わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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66、夫の帰り

 二人だけで話したことがきっかけになったのか、ヨルクはイレーネにも心を開いてくれるようになった。遠慮している時はエミールが手を引っ張って連れてくる。

「お母さん。今夜、一緒に寝ていい?」

 イレーネがもうそろそろ寝ようかと手元の蝋燭を消そうとした時のことだ。扉を遠慮がちに叩いて、枕を手にしたエミールが入ってきた。彼の後ろにはまるで悪戯をして叱られるのを待つような顔をしたヨルクもいた。

「いいけど……どうしたの?」

 怖い夢でも見たの? と問えば、へへっとエミールは笑った。

「なんだか急に甘えたくなったの」
「まぁ……」

 息子の素直な甘え方に、イレーネは頬を緩ませた。こういうところは、ハインツを思い出す。

「そうなの。なら仕方がないわね。どうぞお入りなさい」

 毛布をめくってやると、お邪魔しますとエミールはいそいそと寝台に上がってきた。

「ほら、ヨルクも」

 ヨルクは本当にいいのか、というようにイレーネを見た。彼女はにっこり笑う。

「ええ。狭いけど、今夜は三人で寝ましょ」

 イレーネはディートハルトがいないので、自室の部屋で毎晩寝ていた。その方が落ち着くからだ。

「じゃあ、お邪魔します」

 二人仲良く並んで寝床に着くと、風邪を引かないようにしっかりと上まで毛布をかけてやる。

「えへへ。お母さんと眠るの、久しぶり」
「本当ね」
「ぼく二人に挟まれているから、すっごくあったかい」
「そのために俺を連れてきたのかよ」
「うーん。それもあるけど、なんだかヨルク寂しそうだったし」
「はぁ? 寂しくないし!」
「ええー。でもぼくがお母さんとお父さんの三人で寝たこと話しているうちになんだか懐かしくなって、一人お母さんのところに行こうとしたら、すごくおいていかれたみたいな顔したじゃん」
「暗かったからそう見えただけだ」
「ええーそんなことないよ」
「そんなことある」

 二人はしばらくそんな言い争いをしていたが、やがてどちらともなく黙り込んで、あっという間に眠ってしまった。もしかするといつもこんな感じなのかもしれない。

 イレーネは二人の寝顔を見ながら、久しぶりに穏やかで、心が満たされた気分を味わった。ディートハルトと過ごす、あの張りつめたような緊張感や、狂いそうになるほどの快楽を与えられる時とは全く別の、幸せな時間だった。

(こんな日がずっと続けばいいのに……)

 ディートハルトと再婚したので、イレーネはローゼンベルク家の女主人となった。家令やメイド長に相談を持ちかけられ、いろいろと決めて、エミールたちの世話も焼いてやっていると、一日はあっという間に過ぎていった。疲れもするが、充実した毎日だ。

 このままディートハルトには一生外で仕事に専念していてほしい……なんて思っていたが、とうとう彼が帰ってきた。

「わー! 父上が帰ってきたー!」

 エミールが嬉しそうに駆け寄り、ヨルクもお帰りなさいと告げていた。二人の子どもに囲まれたディートハルトは言葉をかけ、不意にイレーネの方を見た。

「……お帰りなさい」
「ああ。留守の間、ありがとう」

 夫婦として自然な挨拶ができているだろうか。よくわからぬまま家族で夕食を済ませ、自分がいない間の近況をエミールたちの口から聞かされると、ディートハルトは疲れてしまったのでそろそろ休むことを告げた。

 素直でいい子なエミールとヨルクは父を気遣い、就寝の挨拶をすると、大人しく子ども部屋へ戻っていった。イレーネは自然とディートハルトに付き添う流れで寝室へ向かい、部屋へ入るなり強く抱きしめられたので一瞬身体を強く強張らせた。

「――会いたかった」
「ぁ……」

 顎を掬われ、唇が触れたかと思うと無我夢中で口を吸われる。彼女は待って、と胸を押し返そうとしたが、その手は引き剥がされ、指を絡まされた。下半身に昂りをぐいぐい押し付けられ、イレーネはどきりとすると同時にお腹の奥底が切なく疼くのを感じた。

 雪崩れ込むように二人は寝台に倒れ、服も脱がぬままディートハルトはイレーネに覆い被さり、身体のあちこちを弄ってキスを落としてくる。乱れていく衣擦れの音に互いの荒い息づかいが興奮を呼び起こしていく。

 イレーネは僅かに残った理性でディートハルトに天蓋のカーテンを閉めてくれるよう頼んだ。彼はふっと笑って、言われた通りに紐を引っ張った。

 赤いカーテンが引かれ、すすり泣くような声からやがて抑えきれない甘い声に変わって、それに唸るような低い声が混ざって、男が女を組み敷いてよがらせる姿も、女を四つん這いにさせて後ろから腰を振るう男の姿も、男に馬乗りになって淫らに喘ぐ女の姿も、二人が一つに重なって激しく睦み合う姿も、黒い影となって浮かび上がるだけで、彼らがどんな表情をしているかまでは誰にもわからなかった。

「――留守の間、他の男には触れさせなかったか」

 胸を大きく上下させ、ぐったりと横たわるイレーネの顔や身体を未だ物足りなさそうに愛撫していたディートハルトが囁くように尋ねてきた。彼女は薄っすらと目を開けて、こくりと頷いた。頬に口づけされ、しっとりと汗ばんだ胸を固い胸板で押しつぶされる。

「きみに、贈り物がある」

 なんだろう、と思っていると、宝石や上質な絹布だと教えられた。

「今度、その宝石をつけて実家へ帰るといい。きみの父親も、さぞ驚くことだろう……」

 イレーネはまた小さく頷きながら、ハインツに贈られたペンダントのことを思い出していた。

「――これも持っていくのか」

 ディートハルトの再婚を受け入れ、住み慣れた町を出て行く数日前からイレーネは手荷物をまとめていた。

 必要なものはこちらですべて用意するからと言われたが、家にあるものはすべて思い出のつまった大切なものばかりだった。できることならば、そっくりそのまま持っていきたかったが、さすがにそれはできないので鞄に入る分だけ必死に選定している時のことだった。

 テーブルの上に置かれた雫型のペンダント――ハインツからの贈り物をディートハルトが手にしたので、彼女は考えるより先にひったくるようにして奪い返していた。

 さすがの彼も驚いたようで呆気にとられた表情をしていた。我に返ったイレーネもあ、と思うが、それでも大事なものを隠すように掌に包み込んだ。びくびくとした様子で背を向ける彼女の姿に、ディートハルトはいささか気を悪くしたのかもしれない。

「別に、とったりはしない」

 どこかぶっきらぼうに告げると、エミールの方へ行ってしまったから。

 それ以来ペンダントに触れられることはなかったが、目についてしまうと捨てるよう命じられるかもしれないと、彼女は引き出しの奥に仕舞って、彼がいる時は決して取り出さぬよう気をつけていた。エミールやヨルクがいる時もだ。

 だから大丈夫だと思っていたが、やはりディートハルトは忘れていなかったようだ。宝石は首飾りとなっており、その色は彼の瞳を思わせるような妖しくも美しい紫色をしていたから。

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