わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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34、協力者

「これを、届けてほしいの」

 渡した手紙を受け取ると、家令はちらりと宛名に目をやり、すぐにかしこまりましたと頭を下げた。きっとすぐにでも届けさせるだろう。なにせ相手はこの国の王女なのだから。

 グリゼルダとは、頻繁にではないが、手紙のやり取りをしていた。ディートハルトとの婚約がなくなり、侍女の仕事もやめたので、イレーネの近況を心配して……というのが表向きの内容だ。本音はただの暇つぶし、面白いことが起こっていないか知るためだ。

 王女相手なので当然返事を書かぬわけにはいかず、イレーネは新しい婚約者が決まったことなど、あまり詳しくは書かず、最低限の情報だけを彼女に報告していた。あとは季節柄のことや、グリゼルダが最近読んだという本の内容に関する返答に留めていた。

 だが、今回は違う。

 ハインツとのことを彼女が少しでも興味を引くように頭を捻って書き、駆け落ちするための助力を訴えた。もし力を貸してくれるならば、ハインツを通して計画を練ってほしいとも。

 かなり厚かましく、図々しい願いであることは承知だが、グリゼルダだけが頼りなのだと、イレーネは本音も混ぜて書き綴った。

 ハインツのことを愛している。彼と一緒に生きていきたいのだと。

 イレーネが王女と手紙のやり取りをしていることは、父も知っている。だがこれまで特に咎めることはしなかった。王族と娘が懇意にしていることは、父にとっても将来得に繋がるかもしれないと考えているからだ。ディートハルトのことがなければ、変わらずグリゼルダに仕えさせただろう。

 ともかくそういう経緯があったので、手紙を届けることも特に不審がられなかった……さすがに王女に助力を求めるとは思っていないだろう。……たぶん。

 大丈夫だと思っても、やはりこっそり封を切られ、中を確かめられているかもしれない。父でなくとも、グリゼルダの手元に届くまで、他の誰かに……そんなことないと思っても、不安は消えなかった。今のイレーネには待つことしかできない分、よけいにやきもきした。

(もし、姫様もだめだとなると……)

 その時は自分たちの力だけで逃げるしかない。イレーネが半ば諦めかけてそう思い始めた頃――グリゼルダからの返事が届いた。彼女は平静を装いながらその手紙に目を通していくにつれて、便箋を握る指先を震わせた。

『おまえの今までの恩に報いてあげる』

 グリゼルダは協力を引き受けてくれたのだった。

 グリゼルダはすでに駆け落ちの手順も一通り書いており、イレーネは自分とハインツを小屋で再会させてくれたメイド――ネリーも一緒に連れて行くことに決めた。

 イレーネは箱入り娘で、この先無事に逃げおおせてどこか田舎の地域に落ち着くにしても、きっと一人で生活するには苦労するはずだ。ハインツもしょせんは貴族のお坊ちゃんで、最悪二人して野垂れ死ぬ可能性もあった。屋敷から出るにしても、一人では難しいだろう。

 いろいろなことを踏まえると、初めから手引きしてくれる人間がいた方がいい。ネリーならば、ハインツの言伝を預かってくれたこともあり、説得できるかもしれない。……たとえ彼女が嫌だと言っても、イレーネは脅して付き合ってもらうつもりだった。

(ごめんなさい……)

 そう心の中で謝りながら、イレーネがネリーに打ち明けると――彼女はとても驚いた様子であったが、わかりましたと覚悟した表情で了承したので、イレーネの方がかえって動揺してしまった。

「本当にいいの?」
「はい」
「故国を離れることになるかもしれないのよ?」

 そしてもう二度と戻って来ることはない。

「はい。承知しております」
「……どうして、そこまでしてくれるの?」

 ハインツに会わせてくれたこともだ。同情していたとはいえ、他の使用人や父にばれたら解雇されていたかもしれないのに……。

「お嬢様に何かあったら力になってあげてほしいと、奥様に頼まれましたから」
「お母様に?」

 意外な名前にイレーネはネリーの顔をじっと見つめた。

「はい。私の母はもともと別のお屋敷で奉公していたのですが、そこの主人に手籠めにされたそうで……大きなお腹では仕事にならないからと暇を出されて途方に暮れていたところ、偶然教会に足を運んでいた奥様に、自分の屋敷へ来るようお声をかけていただいたのです」

 まだ外を自由に出られていたということは、母が使用人と駆け落ちする前のことだろう。イレーネが生まれる前の出来事だ。

「それで……いろいろありまして、奥様の身の回りの世話はすべて母が行うようになりまして、私も時々、母の手伝いをしていたのでございます」
「そうだったの……」

 仕事とはいえ、母のそばにいられた彼女がイレーネには羨ましく思えた。

「あなたがわたし付きのメイドになったのは最近よね? それまで、ずっと母の世話をしていたの?」
「はい。脚の悪くなった母に代わって……奥様はずっと、お嬢様のことを気にかけておられました」

(お母様……)

 母と引き離されたのはまだ十にも満たない頃だった。あの頃は寂しくて仕方がなかった。我慢できずこっそり会いに行っても、あとから必ず父にばれて、しばらくの間部屋に閉じ込められた。

 イレーネは泣いて、そのうち母も自分に会いたくないのだと思うようになっていった。そう思うことで、母のいない環境に慣れようとしたのだろう。

 だから今ネリーからずっと気にかけていたと言われても、信じられないような、だったらどうして今まで一度も会いにきてくれなかったの、とか、そういう複雑な気持ちを抱いた。

「お嬢様。どうか奥様を責めないであげてください。奥様がお部屋から出られないのは、すべて旦那様が禁じていられるからです」
「……わかっているわ」

 母を責めるべきではない。それに、離れていても自分のことをずっと気にかけてくれていたのだとわかって、安堵する気持ちもあった。

「ねぇ、お父様はお母様が許せないから……だから今でもあんな仕打ちをなさっているの?」
「それは……」

 ネリーは言い淀み、目を伏せた。

「私も詳しくは存じません。ですが……旦那様は決して奥様のことを嫌ってはいないと思います。むしろ深く愛しているからこそ……だからこそ、奥様が旦那様を置き去りにして逃げたことが今でも許せないのではないでしょうか」
「そうなの? でも……先に過ちを犯したのはお父様の方でしょう?」

 母は十分耐えた上で、逃げ出す道を選んだのだ。

 イレーネが納得できない顔でそう零すと、ネリーは困った顔で微笑んだ。

「母が言っていました。本当に大切なものは、失って初めて気づくものだと……どんなに真面目で賢い人も、そうした過ちを一度は犯すのだと……」

(本当に大切なもの……)

 父は母が逃げ出して、初めて母がなくてはならない存在だと気がついた。何の因果か、今度は娘である自分が母と同じ道を歩もうとしている。

 だがイレーネは父からすれば、母よりは価値の劣る存在だろう。

 もし失敗して連れ戻されたとしても、鳥籠で飼われることはない。自分の価値に気づく者はいないのだから。もし嘆き悲しむ者がいるとすれば、それはこれから逃げるハインツだけだ。

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