の言葉として伝わっているはずだ。
俺の言葉を聞く度に尾上の表情は真剣なものになり、色々な質問を経て、また人の姿に戻った。
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