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36、母の過去
しおりを挟む「まぁ、お母さまに?」
母にもそんな相手がいたとは……イリスは驚いた。
「面白くないことに、二人はとても仲が良くてね。将来はきっと仲睦まじい夫婦になるだろうと言われていた」
けれど父と結ばれたということは、そうはならなかったのだ。
「相手の男性にとって、マリエットは妹にしか見えなかったそうだ」
「……どうして?」
ずっと一緒にいたのに。とても仲が良かったのに。
「きっと距離が近すぎたんだろうね。家族のようには思えても、一人の恋人として愛することはできなかったんだ」
「そんな……」
「二人はいろいろと話し合ったが、喧嘩になってしまって仲は余計に拗れてしまった。それでもマリエットは相手を愛して、歩み寄ろうとしたけれど……彼女の努力も虚しく、相手は去ってしまった。他に好きな女性がいるという告白を受けてね」
その時の母の気持ちを思い、イリスは胸が苦しくなった。ずっと愛してきた人に妹のような存在だと言われ、違う女性が好きだと別れを告げられた。
とても苦しい。辛い過去だ。
「……お母さまがわたしとラファエルのことを不安に思うのは、かつての自分の境遇に重ねていらっしゃるから?」
父は静かに頷いた。
「イリス。人はね、長い時間を共に過ごした相手と別れることをとても辛く感じてしまうんだ。悪い相手でも喪失感を覚える。特別に想っていた相手なら、なおのこと……マリエットはイリスが取り返しのつかない傷を心に負ってしまうことが怖いんだろうね」
取り返しのつかない傷……母もそうなのだろうか。
いくら父が深く愛してくれているとしても、過去の別れは棘のように突き刺さったままなのだろうか。
「イリスとラファエル君が昔からとても仲が良いことはわかっている。けれどその仲の良さは兄が妹を気にかけるようなものではないか、幼い頃は好意だと思っても、成長した今なら別のものだと気づいてしまうんじゃないか、私たちはそう考えて、しばらく様子を見守っていたんだよ」
決して意地悪から二人を引き離そうしていたわけではないらしい。
「お母さまの考えはわかったわ。でも……それでも、わたしとラファエルはお母さまたちと違う」
イリスの訴えに、父はわかっているというように優しく目を細めた。
「その通りだ。マリエットたちの過去と、イリスとラファエル君の関係はまた別の物語だ。一緒にしては失礼というものだね」
「そこまでわかっているのなら、どうして……」
「マリエットも本当はわかっているはずさ。ただイリスが倒れてしまって、少し不安になってしまったんだろう」
「やっぱりわたしのせいなのね……」
がっくりと落ち込むイリスに、「大丈夫さ」と侯爵が明るく励ました。
「女性はか弱そうに見えて、ずっと強い。マリエットが失恋から立ち直り、私の愛に応えてくれたようにね」
「ほんとう?」
「本当さ。今のお母さんを見ていたら、わかるだろう?」
イリスは父といる時の母を思い浮かべる。眩いばかりの美しい笑みを浮かべ、二人はいつまでたっても恋人同士のように仲睦まじい。
「……そうね。お母さまも、お父さまものこと深く愛していらっしゃるわ」
娘の言葉に父は誇らしげに頷いて見せたのだった。
イリスと侯爵が帰ると、母が「どこに行っていたの?」と慌てた様子で駆けつけてきた。
「公園に散歩さ」
「まぁ、そうだったの。私、てっきり……」
母はそこまで言って、気まずそうにイリスから視線を逸らした。
「イリス。またラファエルからお見舞いの品が届いているわよ」
わかったわ、とイリスは頷いた。母はまた、ラファエルを家へ上げなかったのだろう。
「お母さま」
「……なぁに?」
「公園の散歩、とても気持ちが良かったの。だから今度、お父さまとも一緒に行ってあげて。きっととても喜ぶでしょうから」
娘の言葉に母は肩透かしを食らったようだった。てっきりラファエルのことについて言うと思ったのだろう。
たしかに以前のイリスなら、いい加減我慢の限界だと、ここで母に強く抗議したかもしれない。けれど父から話を聞いて、もう少しだけ待ってみようと決めたのだ。信じることも、大切なことだと思うから。
『だからあと少しだけ、待ってほしい。あと少しだけ、私たちの心配に付き合っておくれ』
――おまえは私たちの可愛い娘なのだから。
(お父さまと話してみて、よかった)
「だそうだ、マリエット。私と一緒に出かけてくれるかい?」
まるで舞踏会でダンスを誘う時のように手を差し出した侯爵を、母は目を丸くして見つめた。やがて困ったように微笑み、彼の手をとった。
「大げさな人ね。それくらい、いつでもお受けするというのに」
「本当かい? それは嬉しい。イリス。おまえのおかげだな」
父が本当に嬉しそうに言うので、イリスは何だか笑ってしまった。母は娘のそんな顔を見て、「もう恥ずかしいわ」と呟いた。
「でも、そうね。たまには明るい太陽の下を歩くのも悪くないかもしれないわね」
母はそう言って、イリスに微笑んだ。イリスもまた「ええ、そうよ」と頷き返したのだった。
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