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愛の逃避行
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手紙をレイモンドの従者に預けると、グレイスたちはすぐに屋敷を出て、隣国エルズワース王国へ向かうことにした。移動手段は列車、夜間を走る寝台列車に乗る。
(こんな状況だというのに、なんだかわくわくしてしまうわ……)
グレイスは生まれてこの方、イングリス王国を出たことがない。馬車には乗ったことがあるが、列車も初めてである。しかも車内で食事をして眠るのだ。旅行ではしゃぐ子どものような興奮を覚えてしまう。
レイモンドは特別車両の乗車券――きちんと二人分の個室を購入してくれたので、大勢の乗車客に交じって息苦しさを感じることもなく、一人座っても十分余裕のある、ふかふかの座席から通り過ぎる風景を楽しむことができる。まさに、快適な長旅と言えた。
(住み慣れた故国を離れるというのに、見知らぬ国へ行くことへの期待や興奮の方が大きいなんて……)
「どうやら、あまり寂しくはないようだな」
向かいに座るレイモンドに見抜かれてしまい、少々居心地の悪さを覚えながらグレイスは姿勢を正した。
「ええ……。家族に何も言わず出てきてしまって、本当ならもっと不安や申し訳なさを覚えるべきなんでしょうけれど……悪いことをしてしまった自分が、少し誇らしくも思えるのです」
素直なグレイスの感想に、レイモンドは楽しそうに笑った。
「まるで家出を楽しむ少女のようだな」
「恥ずかしいですわ」
「別にいいじゃないか。貴女は今までずっとご家族のために父親や王家に従って生きてきたんだ。これからは自由に、やりたいことをやっても許されるはずだ。それに……」
「それに?」
レイモンドは視線を逸らし、言おうか言うまいか迷う様子で結局言った。
「貴女が俺と結婚するために愛の逃避行を決断してくれたかと思うと……胸が熱い」
「愛の、逃避行……」
きょとんした表情でレイモンドの言葉を繰り返すグレイスに、彼の顔は一気に赤く染まった。
「す、すまない! 気色の悪いことを言ってしまって。どうか忘れてくれ!」
「あ、いえ……。そう言われると、そうだなと思いまして」
自分はレイモンドと結婚するためにエルズワース王国へ向かっているのだ。
列車に乗れた興奮ですっかり忘れていた……というのは今のレイモンドには言えない。
「あの、閣下」
「よかったら、レイモンドと呼んでくれないか?」
「よろしいのですか?」
「もちろんだ。というか、名前で呼んでほしい。俺たちはふ、夫婦になるのだし」
グレイスはくすりと笑った。
「では、レイモンド様。これからどうぞ、よろしくお願いしますね」
「あ、ああ……こちらこそ」
慣れない様子のレイモンドにさらに笑みを深めれば、彼はくすぐったそうな顔をして頬をかく。
「今さらだが、貴女は肝が据わっているな」
「そうでしょうか」
「そうだろう。俺の突然の求婚を、こうもあっさり引き受けてくれて……いや、俺にとってはこの上ない幸運なんだが……やはり、アンドリューから逃げるためか?」
「それは……」
グレイスが口ごもれば、レイモンドはどこか寂しそうに微笑んだ。
「別に責めているわけじゃない。俺の出自や身分が役に立つのならば、遠慮なく利用してくれ。貴女と結婚できるだけで、俺はもう十分満足しているから」
レイモンドが嘘を言っているようには見えなかった。
(どうして彼はここまでわたしのことを望んでくれるのだろう……)
いっそ何か理由があった方が……と思ったところで、グレイスは兄から聞いたことを思い出す。女性を弄んだ噂が絶えず、相当な遊び人であったという。
(もしかしてわたしとの結婚も、そうした事情が絡んでいるのかしら)
窮地に陥っている女性を救うことで――弱みを握り、都合のいい妻を手に入れることが叶った。売った恩を理由に浮気しても、文句は言えまい、といった感じだろうが……。
(でも、今、目の前にいるレイモンド様を見ていると、あんまりしっくりこないのよね……)
高貴な人を前にして大変失礼な表現であるが、なんだか尻尾を振って喜びを露わにする犬に見える時があるのだ。こんな無邪気な態度をとる人が、果たして打算や邪な考えで結婚相手を選ぶだろうか。
「グレイス? すまない。不快にさせてしまったか?」
(ほら、今も)
グレイスの顔色をこれでもかと気にして、細やかな気遣いを忘れない。
「レイモンド様は、とてもお優しいのですね」
ぽつりと呟いたグレイスの評価に、レイモンドは目を見開き、次いで照れ臭そうに視線を逸らした。今度は目元をうっすらと染めていた。
(すぐに赤くなるところも、可愛らしい方……)
「からかわないでくれ……」
「からかっていませんが、気分を害してしまったのならばすみません」
「いや、別に怒っているわけじゃないんだが……こういうところは、変わってないんだな……」
最後の方はぶつぶつと言ってよくわからなかったが、先ほどよりも幾分雰囲気が和み、グレイスはレイモンドの先ほどの疑問に答えることにした。
「レイモンド様のおっしゃるとおり、わたしがあなたを選んだのは、あなたが一番王室の方々と互角に渡り合える相手だからです」
「もちろん貴女のためなら喜んでやつらと戦うつもりだが、俺はずっと王室から疎まれていた存在だぞ? よく選ぼうと思ったな。もっと力がある貴族を頼るのも、一つの手だったはずだ」
グレイスは悠然と微笑んだ。その笑みにレイモンドは思わず圧倒される。
「あなたがマデリーン様のご子息であることは間違いございません。その血は誰にも否定することはできないのです」
「血、か……」
「ええ。レイモンド様も王族の血は引いているのですから王子様と言えば王子様ですわ」
「まぁ、今のイングリス王室が病か何かで全滅すれば、血を辿って俺が王になる可能性もなくはないが……」
あり得ない話にレイモンドは苦笑するが、ふと真顔になった。
「だが……確かに伯父たちにとって、母はいろいろと厄介な存在だった。今も、そうだろうな。切り札もあると言えばある。上手くやれば、王室にも口を出す権利はある」
だが、とまだどこか腑に落ちない顔だ。
「本当に、それが全ての理由か?」
「……リアナ様のお子を、不遇な立場に置いてはいけないと思ったのです」
レイモンドは難しい顔をした。
「貴女はあの子が憎くないのか」
グレイスは列車の窓から、遠くの景色を見た。
『おかあさん、どこ?』
「……あの子の泣いている姿が、昔、会った少年の記憶と重なったのです」
レイモンドが身体を揺らしたのは、グレイスの目には映らなかった。
「その子はいつも泣きたいのを我慢しているような、寂しい子でした」
グレイスが彼と出会ったのも、人気のない廊下だった。
「王妃殿下から作法についていろいろ教わるようにと、父が頻繁にわたしを王宮へ連れて行って……それが終わって、父が陛下や他の貴族と話をしている間、少し時間ができて、わたしは広いお城を探検するように歩き回っていました」
大きな柱の陰に自分より背の低い少年が見えた。そのまま見ていると突然蹲ったので、グレイスは心配から近寄って声をかけた。彼は慌てて目元を拭っていたので、たぶん泣いていたのだろう。
当時のグレイスは妹が泣いているように見えて、放っておけなかった。けれど彼女自身もまだ十歳に満たない少女に過ぎず、ハンカチを渡すのが精いっぱいだった。
「初めて会った時は、その子も警戒していたのか、すぐに逃げてしまいました。嫌われてしまったと思っていたんですけれど、次に王宮へ来た時に、わたしを探してハンカチを返してくれたんです」
わざわざグレイスが一人になるのを待って、ずっと様子を見ていたらしい。
グレイスはまた少年が話しかけてくれるように、帰り際王妃がくれた菓子袋を手渡した。中には綺麗な包装紙に包まれた飴玉が入っている。食べきれないから、いくつかもらってほしい。でも袋は可愛くて気に入っているから、食べ終わったら返してほしいと言って。
少年は戸惑ったものの、袋をもらって、次にグレイスが会いに来た時には、すでに食べ終わったと言って返しに来てくれた。
そこから、少しずつ彼と話すようになった。
「少年は訳ありのようで、人目を忍ぶようにして会っていました。時間も少しだったけれど……今でも、忘れられません」
別れは突然だった。
『ここへ来ることはもうできない』
『どうして?』
『理由は言えない……。でも、もう会えないんだ』
せっかく笑顔を見せてくれるようになったのに、少年はまた泣きそうな顔で俯いてしまった。きっと自分には言えない事情があるのだと思い、それ以上グレイスは尋ねることはできなかった。
『……亡くなったお母様がおっしゃっていたわ。人の縁は不思議なものだって。忘れていても、ある日ふっと会えることがあるって。だから、きっといつかまた会えるわ』
だから代わりに少年にそう告げて、約束した。彼にまた会うこと。彼を決して忘れないことを……。
(結局、まだ会えていないのよね……)
黒髪の――前髪が長くて、いつも俯き加減だったのではっきり思い出せないのだが、緑か青色の瞳をした少年は、今頃何をしているのだろうか。
(彼がわたしのことを忘れていても、どこかで元気に暮らしているといいのだけれど……)
やはりどこへ行くのか、もっと詳しく聞いておけばよかった。でも、あの時の彼は事情を話せないようだったし……と考えに耽っていたグレイスはハッとする。
「ごめんなさい。わたしったら、つい一人で昔のことを話してしまって……」
すっかりレイモンドのことを忘れていた。
「いや、聞けてよかった」
「レイモンド様?」
彼は目を細め、優しい表情でグレイスを見つめた。
「本当に、よかった」
どうして彼がそんな表情をするかわからず、グレイスは少し戸惑い、ふと思った。
あの少年が教えてくれた名前は「レイ」だった。
(レイと、レイモンド……)
似ていると思い、まさか……と思ったが、レイは黒髪で、レイモンドは眩いほどの金髪をしている。
(それにレイモンド様はマデリーン王女殿下が暮らしていた離宮でずっと暮らしていたと聞くわ。わたしと会えるはずもない)
そもそもレイモンドは、グレイスより歳上である。レイはどう見ても自分より年下で、身体の線も細く、レイモンドの幼少期と結びつかなかった。
(きっと隣国かどこかの国からお忍びで来ていた賓客で、事情があって故国へ帰ることになったのよ)
グレイスはそう思った。もしかすると、たとえレイという少年がレイモンドであったとしても、彼が遊び人に育ったとは思いたくないという気持ちがあるのかもしれない。
(そんな人ではないと信じたい……)
だが自分はまだレイモンドに対して何も知らなかった。
彼が今、幸せそうな表情で自分を見つめる理由も。
(こんな状況だというのに、なんだかわくわくしてしまうわ……)
グレイスは生まれてこの方、イングリス王国を出たことがない。馬車には乗ったことがあるが、列車も初めてである。しかも車内で食事をして眠るのだ。旅行ではしゃぐ子どものような興奮を覚えてしまう。
レイモンドは特別車両の乗車券――きちんと二人分の個室を購入してくれたので、大勢の乗車客に交じって息苦しさを感じることもなく、一人座っても十分余裕のある、ふかふかの座席から通り過ぎる風景を楽しむことができる。まさに、快適な長旅と言えた。
(住み慣れた故国を離れるというのに、見知らぬ国へ行くことへの期待や興奮の方が大きいなんて……)
「どうやら、あまり寂しくはないようだな」
向かいに座るレイモンドに見抜かれてしまい、少々居心地の悪さを覚えながらグレイスは姿勢を正した。
「ええ……。家族に何も言わず出てきてしまって、本当ならもっと不安や申し訳なさを覚えるべきなんでしょうけれど……悪いことをしてしまった自分が、少し誇らしくも思えるのです」
素直なグレイスの感想に、レイモンドは楽しそうに笑った。
「まるで家出を楽しむ少女のようだな」
「恥ずかしいですわ」
「別にいいじゃないか。貴女は今までずっとご家族のために父親や王家に従って生きてきたんだ。これからは自由に、やりたいことをやっても許されるはずだ。それに……」
「それに?」
レイモンドは視線を逸らし、言おうか言うまいか迷う様子で結局言った。
「貴女が俺と結婚するために愛の逃避行を決断してくれたかと思うと……胸が熱い」
「愛の、逃避行……」
きょとんした表情でレイモンドの言葉を繰り返すグレイスに、彼の顔は一気に赤く染まった。
「す、すまない! 気色の悪いことを言ってしまって。どうか忘れてくれ!」
「あ、いえ……。そう言われると、そうだなと思いまして」
自分はレイモンドと結婚するためにエルズワース王国へ向かっているのだ。
列車に乗れた興奮ですっかり忘れていた……というのは今のレイモンドには言えない。
「あの、閣下」
「よかったら、レイモンドと呼んでくれないか?」
「よろしいのですか?」
「もちろんだ。というか、名前で呼んでほしい。俺たちはふ、夫婦になるのだし」
グレイスはくすりと笑った。
「では、レイモンド様。これからどうぞ、よろしくお願いしますね」
「あ、ああ……こちらこそ」
慣れない様子のレイモンドにさらに笑みを深めれば、彼はくすぐったそうな顔をして頬をかく。
「今さらだが、貴女は肝が据わっているな」
「そうでしょうか」
「そうだろう。俺の突然の求婚を、こうもあっさり引き受けてくれて……いや、俺にとってはこの上ない幸運なんだが……やはり、アンドリューから逃げるためか?」
「それは……」
グレイスが口ごもれば、レイモンドはどこか寂しそうに微笑んだ。
「別に責めているわけじゃない。俺の出自や身分が役に立つのならば、遠慮なく利用してくれ。貴女と結婚できるだけで、俺はもう十分満足しているから」
レイモンドが嘘を言っているようには見えなかった。
(どうして彼はここまでわたしのことを望んでくれるのだろう……)
いっそ何か理由があった方が……と思ったところで、グレイスは兄から聞いたことを思い出す。女性を弄んだ噂が絶えず、相当な遊び人であったという。
(もしかしてわたしとの結婚も、そうした事情が絡んでいるのかしら)
窮地に陥っている女性を救うことで――弱みを握り、都合のいい妻を手に入れることが叶った。売った恩を理由に浮気しても、文句は言えまい、といった感じだろうが……。
(でも、今、目の前にいるレイモンド様を見ていると、あんまりしっくりこないのよね……)
高貴な人を前にして大変失礼な表現であるが、なんだか尻尾を振って喜びを露わにする犬に見える時があるのだ。こんな無邪気な態度をとる人が、果たして打算や邪な考えで結婚相手を選ぶだろうか。
「グレイス? すまない。不快にさせてしまったか?」
(ほら、今も)
グレイスの顔色をこれでもかと気にして、細やかな気遣いを忘れない。
「レイモンド様は、とてもお優しいのですね」
ぽつりと呟いたグレイスの評価に、レイモンドは目を見開き、次いで照れ臭そうに視線を逸らした。今度は目元をうっすらと染めていた。
(すぐに赤くなるところも、可愛らしい方……)
「からかわないでくれ……」
「からかっていませんが、気分を害してしまったのならばすみません」
「いや、別に怒っているわけじゃないんだが……こういうところは、変わってないんだな……」
最後の方はぶつぶつと言ってよくわからなかったが、先ほどよりも幾分雰囲気が和み、グレイスはレイモンドの先ほどの疑問に答えることにした。
「レイモンド様のおっしゃるとおり、わたしがあなたを選んだのは、あなたが一番王室の方々と互角に渡り合える相手だからです」
「もちろん貴女のためなら喜んでやつらと戦うつもりだが、俺はずっと王室から疎まれていた存在だぞ? よく選ぼうと思ったな。もっと力がある貴族を頼るのも、一つの手だったはずだ」
グレイスは悠然と微笑んだ。その笑みにレイモンドは思わず圧倒される。
「あなたがマデリーン様のご子息であることは間違いございません。その血は誰にも否定することはできないのです」
「血、か……」
「ええ。レイモンド様も王族の血は引いているのですから王子様と言えば王子様ですわ」
「まぁ、今のイングリス王室が病か何かで全滅すれば、血を辿って俺が王になる可能性もなくはないが……」
あり得ない話にレイモンドは苦笑するが、ふと真顔になった。
「だが……確かに伯父たちにとって、母はいろいろと厄介な存在だった。今も、そうだろうな。切り札もあると言えばある。上手くやれば、王室にも口を出す権利はある」
だが、とまだどこか腑に落ちない顔だ。
「本当に、それが全ての理由か?」
「……リアナ様のお子を、不遇な立場に置いてはいけないと思ったのです」
レイモンドは難しい顔をした。
「貴女はあの子が憎くないのか」
グレイスは列車の窓から、遠くの景色を見た。
『おかあさん、どこ?』
「……あの子の泣いている姿が、昔、会った少年の記憶と重なったのです」
レイモンドが身体を揺らしたのは、グレイスの目には映らなかった。
「その子はいつも泣きたいのを我慢しているような、寂しい子でした」
グレイスが彼と出会ったのも、人気のない廊下だった。
「王妃殿下から作法についていろいろ教わるようにと、父が頻繁にわたしを王宮へ連れて行って……それが終わって、父が陛下や他の貴族と話をしている間、少し時間ができて、わたしは広いお城を探検するように歩き回っていました」
大きな柱の陰に自分より背の低い少年が見えた。そのまま見ていると突然蹲ったので、グレイスは心配から近寄って声をかけた。彼は慌てて目元を拭っていたので、たぶん泣いていたのだろう。
当時のグレイスは妹が泣いているように見えて、放っておけなかった。けれど彼女自身もまだ十歳に満たない少女に過ぎず、ハンカチを渡すのが精いっぱいだった。
「初めて会った時は、その子も警戒していたのか、すぐに逃げてしまいました。嫌われてしまったと思っていたんですけれど、次に王宮へ来た時に、わたしを探してハンカチを返してくれたんです」
わざわざグレイスが一人になるのを待って、ずっと様子を見ていたらしい。
グレイスはまた少年が話しかけてくれるように、帰り際王妃がくれた菓子袋を手渡した。中には綺麗な包装紙に包まれた飴玉が入っている。食べきれないから、いくつかもらってほしい。でも袋は可愛くて気に入っているから、食べ終わったら返してほしいと言って。
少年は戸惑ったものの、袋をもらって、次にグレイスが会いに来た時には、すでに食べ終わったと言って返しに来てくれた。
そこから、少しずつ彼と話すようになった。
「少年は訳ありのようで、人目を忍ぶようにして会っていました。時間も少しだったけれど……今でも、忘れられません」
別れは突然だった。
『ここへ来ることはもうできない』
『どうして?』
『理由は言えない……。でも、もう会えないんだ』
せっかく笑顔を見せてくれるようになったのに、少年はまた泣きそうな顔で俯いてしまった。きっと自分には言えない事情があるのだと思い、それ以上グレイスは尋ねることはできなかった。
『……亡くなったお母様がおっしゃっていたわ。人の縁は不思議なものだって。忘れていても、ある日ふっと会えることがあるって。だから、きっといつかまた会えるわ』
だから代わりに少年にそう告げて、約束した。彼にまた会うこと。彼を決して忘れないことを……。
(結局、まだ会えていないのよね……)
黒髪の――前髪が長くて、いつも俯き加減だったのではっきり思い出せないのだが、緑か青色の瞳をした少年は、今頃何をしているのだろうか。
(彼がわたしのことを忘れていても、どこかで元気に暮らしているといいのだけれど……)
やはりどこへ行くのか、もっと詳しく聞いておけばよかった。でも、あの時の彼は事情を話せないようだったし……と考えに耽っていたグレイスはハッとする。
「ごめんなさい。わたしったら、つい一人で昔のことを話してしまって……」
すっかりレイモンドのことを忘れていた。
「いや、聞けてよかった」
「レイモンド様?」
彼は目を細め、優しい表情でグレイスを見つめた。
「本当に、よかった」
どうして彼がそんな表情をするかわからず、グレイスは少し戸惑い、ふと思った。
あの少年が教えてくれた名前は「レイ」だった。
(レイと、レイモンド……)
似ていると思い、まさか……と思ったが、レイは黒髪で、レイモンドは眩いほどの金髪をしている。
(それにレイモンド様はマデリーン王女殿下が暮らしていた離宮でずっと暮らしていたと聞くわ。わたしと会えるはずもない)
そもそもレイモンドは、グレイスより歳上である。レイはどう見ても自分より年下で、身体の線も細く、レイモンドの幼少期と結びつかなかった。
(きっと隣国かどこかの国からお忍びで来ていた賓客で、事情があって故国へ帰ることになったのよ)
グレイスはそう思った。もしかすると、たとえレイという少年がレイモンドであったとしても、彼が遊び人に育ったとは思いたくないという気持ちがあるのかもしれない。
(そんな人ではないと信じたい……)
だが自分はまだレイモンドに対して何も知らなかった。
彼が今、幸せそうな表情で自分を見つめる理由も。
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