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7、許せない
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(これで、離婚できるといいのだけれど……)
マティアスのことだから、おそらく断りはしない。むしろ喜んで応じてくれるはずだ。
(そうすればわたくしも少しは……)
広い寝台の上で、うとうととブランシュは眠りに落ちようとしていた。記憶を失い、己の過去が最悪なことを知って、王宮の人間からは嫌われていて、ショックで、眠れぬ日々が続いていた。しかし今日ようやく一つだけ問題が片付きそうで、彼女は安らかな心地になっていた。
まるで久しぶりに眠ることが許されたような気持ちになり、微睡みに身を委ねそうになった時――ふと物音が聞こえた。最初は気のせいかと思ったが、衣擦れのような音も聞こえ、一気に目が冴えた。
「だれ……?」
ブランシュは少しの明かりでも気になって眠れなかったので、燭台の光はすべて消させ、辺りは暗闇に満ちていた。その真っ暗な中に、確かに人の姿が映る。彼女は悲鳴すら出ず、凍り付いた。
(いや、来ないで……だれか……)
でも、記憶を取り戻してからブランシュは、侍女や衛兵たちから少しも親しみのある笑みを向けられたことがなかった。
命が助かってよかった、と言われなかった。
そんな者たちが、自分を助けてくれるだろうか。いいや、もしかしたら今、この状況を作り出しているのも――
『いっそのことおまえが――』
「っ」
パニックになって、逃げなくてはと思って、ブランシュは寝台から降りようとしたが、足がもつれ、転ぶように床へ滑り落ちた。そうしてちょうど、頭に何かぶつかる。ぬっと腕が掴まれ、彼女は今度こそ、悲鳴を上げた。しかし素早く口を塞がれ、暴れる手足を押さえつけられた。
「静かに」
ブランシュはぴたりとその声に動きを止めた。
どこかで聞いたことがあると思ったから。乱暴しようとするにはあまりにも穏やかな、理性のある声をしていたから。
(この声は……)
大人しくなったブランシュに相手は大丈夫だと思ったのか、一度拘束を解き、燭台に明かりを灯す。暗闇から現れたのは、マティアス・ルメールであった。ブランシュの夫である。
「驚かせてしまって、申し訳ありません」
本当にその通りだ。ブランシュは腰が抜けて、自力で立つことすらできなかった。
「どうして、ここに……」
「……」
マティアスは黙ってブランシュを見下ろす。
空色の瞳には決して友好的な色はなく、むしろそれとは真逆のものが見て取れた。
「あの、あなたは……」
「私との離縁を望んでいるとは、本当ですか」
ごくりと唾を飲み込む。
「はい。本当です。ですから――」
安心して下さい、と言おうとして、グッと腕に力を込められた。少し痛くて、眉根を寄せる。
「あの」
「なぜ、急にそんなことを?」
ブランシュは困惑しながらも、説明する。
「わたくしがあなたにしてしまったことを知って、これ以上あなたと一緒にいても、苦しめるだけだと思ったからです。わたくしとの結婚生活など、あなたにとって、ただの苦痛でしかないのですから、だから、離縁をして、あなたの本当に好きな人と、幸せになってほしい、と……」
ははっ、と乾いた声が聞こえ、ブランシュは口を噤んだ。マティアスがブランシュから手を放し、額に手を当てて、狂ったようにしばし笑い声を上げた。ブランシュは一言も発することができず、恐ろしい面持ちで夫を見ていた。
やがて彼はスッと感情を消し去った顔でブランシュに目を向ける。
「私のためだとおっしゃるんですか。今までどんなにこちらが平身低頭お願いしても、一笑して聞き入れて下さらなかった貴女が?」
「……信じられないのも、無理はないけれど」
「ええ、信じられません。いっそ他に好きな男ができたから、そちらに乗り換えるためだとおっしゃられた方が、よほど納得できます」
「わたくしに、そんな相手などおりません」
ようやく元の生活が送れるようになってきた所だ。それなのにどうしてそんなことが考えられようか。
「エレオノールのことを聞いたそうですね」
「エレオノール?」
知らぬ名に、マティアスが嘲笑する。
「私の婚約者の名前ですよ」
ブランシュは一瞬身体を強張らせるも、そうですか、と気まずげに答えた。
「ええ、聞きました」
「認めるんですね」
「あなたが、不快に思うのも無理はありません。けれどわたくしはただ、記憶を失う前のことが知りたかっただけです。……あなたと別れさせる結果になってしまって、その後、どうしているのかと思って……」
「そうですか。それで別の男性と幸せに暮らしていると知って、許せないと思ったんですか。その男を、今度は自分のそばに置いて遊んでやろうと考えたのですか」
「そんなこと!」
思うはずがない。
でも、ブランシュは言えなかった。あまりにも、マティアスの顔が苦しみと怒りで歪んでいたから。
「どうして貴女を信じることができるのですか」
「……」
「貴女は私と彼女が仲睦まじい姿を見て、引き裂こうと思った。あの女が幸せそうにしているのが許せないと、私や、エレオノール本人に言ったのですよ? それだけじゃない。彼女が出席しているパーティーで、彼女の悪口を言うよう、他のご令嬢に命じられ、孤立に陥るよう、仕組んだ。エレオノールが耐え切れず涙を流しても、貴女は嘲笑って、彼女の容姿を悪し様に罵った。他にも――」
「もうやめて!」
耐え切れず、遮ろうとしても、マティアスは止めなかった。
「彼女をあれほど傷つけた貴女の言葉など、到底信じられない。貴女はまたエレオノールを傷つけようとしている」
「公爵。わたくしは――」
「私のため? 本当に好きな人と今度こそ幸せになって欲しい? そんなの今さら……今さらもう遅い!」
怒鳴り声に、びくっと肩を震わせた。
「彼女はもういない! もう私と結ばれることはない! 他の誰でもない、貴女がそうしたんじゃないか!」
肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。
「記憶を失ったから何だと言うのです。今までのことがすべて無かったことになるんですか。私や彼女を傷つけたことは、貴女がしたことにはならず、許されるのですか!」
そんなはずない。
「離縁すれば、丸く収まると、問題がすべて片付くとでも思っているんでしょう」
ぎくりとする。
(違う)
決して、すべて片付くなど思っていない。今までの罪がなかったことになるとも。
……でも、恨んでいる人間を遠ざけられるとは、思っていたかもしれない。それはマティアスのためだと思いながら、本当はブランシュ自身のためで……罪悪感で苦しむ自分を少しでも楽にさせてやろうという……そんな気持ちが――。
(でも、でも……!)
「あなたも、わたくしとこれ以上夫婦でいることは耐えられないはずです」
ブランシュはひしとマティアスを見つめた。
「……ええ。そうですね」
「でしょう? わたくしは加害者で、あなたは被害者。あなたは、わたくしを恨んでいる。そんな者たちが夫婦になっても、上手くいくはずがありません」
記憶を失う前のブランシュが自殺するまで追い込まれたのは、ある意味当然の流れであった。
「だから、もう、こんなことはやめようと、思うのです。もちろん、あなたに許されようなど……そんなことは微塵も思っていません……信じてもらえないかもしれませんが、どの口が言うのだと、言われそうですが、本当に申し訳なかったと、そう思っております」
二人の間に沈黙が落ちた。
永遠にも思える、永い無言の時間が続く。
「そんなこと、許すものか」
マティアスのことだから、おそらく断りはしない。むしろ喜んで応じてくれるはずだ。
(そうすればわたくしも少しは……)
広い寝台の上で、うとうととブランシュは眠りに落ちようとしていた。記憶を失い、己の過去が最悪なことを知って、王宮の人間からは嫌われていて、ショックで、眠れぬ日々が続いていた。しかし今日ようやく一つだけ問題が片付きそうで、彼女は安らかな心地になっていた。
まるで久しぶりに眠ることが許されたような気持ちになり、微睡みに身を委ねそうになった時――ふと物音が聞こえた。最初は気のせいかと思ったが、衣擦れのような音も聞こえ、一気に目が冴えた。
「だれ……?」
ブランシュは少しの明かりでも気になって眠れなかったので、燭台の光はすべて消させ、辺りは暗闇に満ちていた。その真っ暗な中に、確かに人の姿が映る。彼女は悲鳴すら出ず、凍り付いた。
(いや、来ないで……だれか……)
でも、記憶を取り戻してからブランシュは、侍女や衛兵たちから少しも親しみのある笑みを向けられたことがなかった。
命が助かってよかった、と言われなかった。
そんな者たちが、自分を助けてくれるだろうか。いいや、もしかしたら今、この状況を作り出しているのも――
『いっそのことおまえが――』
「っ」
パニックになって、逃げなくてはと思って、ブランシュは寝台から降りようとしたが、足がもつれ、転ぶように床へ滑り落ちた。そうしてちょうど、頭に何かぶつかる。ぬっと腕が掴まれ、彼女は今度こそ、悲鳴を上げた。しかし素早く口を塞がれ、暴れる手足を押さえつけられた。
「静かに」
ブランシュはぴたりとその声に動きを止めた。
どこかで聞いたことがあると思ったから。乱暴しようとするにはあまりにも穏やかな、理性のある声をしていたから。
(この声は……)
大人しくなったブランシュに相手は大丈夫だと思ったのか、一度拘束を解き、燭台に明かりを灯す。暗闇から現れたのは、マティアス・ルメールであった。ブランシュの夫である。
「驚かせてしまって、申し訳ありません」
本当にその通りだ。ブランシュは腰が抜けて、自力で立つことすらできなかった。
「どうして、ここに……」
「……」
マティアスは黙ってブランシュを見下ろす。
空色の瞳には決して友好的な色はなく、むしろそれとは真逆のものが見て取れた。
「あの、あなたは……」
「私との離縁を望んでいるとは、本当ですか」
ごくりと唾を飲み込む。
「はい。本当です。ですから――」
安心して下さい、と言おうとして、グッと腕に力を込められた。少し痛くて、眉根を寄せる。
「あの」
「なぜ、急にそんなことを?」
ブランシュは困惑しながらも、説明する。
「わたくしがあなたにしてしまったことを知って、これ以上あなたと一緒にいても、苦しめるだけだと思ったからです。わたくしとの結婚生活など、あなたにとって、ただの苦痛でしかないのですから、だから、離縁をして、あなたの本当に好きな人と、幸せになってほしい、と……」
ははっ、と乾いた声が聞こえ、ブランシュは口を噤んだ。マティアスがブランシュから手を放し、額に手を当てて、狂ったようにしばし笑い声を上げた。ブランシュは一言も発することができず、恐ろしい面持ちで夫を見ていた。
やがて彼はスッと感情を消し去った顔でブランシュに目を向ける。
「私のためだとおっしゃるんですか。今までどんなにこちらが平身低頭お願いしても、一笑して聞き入れて下さらなかった貴女が?」
「……信じられないのも、無理はないけれど」
「ええ、信じられません。いっそ他に好きな男ができたから、そちらに乗り換えるためだとおっしゃられた方が、よほど納得できます」
「わたくしに、そんな相手などおりません」
ようやく元の生活が送れるようになってきた所だ。それなのにどうしてそんなことが考えられようか。
「エレオノールのことを聞いたそうですね」
「エレオノール?」
知らぬ名に、マティアスが嘲笑する。
「私の婚約者の名前ですよ」
ブランシュは一瞬身体を強張らせるも、そうですか、と気まずげに答えた。
「ええ、聞きました」
「認めるんですね」
「あなたが、不快に思うのも無理はありません。けれどわたくしはただ、記憶を失う前のことが知りたかっただけです。……あなたと別れさせる結果になってしまって、その後、どうしているのかと思って……」
「そうですか。それで別の男性と幸せに暮らしていると知って、許せないと思ったんですか。その男を、今度は自分のそばに置いて遊んでやろうと考えたのですか」
「そんなこと!」
思うはずがない。
でも、ブランシュは言えなかった。あまりにも、マティアスの顔が苦しみと怒りで歪んでいたから。
「どうして貴女を信じることができるのですか」
「……」
「貴女は私と彼女が仲睦まじい姿を見て、引き裂こうと思った。あの女が幸せそうにしているのが許せないと、私や、エレオノール本人に言ったのですよ? それだけじゃない。彼女が出席しているパーティーで、彼女の悪口を言うよう、他のご令嬢に命じられ、孤立に陥るよう、仕組んだ。エレオノールが耐え切れず涙を流しても、貴女は嘲笑って、彼女の容姿を悪し様に罵った。他にも――」
「もうやめて!」
耐え切れず、遮ろうとしても、マティアスは止めなかった。
「彼女をあれほど傷つけた貴女の言葉など、到底信じられない。貴女はまたエレオノールを傷つけようとしている」
「公爵。わたくしは――」
「私のため? 本当に好きな人と今度こそ幸せになって欲しい? そんなの今さら……今さらもう遅い!」
怒鳴り声に、びくっと肩を震わせた。
「彼女はもういない! もう私と結ばれることはない! 他の誰でもない、貴女がそうしたんじゃないか!」
肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。
「記憶を失ったから何だと言うのです。今までのことがすべて無かったことになるんですか。私や彼女を傷つけたことは、貴女がしたことにはならず、許されるのですか!」
そんなはずない。
「離縁すれば、丸く収まると、問題がすべて片付くとでも思っているんでしょう」
ぎくりとする。
(違う)
決して、すべて片付くなど思っていない。今までの罪がなかったことになるとも。
……でも、恨んでいる人間を遠ざけられるとは、思っていたかもしれない。それはマティアスのためだと思いながら、本当はブランシュ自身のためで……罪悪感で苦しむ自分を少しでも楽にさせてやろうという……そんな気持ちが――。
(でも、でも……!)
「あなたも、わたくしとこれ以上夫婦でいることは耐えられないはずです」
ブランシュはひしとマティアスを見つめた。
「……ええ。そうですね」
「でしょう? わたくしは加害者で、あなたは被害者。あなたは、わたくしを恨んでいる。そんな者たちが夫婦になっても、上手くいくはずがありません」
記憶を失う前のブランシュが自殺するまで追い込まれたのは、ある意味当然の流れであった。
「だから、もう、こんなことはやめようと、思うのです。もちろん、あなたに許されようなど……そんなことは微塵も思っていません……信じてもらえないかもしれませんが、どの口が言うのだと、言われそうですが、本当に申し訳なかったと、そう思っております」
二人の間に沈黙が落ちた。
永遠にも思える、永い無言の時間が続く。
「そんなこと、許すものか」
応援ありがとうございます!
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