ただ君の顔が好きである【オメガバース】

さか【傘路さか】

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 それからはまた穏やかに食事を進めていた。だが、鞄の中に仕舞っていた俺の携帯が突然鳴り始める。着信は珍しく、断りを入れて個室の外で電話に出た。

 電話の主は母親だ。

『突然ごめんね。まだ仕事中?』

 いつもより早口な言葉に、家族の身に何かあったのかと背筋が冷える。耳元から携帯を離さないまま、汗で滑らないように握り直した。

「いや。知り合いと飲んでるとこ。どうした?」

 こくん、と唾を飲み込む。

『お兄ちゃんが仕事場で、同じ職場のオメガの人からフェロモンを受けたみたい。それで、急に発情期になっちゃったの』

「わ。ずいぶん昔にはあったけど、久しぶりだな。兄ちゃんは平気?」

 命に関わるような事態ではなくほっとしたが、母が急に連絡を入れてきた理由も察する。発情期のアルファには感情のコントロールが難しい。力のない俺や母が家にいない方が安全だろう。

『ええ。本人は家まで送り届けてもらったし、私はしばらく実家に戻って仕事はそちらから続けようと思っているの。遊も家に帰らない方がいいと思うんだけど、仕事もあるし、土日だけうちの実家に来る?』

「うーん、それならこっちでホテルでも取るよ」

『そう。じゃあ、必要なものがあったらお父さんに連絡してね』

 細かいことを確認して、電話を切る。少し酔いも回っていることだし、この近くのビジネスホテルにでも泊まれるなら逆に都合がいい。

 兄を心配しながら、個室に戻った。俺を出迎えた有菱さんは、やや強張った表情に気づいたのか、案じるように顔を覗き込んできた。

「……まだ分かりづらいけど、あんまり良い知らせじゃなかったみたいだね?」

「あ、いや。職場で兄がオメガのフェロモンに当てられて発情期になったみたいで、家に帰らない方がいいって。今日はホテルでも取ってくれってさ。酔いも回ってきてるし、この近くでホテルでも取ろうかと思ってるとこ」

 食事はメインどころも終わって終盤、あと一品程度で終わりの筈だ。以前もあったことだと安心させるように言葉を続け、席に座った。

 僅かな間ののち、顎に指先を当てた有菱さんは気負いなく呟く。

「うちに来る?」

「は……?」

 あまりにも突拍子もない提案に、あまりにも気の抜けた声が出た。俺の反応に驚いたように見開かれる瞳に、俺の反応の方が可笑しいのかとすら思えた。

「飲み直しがてら、ゲスト用の部屋に泊まったらどうかな、と思ったんだけど」

「はぁ…………」

 俺がオメガだってこと、この人は記憶に残っているんだろうか。とはいえ、襲われそうで嫌だ、と言うほうが意識しているような気がして憚られる。

 断り文句を浮かべては消し、挙げては下ろした。

「迷惑だろうし……」

「ほら、泊まっている間は碌谷さんを見ていられて俺も都合がいいし。碌谷さんだってホテル代も食費も浮くしね」

 内心混乱しながら、酒の残っている器を持ち上げる。口元に運んで舐めるように飲み、飲みきれなかった中身ごとテーブルに置く。

 正直、この人が俺をどうこうするとはとても思えなかった。相手の身分も知っている上に、番と長続きせず困るほどの面食いだそうだし、タイプ外の俺を懐に入ったからといって力ずくで食ってしまおう、というような、がっついた人にも見えない。

 有り得ない話だが、おそらくこの人なら俺を言いくるめた上でベッドインだって容易いだろう。彼の家に泊まったとしても、俺には実害は出ない、はずだ。

 ぐるぐるしている頭は酔いの所為だろうか、彼の突拍子もない提案からだろうか。

「そう、だな」

 ふと、さっき聞いた彼の隙、が頭を擡げた。自宅にいる間ならば、本当に寛いで気の抜けた表情を見られるのだろう。

 その表情を何故か、焦がれるように見たいと思ってしまった。

「飲み直したいし。一晩、はお世話になろう、かな……」

 ぱっと明るい表情になった有菱さんに、そんなに嬉しいことなのだろうかと内心困惑する。パッと照明を当てられたかのように、綺麗な顔立ちが変化する様は眩しかった。

 最後の品がテーブルに届き、残っていた酒も飲み干す。立ち上がると脚がふらつくほどではなかったが、日本酒を重ねた所為で普段よりもしっかり酔いが回っていた。

 伸ばした指先が頼りなかったのか、有菱さんは先に俺のコートを持ち、腕を通すよう促してくれる。腕を通すと、さり気なく襟を直してくれた。

 その割には、自分のコートは助けも借りずにさっさと羽織ってしまう。

 ふと、その時になってこの店なら席会計だろうと思い出してしまった。鞄から財布を取り出そうとすると、目の前の有菱さんは至近距離まで身を屈め、わざとらしい笑顔を浮かべる。

 しばらく無言で見つめ合い、あぁ、と俺は瞼を伏せながら鞄を閉じた。

「ご馳走様です。……こんど埋め合わせするよ」

「それは嬉しいなぁ」

 店員に見送られながら店を出ると、やんわりと俺を支えるように寄り添ってくれる。タイプ外の相手に対しても、エスコートは丁寧だ。

 冷たい風が頬を撫でていくのが心地よいくらいなのに、その風すらも守られている。

 下り道で軽く躓くと、すぐに腕が伸びてきた。がっしりと掴まれた腕を見つめると、相手も驚いたように目を瞠る。

「ごめん。足元が怪しいかも」

 はは、と茶化してみせるが、有菱さんは捕らえた腕を放そうとはしない。手首が掴み直され、腕を振って歩みを促された。

「有菱さん?」

「危ないから、坂を下りるまで掴んでおくよ。行こう」

 手を繋ぐ、ではなく手首を掴まれた格好で少しずつ歩き始める。手を繋ぐのと比較すれば色気なんてものはないが、俺たちならこれが相応しいような気がした。

 平坦な道に戻るとぱっと手が離れる。手首には絡んでいた指の感触が残り、体格の違いを思い知った。

 駅から電車で移動する先は、自分の最寄りでもある駅だ。

 地域のお見合いパーティで会ったのだから偶然とも言いがたいのだろうが、家自体もそう遠くはなかった。もし兄の発情期が終わるまで居座るとしても、生活を変えずに済む、都合が良すぎる立地だ。

 有菱さんの家の近くでコンビニに寄り、飲み直し用の酒とつまみ、明日食べるパンなどを買い込む。出させてくれ、と支払いは俺が担った。

 まだ建ったばかりであろうマンションは広く、そして高く。見上げた俺は何とも言えない顔をしていただろう。門の近くで一時的にセキュリティを解除した有菱さんの後を通って敷地に入った。

 いくら落ち着いた色味で統一されていようと、磨き上げられた床や余裕のある広さの先に札束が見える。

 実家も裕福な方で広さは十分だが、社会に出てからは自分の稼ぎ主体の金銭感覚に慣れきっていたため、気圧されるものがあった。

「碌谷さん、こっち」

「あっ、ごめん。ぼーっとしてた」

 エレベーターに乗って移動する先は、かなりの上階だ。酔いも相俟って浮くような感覚に慣れず、そっと有菱さんのコートの裾を掴む。

 彼は俺の指先に視線を向けつつも何も言わず、エレベーターが止まると背を押して移動を促した。

 同じ階の扉は少なく、そしてかなり遠くにある。黒い玄関扉にキーを翳すと、カチリと音が鳴った。

「軽く片付けてくるから、少し待っていてね」

 そう言いつつも玄関には通してくれた。玄関先は物が少なく保たれ、部屋に入っていった有菱さんの靴だけが残っている。

 靴を脱がずに携帯電話の未読メッセージを確認していると、さほど経たずに部屋の主が戻ってきた。

「お待たせ。いいよ、入って」

「お邪魔します」

 廊下を抜け、開いた扉の先で室内を見渡した。

 物は多くなく、基本的に色味も少ないのだが、大型の間接照明や家具の中にはかなり色鮮やかな品もある。他が綺麗に保たれているため、一層その鮮やかさが目を引いた。

 服で言う差し色が機能するためには、その他の色が目立ってはいけない。彼の部屋の中では、一部を映えさせるために他の全てを押さえ気味に保っているような印象を受けた。

 コートは預かる、と手を差し出してくる部屋の主に服を差し出す。

「家具とか拘ってるんだな」

「そうだね。でも流石にインテリアは専門外だから、引っ越しの時に業者を入れたよ」

「俺も、服は他の人に選んでもらうほうが好きだな。専門外だから」

「こんど俺にも選ばせてね」

 有菱さんは奥の部屋に入っていくと、まだ新しいパジャマを抱えてきた。パジャマは道中で貸してくれる、という話になっていたが、下着はコンビニで買ったものがある。

 礼を言いつつ受け取って、案内された脱衣所で服を脱ぐ。

 コンコン、と脱衣所の扉が軽くノックされた。扉は開かないまま、声が掛かる。

「ついでにシャワー浴びたら? お風呂入りたいならお湯を張るよ」

「いや、……シャワーだけ借りるよ」

 汗ばんで乾いたシャツも気持ち悪かったし、提案に乗ることにした。あるものは使っていい、と許可を貰い、他人の家のシャンプーとボディソープを借りる。

 身体を洗い終えると再度熱めのお湯で身体を温め、バスタオルを被る。身体の水滴をあらかた拭き取って、貸し与えられたパジャマを身に着けた。アルファとの体格差の所為で当然のように腕の裾が余ったが、折り曲げて整える。

 俺が脱衣所を出ると、交代、と有菱さんも脱衣所に入っていった。

「お酒飲んでて良いよ」

 リビングに戻ると大型テレビが点いており、ソファの前にあるローテーブルに酒とつまみが並んでいた。コンビニで買った以外のつまみも出されていて、生ハムの誘惑に耐えきれずに封を切る。

 よく見れば、外国産らしきラベルの見知らぬ酒缶もあった。こちらも酔った勢いでプルタブに指を掛け、カシ、と音を立てて引く。

 ぐい、と炭酸を流し込むと、爽やかな味が喉を流れていった。

 酔っ払い特有の大胆さで他人の家の食べ物を勝手に食べていると、やがて有菱さんも髪を拭いながらリビングに入ってきた。俺が開けた缶とつまみを見て、ふっと笑いを零す。

「いや。食べるだろうなと思ってたけどさ。……もう生ハム半分も消えてるし」

 あまりにも減っていた所為で面白くなってしまったらしい。ふふ、と笑い声の余韻を漏らしながら、ソファに近付く。

「お酒飲んでていいって言ったろ」

 有菱さんが視線を向けた缶を横から奪い取り、別の缶をそちらに差し出す。彼はくっとまた笑った。

「それ飲みたかったの?」

「飲みたかった」

 きゅっと缶を自分の手元で覆い、渡さないと意思表示する。コンビニで買った缶ではなく、おそらくは有菱さんの買い置きの缶だ。だが、あまりにも興味を引くパッケージで、飲みたくなってしまった。

 そして、目の前の男なら俺の我が儘を叶えるだろうと高を括っている。

「……有菱さんも飲みたかった?」

「いや。飲みたい人に飲んで貰えるのがいいと思うよ」

 部屋の主は寛大に言うと、ガシガシと髪を拭った。

 あらかた拭き終えると、洗面所に戻っていき、ドライヤーの音が響き始める。顔立ちに拘る彼が髪を自然乾燥などしないだろうと思ったが、案の定だ。

 彼の髪が元の色合いを取り戻したところで、俺も洗面所を借り、ドライヤーで髪を乾かした。普段は自然乾燥なのだが、そうじゃない人の前で髪を湿らせているのは憚られる。周囲に散った髪を拾い、近くのゴミ箱に捨てた。

 洗面所からリビングへ戻ったところで、ふわりと鼻先を髪が擽った。僅かに自宅のものとは違ったシャンプーの匂いがする。

 ソファで寛いでいる家主の隣に腰掛ける。

「有菱さん、って匂い付きのシャンプー使うんだ」

「ああ。このシャンプーの最後に残る匂いが、好みの匂いに近いんだよね」

「へえ、よく見付かったな」

 同じアルファとはいえ好みは多種多様で、好みの匂いを見つけられたのなら、丹念に色んな匂いを調べたか、運良く匂いに巡り会えたか。特に拘りの強そうなこの人なら前者だろう。

「碌谷さんちは無香料?」

「うん。うちは家族の人数も多いし、誰かの匂いの好みに合わせると争いが起きる」

 アルファの人数も多く、同じ家で匂いが混ざることはあまり好まれなかった。

 俺が差し出した缶が開く音がして、有菱さんの手が缶を持ち上げる。近づける缶同士を合わせると、コンと乾杯にしてはにぶい音がした。

「俺、顔が好みかつ匂いが好きな人、って会ったことないんだよね」

「付き合いが長続きしないんだっけ。そっか、それは続かないかもな」

 オメガが匂いへ回避と好感をよく言葉にするのに対し、アルファが匂いに対して寄せる感情は嫌悪と執着だ。階段で一歩先を行くようなその強い感情は鮮やかで、人間関係にも影響を及ぼしうる。

「うん。俺、匂いも好みが激しいし、顔もこういう顔が好き、ってのがあるからなぁ……」

 言葉尻が弱くなった彼に、生ハムの残りを差し出す。

 ついでにテーブルの上の配置換えをしようと並べ直していると、端の方に雑誌が数冊積み上げられていた。色彩豊かな表紙はファッション雑誌のようだ。

 一番上の一冊を持ち上げて、適当なページを開く。

「どの顔が好み?」

「その雑誌の内容覚えてないな。貸して」

 彼は雑誌をぱらぱらと捲り、この顔と、と男女問わず好みの顔を指差していく。

 共通項を挙げるならば、顔立ちの比率が整っているというか。人形のようなきりりとした美形が好みのようだ。

 シャンプーから感じる匂いの印象はもっと柔らかく、彼が挙げる好みの顔立ちの共通項からは乖離していた。

「有菱さんの顔の好みと匂いの好みって、両方を持っている人が少ないのかもな。今までは、顔の好みで付き合う人選んでた感じ?」

「うん。匂いは難しいんだよね。好みの匂いに似ていても、ずばりその匂い、って人は今まで…………──いないし」

「確かに。うちの兄も匂いの好みは面倒くさいんだよな」

 ついでに記事を流し読みして、雑誌を閉じて元の位置に戻す。

 有菱さんの飲んでいる缶に興味を示すと、飲んでもいいと缶を寄越してくる。有難く飲んで、残っている生ハムも強奪した。

「……口説いている相手じゃないとはいえ、つまみを食べ尽くすようなオメガは初めてだな」

「酔ってなきゃもっと控えめだよ」

 食べようと思ったナッツの袋を開けられず、首を傾げて有菱さんに渡す。綺麗に開封された返ってきた中身をぽりぽりと囓った。

 横からサイズ違いの掌が伸びてきた。その上にナッツを載せる。

「今はもう匂わないけど。最初に話したとき、好みの匂いだった気がしたんだけどな」

「俺?」

「うん」

「人いっぱいいたし、他の人の匂いじゃないか」

 他の誰でもなく、俺に連絡先を聞いてきた理由がようやく分かった。匂いは好みだが顔は全然好みとは外れている相手との交流を試したかったのだろう。

 とはいえ、有菱さんの言葉は今も困惑で溢れていて、とても口説かれているようなトーンではない。

 そもそも、二人でナッツをぽりぽりやっていて何処に恋が生まれるというのか。

「勘違い……。そう、かなぁ……?」

 ううん、と首を傾げる有菱さんに、摘まんだナッツを持ち上げてみせる。彼は掌を差し出し、その上に二度、袋からナッツを送り出した。

「そうだよ」

 俺はさらりと言い切って、その話題を打ち切る。代わりに服の話題を振って、他の雑誌を開きながらアドバイスを聞いた。頭を使った会話ができていたのは、その話題くらいまでだ。

 それから先は酒とつまみの話をだらだらと繰り返して、頭に残らない深夜番組をお供にテーブルの上を片付けていった。

 ふと窓辺に視線をやると、レースカーテン越しには闇が広がっている。

 あと何時間経てば光が差してくるのだろう。ふと周囲を見ても時間が分かるものはなかったが、探そうともしなかった。

「────さすがに眠くなってきたかな?」

 俺が欠伸を繰り返しているのが分かったのか、有菱さんがそう尋ねてくる。こくん、と頷くと、彼は缶の残りをぐっと飲み干した。

「歯磨きしようか」

 コンビニで買い求めた新品の歯ブラシを思い出し、こくこくと頷く。喋るともう声がアルコールで枯れ始めており、僅かな会話なら億劫に思ってしまった。

 久しぶりに立ち上がると、脚の先は緩慢にしか動かない。脱衣所の近くにある洗面台に向かい、パッケージを開けて新しい歯ブラシを取り出す。ぱりぱりとした先端を指先でほぐし、丹念に水で洗い流す。

 歯磨き粉のチューブを持っている有菱さんに歯ブラシの先を向けると、難しそうにしながら中身を絞ってくれた。

 ぱくん、と口に入れると刺激の強すぎない好みの味がする。

「明日、先に起きたら勝手に何か作っていい?」

「もう明日じゃないよ。構わないけれど」

 そんな時間か、と呟き、シャコシャコと慣れない感触の歯ブラシを動かす。泡はきめ細かく、口の中が洗われていくのが心地よかった。

 新しい匂いに満ちた口内を舌先で確かめ、水で洗い流す。

「ありがと。ベッドどこ」

「こっち」

 脱衣所から出て廊下を歩くと、広い部屋に通される。

 こちらはリビングより更に落ち着いた色味が主体で、間接照明を使った明るすぎない部屋だ。観葉植物も緑が深いものが一つだけ、ベッドの近くに置かれている。

 どうぞ、と布団を捲って促されるが、明らかにベッドの大きさが客用ではない。

 眉をひそめ、ベッドと有菱さんを交互に見ると、彼は観念したかのように笑い出した。見間違いようもなく、悪戯っ子の表情だ。

「有菱さんの部屋だろ。ここ」

「碌谷さんの表情が崩れたとこ見たくって。視線が落ち着かなくて、困ってるのが分かって興味深かったよ」

 笑いが収まると、彼はベッドを見下ろして言う。

「でも、こっちのベッドの方が良い品だから、こっちで寝ても良いよ」

「匂いが付くのは嫌だろ。俺が部屋に入るのだってあんまり良くない。ゲスト用の部屋に案内してくれ」

 相手を思い遣ったつもりだったのだが、彼は残念そうに布団から手を離した。とはいえ、しつこく言い募ることもなくゲストルームに案内される。

 全体的に有菱さんの部屋よりはコンパクトに纏まっているが、俺にとってはこちらのほうが都合が良い。人が泊まりに来た時に案内する部屋、と言っていたが、別の人間の匂いは残っていなかった。

 家電類の操作だけ教えてもらい、ありがとう、と礼を言う。もう寝てもいい、という意思表示だったが、何故か彼は出て行こうとはしなかった。

「……俺もこっちに泊まろうかな」

 冗談のような本気のような言葉すら吐く始末だ。ぽんぽん、と背を叩いて、さっさと寝ろとばかりに両手で部屋から押し出す。

「オメガに対しての匂いって、本能由来の好みみたいなもんだろ。一朝一夕で慣れる慣れないじゃないから。基本、対象外の匂いは遠ざけた方がベターなんだよ」

「いやでも、俺は好みの匂いだって……」

「勘、違、い。じゃ、おやすみ」

 パタン、と扉を閉じると、向こうから小さな声でおやすみ、と返ってきた。はあ、と息を吐き出し、部屋のベッドに横になる。

 定期的に手入れをされているであろう布団は柔らかく、手入れした家主の匂いはもうしない。それを残念に思いながら、疲れからかすぐに眠りに落ちた。




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