6 / 29
6. 夫婦
しおりを挟む
以前よりもシエルと話すようになったと思う。彼と一緒にお茶をすることも、あまり抵抗がなくなった。最初はなんとも思わなかったが、彼は話し上手であったし、聞き上手でもあった。
今日も、昔の思い出から、それぞれの家族構成の話となった。
「私には上に兄が二人と、姉が一人、それから下に弟と妹が一人ずつおります」
彼はやはり子爵家の三男にあたるらしい。上と下に挟まれて、シエルはしっかりとした子に育ったのだろう。
「イレーナ様は?」
「妹が三人と……兄が一人」
「兄?」
「ええ。私の母の子ではないけれど」
「……すみません」
余計なことを聞いてしまったと、シエルは気落ちしたように肩を下げた。それにイレーナは少し笑う。
「気にしないで。愛人の子なんて、珍しくもなんともないわ」
意地悪な性格ならともかく、兄はいい人だった。むしろ自分の立場に遠慮して、いつも肩身が狭い思いをしているようだった。
『イレーナ、ごめんな』
イレーナが実家を出る直前、言われた言葉だ。きっといろんな思いが込められていた。決して兄のせいではないのに、愛人の子であるだけに陰口を叩かれ、冷たい視線にさらされてきた兄を、イレーナは不憫に思っていた。
自分と兄では、育て方が違っていた。
今まで別宅で暮らしていたのに、ある日突然跡取りとして引き取られた兄は人一倍厳しく躾けされ、期待に応えることを父に命じられた。
長女であるイレーナは、そんな兄に比べて求められる水準は低かった。負担はなく、楽ではあったが、女である自分には期待されない虚しさも味わった。
身分や立場。性別。いろんな違いやしがらみがあって、平等に子を育てることは難しいのかもしれない。
「ご兄弟とは、仲がよろしかった?」
「仲がよい……かどうかは自分ではよくわかりませんが、兄や姉には面倒をよく見てもらって、下の子たちとは一緒に遊んだりしました」
――ああ。彼の家は違うのだ。
イレーナは眩しいものを見るかのように目を細めた。
「シエルは温かい家庭を築きそう」
ぽつりとつぶやいた言葉に、シエルは困ったように微笑んだ。きっと彼のことだからあなたも築けますよと言いたいのだろう。
でも言えない。だってマリアンヌという愛人がいるのにどうして築けるのだろうか。
「私には、きっと無理よ」
彼の無言の問いかけに、イレーナは答えた。愛人がいようがいまいが、イレーナには夫を愛する自信がなかった。
「イレーナ様」
スッと背筋を伸ばして、シエルは諭すようにイレーナを見つめた。こういう時の彼は、なぜか自分よりうんと年上に見える。イレーナよりも広い世界を知っていて、常識を身につけているような。
「私の両親は、最初夫婦仲があまりよろしくなかったようです」
「たくさん子どもがいるのに?」
「子どもの数は関係ありません」
そういうものだろうか。
ダヴィドと初めて夫婦になった夜。彼はイレーナを抱かなかった。部屋にすら、足を踏み入れなかった。子孫を残す。そんな役割すら、彼は自分の妻に求めなかったのだ。
「でも……仲がよくなったから、子どもができたのでしょう?」
イレーナの反論に、シエルは微笑んだ。
「子どもの有無は関係ありません」
「でも」
「人間は愛のない行為をしようと思えばできます」
生々しい話で、イレーナは眉をひそめた。けれどシエルは構わず続けた。
「だから子どもを作ろうと思えば、何人でも作ることができるんです」
「何が言いたいの」
「大切なのは、お互いの気持ちです」
「気持ち?」
はい、とシエルの声は優しかった。
「互いを気にかけ、労わり、一生を共に歩んできたいと思う気持ち。それが何より大切なんです」
「あなたのご両親はそれができたの?」
「ええ。そう語ってくれました。それから本当の意味で自分たちは夫婦になれたのだと」
「私にもそれをやれというの?」
何も答えない代わり、シエルはじっとイレーナの目を見つめ返した。
……もしかして、ダヴィドに何か言われたのだろうか。ずっとイレーナは夫を避けるように行動している。同じ屋敷にいるのに顔を合わせようとしない。夜も、体調が悪いからとメイドに追い返してもらっている。
そんなイレーナの振る舞いを、シエルは諫めているのだろうか。ダヴィドを受け入れろと、彼を愛せと言っているのだろうか。
――そんなの無理に決まってる。
「……マリアンヌ様はどうするの」
予想外の指摘に、シエルはちょっと目を瞠った。
「彼女には、もうすぐ子どもが生まれるわ。母親になるのよ? それなのに、私が伯爵と本当の夫婦になったら……あの子はどうなるの?」
「それは……」
「捨てられるのよ」
愛されないことは、恐ろしいことだ。イレーナはそれをよく知っている。
髪を掻き毟って、なりふり構わず縋りついて、いかないでほしいと叫んでも、相手は見向きもしない。冷たい一瞥をくれるだけだ。残された女はどうなるだろう。生まれた子はどうなる。
『お前のせいよ! イレーナ!』
「私はいや……あんな恐ろしい思いを彼女たちに味わわせるくらいなら、ずっと愛されなくていい。伯爵の愛なんかいらない……!」
カタカタと震える手に気づいたシエルがさっと立ち上がった。ゆっくりと近づいてきて、そっとイレーナの肩に手を置いた。
「……すみません。差し出がましいことを申し上げました。……イレーナ様はあの方の正式な妻です。あなたが毅然とした態度を貫けば、自ら歩み寄ろうとなされば、きっと伯爵と仲のよい夫婦になれる。マリアンヌ様は己の立場をご理解なさるだろうと……あなたにはその権利があり、そうすべきだと思ったのです」
シエルは悪くない。正論を述べただけだ。だがその正しさがイレーナには受け入れることができなかった。
「お願い。そんなこと、言わないで……わたしには、できない。わたしには……」
誰かを愛することなんかできない。愛するのが、怖い。
今日も、昔の思い出から、それぞれの家族構成の話となった。
「私には上に兄が二人と、姉が一人、それから下に弟と妹が一人ずつおります」
彼はやはり子爵家の三男にあたるらしい。上と下に挟まれて、シエルはしっかりとした子に育ったのだろう。
「イレーナ様は?」
「妹が三人と……兄が一人」
「兄?」
「ええ。私の母の子ではないけれど」
「……すみません」
余計なことを聞いてしまったと、シエルは気落ちしたように肩を下げた。それにイレーナは少し笑う。
「気にしないで。愛人の子なんて、珍しくもなんともないわ」
意地悪な性格ならともかく、兄はいい人だった。むしろ自分の立場に遠慮して、いつも肩身が狭い思いをしているようだった。
『イレーナ、ごめんな』
イレーナが実家を出る直前、言われた言葉だ。きっといろんな思いが込められていた。決して兄のせいではないのに、愛人の子であるだけに陰口を叩かれ、冷たい視線にさらされてきた兄を、イレーナは不憫に思っていた。
自分と兄では、育て方が違っていた。
今まで別宅で暮らしていたのに、ある日突然跡取りとして引き取られた兄は人一倍厳しく躾けされ、期待に応えることを父に命じられた。
長女であるイレーナは、そんな兄に比べて求められる水準は低かった。負担はなく、楽ではあったが、女である自分には期待されない虚しさも味わった。
身分や立場。性別。いろんな違いやしがらみがあって、平等に子を育てることは難しいのかもしれない。
「ご兄弟とは、仲がよろしかった?」
「仲がよい……かどうかは自分ではよくわかりませんが、兄や姉には面倒をよく見てもらって、下の子たちとは一緒に遊んだりしました」
――ああ。彼の家は違うのだ。
イレーナは眩しいものを見るかのように目を細めた。
「シエルは温かい家庭を築きそう」
ぽつりとつぶやいた言葉に、シエルは困ったように微笑んだ。きっと彼のことだからあなたも築けますよと言いたいのだろう。
でも言えない。だってマリアンヌという愛人がいるのにどうして築けるのだろうか。
「私には、きっと無理よ」
彼の無言の問いかけに、イレーナは答えた。愛人がいようがいまいが、イレーナには夫を愛する自信がなかった。
「イレーナ様」
スッと背筋を伸ばして、シエルは諭すようにイレーナを見つめた。こういう時の彼は、なぜか自分よりうんと年上に見える。イレーナよりも広い世界を知っていて、常識を身につけているような。
「私の両親は、最初夫婦仲があまりよろしくなかったようです」
「たくさん子どもがいるのに?」
「子どもの数は関係ありません」
そういうものだろうか。
ダヴィドと初めて夫婦になった夜。彼はイレーナを抱かなかった。部屋にすら、足を踏み入れなかった。子孫を残す。そんな役割すら、彼は自分の妻に求めなかったのだ。
「でも……仲がよくなったから、子どもができたのでしょう?」
イレーナの反論に、シエルは微笑んだ。
「子どもの有無は関係ありません」
「でも」
「人間は愛のない行為をしようと思えばできます」
生々しい話で、イレーナは眉をひそめた。けれどシエルは構わず続けた。
「だから子どもを作ろうと思えば、何人でも作ることができるんです」
「何が言いたいの」
「大切なのは、お互いの気持ちです」
「気持ち?」
はい、とシエルの声は優しかった。
「互いを気にかけ、労わり、一生を共に歩んできたいと思う気持ち。それが何より大切なんです」
「あなたのご両親はそれができたの?」
「ええ。そう語ってくれました。それから本当の意味で自分たちは夫婦になれたのだと」
「私にもそれをやれというの?」
何も答えない代わり、シエルはじっとイレーナの目を見つめ返した。
……もしかして、ダヴィドに何か言われたのだろうか。ずっとイレーナは夫を避けるように行動している。同じ屋敷にいるのに顔を合わせようとしない。夜も、体調が悪いからとメイドに追い返してもらっている。
そんなイレーナの振る舞いを、シエルは諫めているのだろうか。ダヴィドを受け入れろと、彼を愛せと言っているのだろうか。
――そんなの無理に決まってる。
「……マリアンヌ様はどうするの」
予想外の指摘に、シエルはちょっと目を瞠った。
「彼女には、もうすぐ子どもが生まれるわ。母親になるのよ? それなのに、私が伯爵と本当の夫婦になったら……あの子はどうなるの?」
「それは……」
「捨てられるのよ」
愛されないことは、恐ろしいことだ。イレーナはそれをよく知っている。
髪を掻き毟って、なりふり構わず縋りついて、いかないでほしいと叫んでも、相手は見向きもしない。冷たい一瞥をくれるだけだ。残された女はどうなるだろう。生まれた子はどうなる。
『お前のせいよ! イレーナ!』
「私はいや……あんな恐ろしい思いを彼女たちに味わわせるくらいなら、ずっと愛されなくていい。伯爵の愛なんかいらない……!」
カタカタと震える手に気づいたシエルがさっと立ち上がった。ゆっくりと近づいてきて、そっとイレーナの肩に手を置いた。
「……すみません。差し出がましいことを申し上げました。……イレーナ様はあの方の正式な妻です。あなたが毅然とした態度を貫けば、自ら歩み寄ろうとなされば、きっと伯爵と仲のよい夫婦になれる。マリアンヌ様は己の立場をご理解なさるだろうと……あなたにはその権利があり、そうすべきだと思ったのです」
シエルは悪くない。正論を述べただけだ。だがその正しさがイレーナには受け入れることができなかった。
「お願い。そんなこと、言わないで……わたしには、できない。わたしには……」
誰かを愛することなんかできない。愛するのが、怖い。
641
あなたにおすすめの小説
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
花嫁に「君を愛することはできない」と伝えた結果
藍田ひびき
恋愛
「アンジェリカ、君を愛することはできない」
結婚式の後、侯爵家の騎士のレナード・フォーブズは妻へそう告げた。彼は主君の娘、キャロライン・リンスコット侯爵令嬢を愛していたのだ。
アンジェリカの言葉には耳を貸さず、キャロラインへの『真実の愛』を貫こうとするレナードだったが――。
※ 他サイトにも投稿しています。
いいえ、望んでいません
わらびもち
恋愛
「お前を愛することはない!」
結婚初日、お決まりの台詞を吐かれ、別邸へと押し込まれた新妻ジュリエッタ。
だが彼女はそんな扱いに傷つくこともない。
なぜなら彼女は―――
旦那様から彼女が身籠る間の妻でいて欲しいと言われたのでそうします。
クロユキ
恋愛
「君には悪いけど、彼女が身籠る間の妻でいて欲しい」
平民育ちのセリーヌは母親と二人で住んでいた。
セリーヌは、毎日花売りをしていた…そんなセリーヌの前に毎日花を買う一人の貴族の男性がセリーヌに求婚した。
結婚後の初夜には夫は部屋には来なかった…屋敷内に夫はいるがセリーヌは会えないまま数日が経っていた。
夫から呼び出されたセリーヌは式を上げて久しぶりに夫の顔を見たが隣には知らない女性が一緒にいた。
セリーヌは、この時初めて夫から聞かされた。
夫には愛人がいた。
愛人が身籠ればセリーヌは離婚を言い渡される…
誤字脱字があります。更新が不定期ですが読んで貰えましたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
【完結】今日も旦那は愛人に尽くしている~なら私もいいわよね?~
コトミ
恋愛
結婚した夫には愛人がいた。辺境伯の令嬢であったビオラには男兄弟がおらず、子爵家のカールを婿として屋敷に向かい入れた。半年の間は良かったが、それから事態は急速に悪化していく。伯爵であり、領地も統治している夫に平民の愛人がいて、屋敷の隣にその愛人のための別棟まで作って愛人に尽くす。こんなことを我慢できる夫人は私以外に何人いるのかしら。そんな考えを巡らせながら、ビオラは毎日夫の代わりに領地の仕事をこなしていた。毎晩夫のカールは愛人の元へ通っている。その間ビオラは休む暇なく仕事をこなした。ビオラがカールに反論してもカールは「君も愛人を作ればいいじゃないか」の一点張り。我慢の限界になったビオラはずっと大切にしてきた屋敷を飛び出した。
そしてその飛び出した先で出会った人とは?
(できる限り毎日投稿を頑張ります。誤字脱字、世界観、ストーリー構成、などなどはゆるゆるです)
私も貴方を愛さない〜今更愛していたと言われても困ります
せいめ
恋愛
『小説年間アクセスランキング2023』で10位をいただきました。
読んでくださった方々に心から感謝しております。ありがとうございました。
「私は君を愛することはないだろう。
しかし、この結婚は王命だ。不本意だが、君とは白い結婚にはできない。貴族の義務として今宵は君を抱く。
これを終えたら君は領地で好きに生活すればいい」
結婚初夜、旦那様は私に冷たく言い放つ。
この人は何を言っているのかしら?
そんなことは言われなくても分かっている。
私は誰かを愛することも、愛されることも許されないのだから。
私も貴方を愛さない……
侯爵令嬢だった私は、ある日、記憶喪失になっていた。
そんな私に冷たい家族。その中で唯一優しくしてくれる義理の妹。
記憶喪失の自分に何があったのかよく分からないまま私は王命で婚約者を決められ、強引に結婚させられることになってしまった。
この結婚に何の希望も持ってはいけないことは知っている。
それに、婚約期間から冷たかった旦那様に私は何の期待もしていない。
そんな私は初夜を迎えることになる。
その初夜の後、私の運命が大きく動き出すことも知らずに……
よくある記憶喪失の話です。
誤字脱字、申し訳ありません。
ご都合主義です。
「お前とは結婚できない」って言ったのはそっちでしょ?なのに今さら嫉妬しないで
ほーみ
恋愛
王都ベルセリオ、冬の終わり。
辺境領主の娘であるリリアーナ・クロフォードは、煌びやかな社交界の片隅で、ひとり静かにグラスを傾けていた。
この社交界に参加するのは久しぶり。3年前に婚約破棄された時、彼女は王都から姿を消したのだ。今日こうして戻ってきたのは、王女の誕生祝賀パーティに招かれたからに過ぎない。
「リリアーナ……本当に、君なのか」
――来た。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく凍るようだった。
振り向けば、金髪碧眼の男――エリオット・レインハルト。かつての婚約者であり、王家の血を引く名家レインハルト公爵家の嫡男。
「……お久しぶりですね、エリオット様」
危ない愛人を持つあなたが王太子でいられるのは、私のおかげです。裏切るのなら容赦しません。
Hibah
恋愛
エリザベスは王妃教育を経て、正式に王太子妃となった。夫である第一王子クリフォードと初めて対面したとき「僕には好きな人がいる。君を王太子妃として迎えるが、僕の生活には極力関わらないでくれ」と告げられる。しかしクリフォードが好きな人というのは、平民だった。もしこの事実が公になれば、クリフォードは廃太子となり、エリザベスは王太子妃でいられなくなってしまう。エリザベスは自分の立場を守るため、平民の愛人を持つ夫の密会を見守るようになる……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる