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しおりを挟むろくな準備もしないまま、身ひとつで構わないと俺はフィーアと共に屋敷を出た。入れ代わりにヴィリディ家が手配した魔術師がうちの屋敷で働くことになるらしい。
必要になったら荷物を届けて貰うことにして、俺は馬車と転移魔術式を使ってあちらの家まで移動する。ほぼ国内で使える最高速度、といえる速度で移動した俺たちは夕方頃にはヴィリディ家の屋敷に辿り着いていた。
到着して直ぐ、当主と顔を合わせる事となった。
多忙なのだろう、短い時間ではあった。だが、年齢相応の深みをもつ美丈夫であるヴィリディ家当主は、息子の人柄を話し、使用人のいない部屋で俺に頭を下げた。
「頭を上げてください。俺はあまり失うものを持っていないので、御当主が頭を下げるようなことではないんです」
隣で話を聞いていたフィーアがさっと顔に陰を作ったが、言及する間もなく嵐のように対面の時間は過ぎ去った。
手の込んだ食事を取らせてもらった後で、疲れているでしょうし湯浴みを、と風呂に放り込まれている間も、帰った方がいいのだろうかと迷いはあった。気持ちの整理もろくに終わらず、今でもこの選択が正しかったのか躊躇いはある。
ただ、気に入らない人間を連れてくれば自傷するような相手だ。俺が行っても同じ結果になることは十分考えられる。悩むのは、会った後でもいい。
白を基調として綺麗に磨き上げられた浴室で、用意された瓶を使って身体を洗い上げる。匂いの少ない洗髪剤は、匂いに拘るアルファの好みを考えてのことだろう。
指先で泡立てて髪を洗い、大量のお湯を使って丁寧に流す。身体の表面を洗い終えると、はあ、と溜め息と共に指先で魔術を綴っていった。魔力を込めた指を動かす度、光の軌跡が付き従い、空中に呪文を記す。
アルファと繋がる準備のための魔術、初めて形作るそれは物慣れずに、指先の震えを反映していびつな文字になった。
続けて、アルファの精が胎に届かないように魔術を書いていく。魔術学校で教えられた時には使うことになることを想像もしなかったが、機会というものはこうも突然来るものなのか。
身体の準備が整うと、俺は少しだけ湯船に浸かって、すぐに浴室を出た。使用人を断って自分で水滴を拭い、魔術を使って髪を乾かす。
準備された下着や室内着らしき服も上質なもので、急いで用意された割には身体にぴったりと沿ったものだった。使用人の優秀さを実感しながら、風呂が終わったと告げるために脱衣所を出る。
廊下には使用人とフィーアが控えていて、俺に気づくと使用人は一礼して去っていく。
「準備はいいか?」
「おう。性行為の時に使う魔術をさ、一応使ったけど慣れねえなありゃ」
俺の言葉に、生真面目なフィーアはかっと顔を赤くする。彼もまた奔放な質ではなかったはずで、可哀想なことをしたと肩を叩く。
「お前も使うことになったら、丁寧に教えてやるからな」
「要らん。覚えてる」
肩に置いた手を払い除ける姿は、学舎時代の彼に戻ったかのようだった。こほん、と気を取り直したように咳払いをして、こちらへ、と先に歩み始める。
フィーアが困ったら助けてやろうと思うくらいには恩がある相手だが、受け入れた自分は大博打だな、と他人事のように思う。相手と相性が合わずに嫌われて撥ね除けられたり、発情期を過ぎて体よく振られたら散々だが、それもまた結果ってやつなんだろう。
波も刺激も少ない人生の中で、神殿が選んだ相性という博打に乗ってみたくなった。
「本当に、いいのか? オルキス様は悪い人ではないが、ヴィリディは力のある家だ。お前が……セルドが必要なくなったら放り出せる」
廊下から庭に出た、周囲に誰もいない場所で、ぽつりとフィーアは切り出した。当主の真意を読むこともできなければ、家の格差は如何ともしがたい。利用されるだけ利用されて、ぽいっと捨てるなんて簡単なことだ。
不安そうに瞳を揺らす友人に、昔に怒られた何も考えていないような笑みを作る。
「はは、貸しにしとくよ。上手くいくことを祈ってな」
「お前のその好奇心は、いずれ身を滅ぼすぞ」
フィーアには、友人への恩よりも彼の主人に対しての好奇心で俺が動いているように見えるらしい。確かにそういう気質だったな、と友人に言われて思い至った。
そうか、わくわくしているのか、と胸に手を当てて、普段よりも早い鼓動を自覚する。
振り返って別棟に歩き始めた友人の後を追って、少し軽くなった脚を持ち上げた。踏みしめる芝は柔らかく、靴底を跳ね上げる。
門の外から見ても贅を尽くしたことが分かる豪華な屋敷とは違って、別棟は来客用に設えてあるのか装飾が上品ではあるが大人しい。フィーアの手によって別棟用の鍵が差し込まれ、捻られると、暗い廊下が目の前に広がっていた。
「どうする? 寝室の前まで付いていっても構わないが」
「いや、しばらく玄関前で待っていてくれないか。恙なく済みそうなら、そうだな……光を放つ魔術を、長く三回打つ。それ以降は帰ってくれていい。意識があれば通信魔術が使えるからさ」
「分かった。オルキス様が怪我をしたとしても、セルドに罰は与えられない。不都合があれば、容赦なく魔術で叩きのめすといい」
幸運を。友人はそう言って、そっと扉を閉めた。
扉から少し離れた音を聞き取り、こっそりと内側から鍵を掛けた。俺が怖がって友人に助けを求めてしまうかもしれない。入ってこられない方が、彼の主人は守られるだろう。
手酷くいたぶられるかもしれないが、死ぬことはないはずだ。
照明を灯し、光が入った廊下をそろそろと進む。屋敷と違って廊下の隅には埃が溜まっていて、少人数しかこの棟には入れないことが分かった。
廊下の途中で、荒い呼吸音と、低い呻き声が聞こえてくる。届く声は何かを求めて、尚叶えられない苦痛に満ちていた。
オルキス。彼と俺を隔てる扉の前まで来ると、足音に気づいたのか声が止む。
「────誰」
掠れた声から、背を壁に押し付けられたような圧力を感じる。じわりじわりと扉越しに届くフェロモンに気づき、反射的に口元を覆った。
普通ならオメガのフェロモンで発情期が始まるものだが、魔力の相性が良い相手が発情期に入っていれば、逆も起こり得る。
「セルド・クラウルといいます。フィーアの昔の友人で……」
駄目だ、と理性が警鐘を鳴らす。鼻に届くフェロモンは俺の匂いに気づいたのか、忍び寄るように段々と匂いを濃くしていた。
手を伸ばされ、絡め取られているような感覚だ。
「神殿の鑑定士が言うには、貴方と俺は、魔力の相性が良いらしい。長い間、貴方が発情期が終わらずに苦しんでいると聞いて、此処に来ました」
俺が言い終わった後、扉の向こうは無言だった。帰れ、と突き返されればすぐに戻るのだが、返事がない以上、動くこともできなかった。
それなのに、フェロモンは段々と濃くなる一方だ。どくどくと心臓が喧しく、鼓動が自覚できるようになる。
とっ、と床に足をつく音がした。ゆっくりとこちらに歩み寄る音が重なる。
向こうで、扉の表面を布が擦った音がした。
「セル、ド……」
俺の名を呼ぶ声は、低くとも甘ったるい響きに満ちていた。口の中にどろりと蜜でも垂らされたように、耳をくすぐられる。
「君が、……僕の、つがい?」
「それは、俺には分かりません」
じゃあ、と扉の向こうから蜜が流れ込む。
「試してみよう」
キイ、と動き慣れていなかったのか音を立てて扉が開くと、長身の男が立っていた。濃い黒髪と、銀朱色の瞳は濡れたように色を濃くしている。美しい顔立ちは平常時なら静かな美形なのだろうに、少しやつれ、凄みのある色気を放っている。
寝衣のはずの服はだらしなく着崩され、部屋からは汗の匂いに淫らな臭いが混ざっていた。息を止めようとするが、フェロモンだって匂いだって、容赦なく鼻先を覆っていく。
「初め、まして。僕は……オルキス・ヴィリディ……」
すう、と呼吸を整えると、目の前の男は自らの唇を舐めた。
「いい匂いだ……、抱かせてくれ」
強い力で腕を引かれ、室内に引き摺り込まれる。たたらを踏んで体勢を整えている間に、背後の扉がバン、と音を立てて閉ざされた。
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