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8. 会話
「こんにちは、ダヴィド様」
イレーナの挨拶に、ぽかんとダヴィドが口を開いていた。彼のそのような表情は初めて見たかもしれない。イレーナが彼の出迎えを快く受け入れ、部屋で待っていることなどほとんどなかったからだ。
「……どういう風の吹き回しだ」
「あなたときちんとお話してみたいと思ったのです」
正面から夫を見つめる妻に、ダヴィドは思わず同じ部屋にいたシエルに視線をやった。シエルは穏やかな笑みで、どうぞと彼を促した。ダヴィドの視線がイレーナへ戻り、しばらく見つめ合った後、やがてぜんまい仕掛けの人形を思わせる動きで彼は引かれた椅子へと腰かけた。
それを合図に、イレーナは使用人にお茶を淹れさせる。香りを楽しみ、一口だけ含む。そんなイレーナの一挙一動を伯爵は凝視していた。
「ダヴィド様」
「……なんだ」
「今までの非礼をお詫びしますわ。失礼な態度をとってしまい、申し訳ありません」
長い沈黙が落ちた。二人はただお互いを見つめていた。
伯爵の後ろに撫でつけられた豊かな黒髪。奥二重の、アーモンド型をした黒い目。高い鼻梁。厚めの唇。初めてきちんと目にした夫の顔はなるほど、実によく整っていた。じっと見つめるイレーナに、やがてダヴィドが居心地悪そうに視線を逸らした。
「今日の貴女には驚かされてばかりだ。……変なものでも食べたんじゃないだろうな?」
失礼な物言いも、今日ばかりは仕方がない。それだけイレーナの振る舞いは突然だった。
「先日兄と会って話をしたんです」
「……ああ。そうらしいな」
妻の身内なのに夫は挨拶すらしなかった。自覚があるからなのか、伯爵の顔は気まずそうであった。でもイレーナは別にそのことを責めたいわけではなかった。
「兄夫婦は上手くいっているものばかりだと私は思っていました。でも、そうじゃなかった。上手くやろうと思っていた兄の気持ちは義姉には届いておらず、二人はすれ違っていた。兄はひどく傷ついていました。私もそんな兄を見て、苦しくなりました。それで……結婚って何なんだろうって思いましたの」
たどたどしい言葉であったが、イレーナは懸命に話した。ダヴィドは黙って耳を傾けてくれた。
「先日、シエルにも言われました。夫婦とはお互い歩み寄るものだと」
ちらりと伯爵がシエルを見る。彼はイレーナを見つめていた。
「あなたの意図がどういうものであれ、私に歩み寄ろうとした。それを私は拒絶した。どちらかが拒絶すれば、そこで終わりです。喧嘩することも、そこから歩み寄ることも、ない。私は……それは良くないんじゃないかと、兄の話を聞いて思ったのです」
だから、とイレーナはそこで言葉を切った。自分を落ち着かせるように息を吸って吐いて、また続けた。
「あなたと、もう一度きちんと向き合ってみようと思いましたの。思えば私はあなたのことを何も知らない。知っていると思っても、それは初対面の、少しだけ会話をして形作られた、いわば私が勝手に作り上げたものです。私はあなたのことがもっときちんと知りたいのです」
あらかじめ考えていた台詞を無事に言い終えることができ、イレーナはふうっと息を吐きだした。自分の考えを相手に伝えるということはとても勇気がいることであった。話さなくては、と思うあまり途中早口になっていたかもしれない。それでも、相手に話すことが大切なのだとイレーナはシエルに教えてもらった。
兄との会話で気落ちしていたイレーナに、シエルはもう一度話してみてはどうかと助言をくれたのだ。
『お二人とも頑なな所がおありですので、一度打ち解けてしまえばすぐに仲良くなれるはずです』
そんな簡単に上手くいくとは思えない。でもシエルにそう言われると、案外そうかもしれないとイレーナは思い始め、熟考の末、ダヴィドと話すことを決めた。たぶん一人では絶対に下せなかった決断だ。
そっとシエルを見る。空色の瞳は、よく頑張りましたねと優しく細められていた。イレーナはそれにひどく安堵し、もう少し頑張れそうだと向かいの席へと視線をやった。伯爵は未だ何の反応も示していない。
「ダヴィド様?」
声をかけると、我に返ったように彼の目が瞬いた。
「あ、ああ。いや、なに、私も今貴女が話しているのを見て、その、自分が思い描いていた姿とはずいぶん違っているのだなと知ったところだ」
「あなたから見て、私はどのような姿でした?」
「ずばりと聞くな……」
「知りたいんです」
じっと見つめるイレーナに観念したのか、渋々と伯爵が口を開く。
「冷たい女性だと、思っていた。きれいな容姿であったが、どこか感情に疎い……」
「人形のような女?」
「そこまでは言ってない!」
慌てたように訂正する伯爵が可笑しくて、イレーナはくすりと微笑んだ。彼の目が真ん丸と見開かれる。
「貴女も、笑うんだな」
「ええ。笑いますわ」
イレーナがそう答えれば、うん、それもそうだなと伯爵は頬をかいた。重苦しくはないが、奇妙な沈黙が流れる。
「なんだか、とても落ち着かない気分だ」
「私もです」
でも、必要なことだと思った。きっともっと早く、こうするべきだったのだ。
「これから少しずつでも、あなたのことを教えてください」
「……ああ。その、私の方も」
ぎこちない了承。二人は顔を見合わせて、やっぱりぎこちない笑みを浮かべたのだった。
イレーナの挨拶に、ぽかんとダヴィドが口を開いていた。彼のそのような表情は初めて見たかもしれない。イレーナが彼の出迎えを快く受け入れ、部屋で待っていることなどほとんどなかったからだ。
「……どういう風の吹き回しだ」
「あなたときちんとお話してみたいと思ったのです」
正面から夫を見つめる妻に、ダヴィドは思わず同じ部屋にいたシエルに視線をやった。シエルは穏やかな笑みで、どうぞと彼を促した。ダヴィドの視線がイレーナへ戻り、しばらく見つめ合った後、やがてぜんまい仕掛けの人形を思わせる動きで彼は引かれた椅子へと腰かけた。
それを合図に、イレーナは使用人にお茶を淹れさせる。香りを楽しみ、一口だけ含む。そんなイレーナの一挙一動を伯爵は凝視していた。
「ダヴィド様」
「……なんだ」
「今までの非礼をお詫びしますわ。失礼な態度をとってしまい、申し訳ありません」
長い沈黙が落ちた。二人はただお互いを見つめていた。
伯爵の後ろに撫でつけられた豊かな黒髪。奥二重の、アーモンド型をした黒い目。高い鼻梁。厚めの唇。初めてきちんと目にした夫の顔はなるほど、実によく整っていた。じっと見つめるイレーナに、やがてダヴィドが居心地悪そうに視線を逸らした。
「今日の貴女には驚かされてばかりだ。……変なものでも食べたんじゃないだろうな?」
失礼な物言いも、今日ばかりは仕方がない。それだけイレーナの振る舞いは突然だった。
「先日兄と会って話をしたんです」
「……ああ。そうらしいな」
妻の身内なのに夫は挨拶すらしなかった。自覚があるからなのか、伯爵の顔は気まずそうであった。でもイレーナは別にそのことを責めたいわけではなかった。
「兄夫婦は上手くいっているものばかりだと私は思っていました。でも、そうじゃなかった。上手くやろうと思っていた兄の気持ちは義姉には届いておらず、二人はすれ違っていた。兄はひどく傷ついていました。私もそんな兄を見て、苦しくなりました。それで……結婚って何なんだろうって思いましたの」
たどたどしい言葉であったが、イレーナは懸命に話した。ダヴィドは黙って耳を傾けてくれた。
「先日、シエルにも言われました。夫婦とはお互い歩み寄るものだと」
ちらりと伯爵がシエルを見る。彼はイレーナを見つめていた。
「あなたの意図がどういうものであれ、私に歩み寄ろうとした。それを私は拒絶した。どちらかが拒絶すれば、そこで終わりです。喧嘩することも、そこから歩み寄ることも、ない。私は……それは良くないんじゃないかと、兄の話を聞いて思ったのです」
だから、とイレーナはそこで言葉を切った。自分を落ち着かせるように息を吸って吐いて、また続けた。
「あなたと、もう一度きちんと向き合ってみようと思いましたの。思えば私はあなたのことを何も知らない。知っていると思っても、それは初対面の、少しだけ会話をして形作られた、いわば私が勝手に作り上げたものです。私はあなたのことがもっときちんと知りたいのです」
あらかじめ考えていた台詞を無事に言い終えることができ、イレーナはふうっと息を吐きだした。自分の考えを相手に伝えるということはとても勇気がいることであった。話さなくては、と思うあまり途中早口になっていたかもしれない。それでも、相手に話すことが大切なのだとイレーナはシエルに教えてもらった。
兄との会話で気落ちしていたイレーナに、シエルはもう一度話してみてはどうかと助言をくれたのだ。
『お二人とも頑なな所がおありですので、一度打ち解けてしまえばすぐに仲良くなれるはずです』
そんな簡単に上手くいくとは思えない。でもシエルにそう言われると、案外そうかもしれないとイレーナは思い始め、熟考の末、ダヴィドと話すことを決めた。たぶん一人では絶対に下せなかった決断だ。
そっとシエルを見る。空色の瞳は、よく頑張りましたねと優しく細められていた。イレーナはそれにひどく安堵し、もう少し頑張れそうだと向かいの席へと視線をやった。伯爵は未だ何の反応も示していない。
「ダヴィド様?」
声をかけると、我に返ったように彼の目が瞬いた。
「あ、ああ。いや、なに、私も今貴女が話しているのを見て、その、自分が思い描いていた姿とはずいぶん違っているのだなと知ったところだ」
「あなたから見て、私はどのような姿でした?」
「ずばりと聞くな……」
「知りたいんです」
じっと見つめるイレーナに観念したのか、渋々と伯爵が口を開く。
「冷たい女性だと、思っていた。きれいな容姿であったが、どこか感情に疎い……」
「人形のような女?」
「そこまでは言ってない!」
慌てたように訂正する伯爵が可笑しくて、イレーナはくすりと微笑んだ。彼の目が真ん丸と見開かれる。
「貴女も、笑うんだな」
「ええ。笑いますわ」
イレーナがそう答えれば、うん、それもそうだなと伯爵は頬をかいた。重苦しくはないが、奇妙な沈黙が流れる。
「なんだか、とても落ち着かない気分だ」
「私もです」
でも、必要なことだと思った。きっともっと早く、こうするべきだったのだ。
「これから少しずつでも、あなたのことを教えてください」
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