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『もっと長く話をしたいから、一度、僕の家に来ない?』

 尾上の次の仕事ぎりぎりまで話をしたが、その日のうちは、やはり特殊な一族のことで理解が追いつかない、といった様子だった。

 そこで、今度こそ連絡先を交換すると、直近で早く帰宅できる日を提示される。

 彼の自宅の大まかな位置を聞くと、普段使っている路線内に最寄り駅があり、移動に不便はなさそうだ。行く、と返事をして、後から詳細な住所を送ってもらった。

 せっかく用意して貰ったバターサンドは、家に帰って一人で食べた。あまりにも美味しかった。

「こっち、だっけ」

 使い慣れない駅を出て、高級住宅地、であろう街並みを歩く。帰宅途中の人々も多くはなく、勤め人特有のせかせかした空気も薄い。

 携帯で地図を見ながら歩いていると、同じようにずっと携帯を見ながら歩いている女性とすれ違う。彼女から匂ったのは爽やかな花の香りのはずだが、付け方が悪いのか、俺の鼻が良すぎるのか、ひどく濃く突き刺さった。

 嗅ぎ分けられるぶん、何となくの種類も分かる。立てば芍薬、とは言ったものだが、マスクの下に顔を隠し、背を丸めてじっと携帯を見下ろしている様子はとても香りに相応しいとは思えなかった。

 人が遠ざかったのを確認して、鼻の下を擦った。

「鼻がいいのも考えものだよな……」

 細かく位置を確認しながら歩くと、ようやく目的の建物に辿り着く。

 高層マンション、と呼ばれるような物件を見上げる。十階に満たない俺の自宅とは大違いだ。携帯で、着いた、とメッセージを送ると、すぐに既読のマークが付いた。

 時間は普通の家庭なら夕食もとっくに終わっている時間で、それでも彼にとっては比較的早く帰れる日、であるそうだ。バイト代がてら夕食も用意してくれるそうで、俺は駅の近くで買った高めのプリンを手土産に彼が下りてくるのを待った。

 あまり待たずに、聞き覚えのある声が掛かる。

「おまたせ。こっち」

 手招きされるがまま、手早く入り口に移動する。管理人がいるマンションのようで、一言ふたこと会話を交わしてから俺を招き入れた。セキュリティはしっかりしているようだ。

 キーでロックを解除し、エレベータに乗る。

「それ、お土産?」

「うん。プリンだけど、食べられるか?」

「好きだよ」

 あの日、困惑した尾上と長く話している内に、敬語が面倒になってしまった。きっちりと敬語を外す承諾を得ようとした俺に、彼はすこしだけ笑って、いいよ、と言ったのだった。

 ふわり、と身体が持ち上がる感覚に軽く酔う。

「いいマンションだな」

「そうだね。まあ、でもそろそろ引っ越すかも」

「そうなのか?」

「あんまり、ひとところにいるのも面倒が多くてね」

 俺が理解できない、と首を傾げると、分からなくていい、と言うように作り物の笑みを押し付けられた。

 エレベータの扉が開くと、あの部屋、と一つのドアを指差される。彼は先導してドアに歩み寄り、キーを認証装置に触れさせた。

 カシャン、と動作音がして、尾上は扉を開く。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 玄関に入り、靴を脱ぐ間にも、その広さに圧倒された。ひとり暮らしには、絶対にこんなスペースは必要ない。

 シックな印象だが、全体の基となる配色には黒が多く使われていた。性格が見えづらいというか、染まらない気のする彼らしい選択だ。

 廊下はグレーの混ざった白地の床で、貸し与えられたスリッパを履いて尚、汚さないかはらはらした。手招きされ、リビングへと入る。

 わぁ……、と驚きすぎて気の抜けた声が漏れた。

 広々としたソファとテーブルを中心に、部屋は構成されていた。映像を見るための機器類が一箇所に纏められ、部屋の隅には間接照明用の大きなスタンドが置かれている。テーブルの上に物は少なく、リモコン類はラックに纏まり、雑誌が一冊だけ置きっぱなしにしてあった。

 窓辺にはつやつやとした観葉植物があり、大きな窓の先はレースカーテン越しにちかちかと夜景が光っている。近寄ってもいいか尋ねると、どうぞ、と勧められた。

 カーテンを開けると、普段は見ない高さだ。光の渦のように、自分の視界の真下に光源が集まっていた。カーテンを掴んだまま、見慣れない景色に見入る。

 我に返ったのは、背後から低い声が掛かったからだ。

「そういえば、食事、って犬用のごはんを食べたりする?」

「犬の姿だったら美味いよ。ペットフード」

 犬でなくとも美味い犬用フードがある昨今、市販されているものを不味く思うことは少ない。

 俺の返事を聞いた尾上は、キッチンらしき場所に入っていった。がさがさと惣菜店の袋をテーブルに広げ、その脇に小さな箱を置く。

 歩み寄って見下ろすと、ピザ、と書かれていた。しかも。

「犬用ピザ?」

「…………こう、興味があったというか」

 自分でやっておいて申し訳なさそうな表情に、ふ、と俺は唇から笑いの息を漏らした。

「あんたが怖いと思ってる犬になる必要があるけど、大丈夫?」

「シロくん。…………あ、そっか、シロくんじゃないんだ。戌澄くんって下の名前、友くんだったっけ。『友くん』は怖くないよ」

「ブラッシングすら、おっかなびっくりな癖に」

 俺は絡まりそうな運動用を兼ねた上着だけソファの背に置かせてもらうと、服を緩め、犬の姿に転じる。毎度のように絡まる衣服を掻き分けながら外に出ると、興味深そうにこちらを見ている視線とかち合った。

『なんだよ。あんたが食べてほしくて犬用ピザ出してきたんだろ』

「やっぱり真面目だね。……皿に取り分けるから待っていて」

 犬用だというのに紙皿ではなく上等な真っ白い皿を出され、その上にピザが一切れ乗せられる。

 ぽんぽん、とソファの上を促された。

『毛が付くぞ。床でもいい』

「お客様を床で食べさせたりしないよ。…………おいで」

 静かに、かつ圧をかけて放たれた声に、びくり、と背を伸ばす。クゥ、と短く鳴いて、ソファの席に跳び上がった。

 皿は尾上の手元にある。彼は、自分の太腿の上を叩いた。

「上手。こっちのほうが食べやすいでしょう?」

『こんなに近くて、怖くないのか』

「この前、僕の足にぴったりくっついてたよね、それで少し慣れた」

 そういえば、と思い出し、ゆっくりと近寄った。彼の太腿の上を前脚で、ちょいちょい、とやるとくすぐったそうに唇が歪む。

 平気そうだ、と膝の上に乗って座った。

 俺の前に、皿に載った犬用ピザが近寄ってくる。匂いはとても良く、犬の食欲を掻き立てる素材が使われているようだ。彼の手ずから生地が持ち上げられ、口元に寄せてくれる。

 食らいつこうとした瞬間に、鋭い声が掛かる。

「ステイ」

 俺は開けた口を閉じると、僅かに浮いた尻を落ち着けた。尻尾は上がったまま下りず、そのまま固まる。

 ほんの一瞬だけ、背筋がぞわぞわした。本当に、やんわりとしたそれではなく、言葉で首輪を掛けられたのだ。

「やっぱり、いい子だ」

『…………意地悪』

 何とかそう言うと、犬の口からも悲しげな声が漏れる。ああ、と尾上は何かが分かったかのように頷く。

「ごめんね。何だろう、君に命令したら、応えてくれるのか試したくなってしまった」

『試し行為をする前に、素直に尋ねてくれ。別に、遊びの一環なら応えるよ』

 そう、と彼はしょんぼりとして、今度は素直にピザを俺に差し出してくれた。ガブ、と苛立ちをピザ生地に押し付ける。

 いま、放り出したら駄目な気がした。犬が首輪から首を抜いて駆けだしたら、狼狽えるのは飼い主だ。

「そっか。友くんは、僕の言うこと聞いてくれるんだ」

『尾上……さんの、言動次第だ』

「はは。もう、名字もさん付けも違和感あるんでしょう。僕の下の名前、知ってる?」

 知らないはずないと分かっていて、尋ねるのは卑怯だ。

『白夜』

「覚えていてくれて嬉しいよ」

『本名?』

「本名。両親が趣味人なんだよね」

 もう一枚、と持ち上げられたピザに食らいつく。がつがつと咀嚼する俺の様子を眺めた『白夜』は、小さな口元に付いた欠片をティッシュで拭った。

「僕も食べてみていい?」

『いいよ。どうせ俺の身体じゃ、全部は食べきれない』

 身体の割に大食らいとはいえ、この大きさのピザ一枚は過剰だった。白夜は人にとっては小さな一きれを持ち上げると、口に運ぶ。

 何度も丁寧に口に入れ、ゆったりと咀嚼していた。

「味が薄いね」

『ああ、そうかもな。今の俺には美味いけど』

 白夜は残ってしまった部分を差し出してくる。はぐ、と尻を浮かせて噛み付いた。差し出される度に食いついていると、結局、犬の俺に用意されたピザは綺麗に消えた。

 トン、と床に下り、リビングのドアを開けるよう促す。

「そのまま戻ってもいいのに」

『全裸なの』

 自分の服で最低限のものをまとめて咥えると、ずりずりと床を引き摺る。見かねた白夜が全て持ち上げてくれ、脱衣所まで案内してもくれた。

 閉じられた扉を見やり、人に姿に戻って服を着る。脱衣所を出て、リビングへと戻った。

「おかえり、お腹の空きはどう?」

「人に戻ったら空いた。まだ何か用意してるんだろ、くれ」

 言葉を零しきってから不遜だったな、と反省したのだが、白夜はそれすらも機嫌よく受け取っている。

 チキンにローストビーフ、刺身にサラダ。上質な惣菜がテーブルに広げられた。追って持って来られたのはアルコールの缶で、おい、と睨めつつ見上げる。

 白夜は俺の表情すら、子犬相手であるかのようにさらりと躱す。

「え? 今日くらい良くない?」

「飯食ったら、犬の俺に慣れるための活動するんだよ」

「さっきちょっと出来たし、軽く、ならいいでしょ。成人してるよね?」

「してる」

 あーあ、と息を吐きながら、まだアルコールが軽い種類の缶を受け取る。カシ、とプルタブを引いて、仕掛けた相手に缶を差し出す。

「下手に呑むと俺、しばらく犬から戻れなくなるんだよな」

 相手の缶も開けられる。あちらはがっつりとビールだった。映画の撮影前に犬のことを解決する気はあるのだろうか。

「へえ、そうなんだ。なんで?」

「変化に生命力を使うから。……乾杯」

「かんぱーい」

 ごっと一気に喉に炭酸を流し、ぷは、と息を吐く。夕食時の一杯というものは、いやよいやよと言っていても、差し出されれば受け取ってしまうだけの魅力があった。

 ああ、と、やってしまった、と肩を落とす。

「あはは。同罪」

「年上の癖に何やってんだよ……仕事のために集まったのに」

「まあほら。酒を入れた方が気分も解けるし、いいかもよ」

 テーブルの上の食事を勧められ、いただきます、と手を合わせる。手近にあったチキンを掴むと、ざくざくの衣を囓った。

 胡椒の効いたしょっぱい味付けが、酒で馬鹿になりつつある舌にもきちんと作用する。

「あぁ……、美味い…………」

 完敗だった。若者の胃にクリティカルヒットする牛肉、鶏肉、魚。そして味を変えるためのサラダ。煮物なんかも用意されている。

 動物プロダクションの給料が多い時には貯金を選ぶような金銭感覚持ちの、ばかばかと金が使えない大学生にとって、この量のご馳走は夢のようだった。

 俺があまりにも夢中で食べていたからか、白夜は自分の食事もそこそこに、俺の皿に食事を盛ってくる。

「そうか。僕も学生の頃は、お腹減って仕方なかったな」

「今はそうでもないのか?」

 ローストビーフのソースも美味い。酒が進みに進んで、一缶に抑えるのはあまりにも切なく感じる。

 ちびちびと酒をセーブしているのが分かったのか、ほら、と白夜は発泡酒を差し出してくる。

「昔ほどでもないかな。こっちもどうぞ」

「うわぁ……」

「お酒、好きなんだね」

 う、と缶を両手で受け取って、視線を逸らす。

「狗神、だから神につられる。神は酒が好き、そういう認識だから。個体差はあるけど、酒好きの一族は多い。菓子もそう、三つ頭の化け犬を制するときに焼き菓子を使った逸話につられて、甘い菓子も好きな個体が多い。運動は得意だから、その所為もあるかな」

「魂が純粋なひとじゃない、ってそういうものなの?」

「人が、こういった神だ、と言い伝えることが俺達の魂を定義する。でも、人でもあるから、全体の傾向はあれど個体差も出る。みたいな感じ」

 一缶目が尽きた。プシュ、と迷いなく二缶目を開けた。

 それからは遠慮なく呑み、食べ、気分が良くなってくる。

 次第に、熱が身体を這い回っていた。ある時、炭酸を喉に流し込んで気づく。今日は随分と疲れていた。

「……残ったメシ、明日食べてもいい?」

 差し出した缶を白夜が手に取った途端、ぐん、と視界が縮んだ。絡んだ服の間で藻掻いていると、上から伸びた掌に抱き上げられる。

 こつん、と鼻先が間近に迫った人の鼻に触れる。

「可愛いね」

 目の前にある美貌に人であったら頬を染めていただろう。動きが止まった尻尾を垂らし、触れてしまった鼻を前脚で掻いた。

 すり、と近付いてくる頬同士が重なる。

『やめろ、やだ』

 くうくうと小さく鳴きながら、じたじたと手の中で暴れる。短い後ろ脚が彼の腕を掻いても、絡んだ指先は毛先を撫でるばかりだ。

 くたり、と暴れ疲れると、ようやく彼の太腿に下ろされる。

「やっぱり、いじめてると罪悪感があるかなあ。こちらだと」

『人の俺は苛めてもいいってか?』

「苛め甲斐がある、だよ」

 ろくでもねえ、と暴れる度に、ぐるぐると酒が回る。別に犬の形をしているからって犬そのものという訳でもなく、人の酔い以上の身体変化が起きるはずもない。

 だが、変に緊張しすぎたのか、力が抜けていた。両手で軽く力を込められるだけで、動きは制される。

「ああ、……なんだろう。慣れられそうな気がしてきたよ」

『……離せ』

「僕に慣れさせてくれるために、今日は家まで来たんでしょう」

 指先は僅かに震えていたが、俺が嫌がる様子が面白い方が上回るようだ。これまで触れてこなかったくらいの距離感で、もふもふとやられる。

 首も、胸も、腹も。基本的には避けて許さない場所を、長い指が這い回った。

『っや、…………うァ』

 噛まれた、という彼の過去を知っているから、甘噛みだとしても、噛み付いて逃れることはできない。

 必死に短い脚をばたつかせて、丸く整えた爪で厚めの皮膚を引っ掻く。だが、痛みなど感じていないことは明白だった。

「そのまま、うまく抵抗していて。触れば触るだけ、慣れられる気がする」

『ちくしょう!』

「その罵り文句、いいねえ」

 撫で方に慣れる頃には、彼は俺の毛皮が上等だということに気づいたらしい。気持ちいいなあ、などと嘯いては身体の隅々まで撫でたくる男にさめざめと降参した。

 家に帰らなきゃ、と思うのに、人に戻るだけの正気も力も残っておらず、俺は気絶するように眠りに落ちることになる。


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