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6、離縁の申し出
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「あの、ロワール。質問してもよろしいかしら」
いつもの診察が終わり、退出しようとしたロワールをブランシュは呼び止めた。彼はちょっと驚いた様子であったが、微笑んで椅子に座り直す。
「はい、私で答えられることならば」
「ありがとう。……公爵の婚約者であった女性のことなのだけれど」
一瞬でロワールの顔が硬く強張った。彼だけではない。一緒の部屋にいた侍女も、動揺を露わにしていた。禁句を口にしてしまったのがありありと伝わってくる。
「……申し訳ございません、殿下。彼女のことについては、私の口からお伝えすることはできません」
「どうして?」
「……殿下はまだ病み上がりでございます。刺激の強い内容は、控えるべきだと判断しました」
ロワールの返答はいかにもな感じであったが、ブランシュは嘘だなと思った。
(あのジョシュアって人に口止めされているのね……)
あるいは、マティアスかもしれない。いいや、ロワール自身も、ブランシュが夫の想い人に危害を与えるのではないかと考えているかもしれない。
そう思われても仕方がなかったが、今のブランシュには自分が信用されていないことがどうしようもなく辛かった。
「わかったわ。じゃあ、これだけは教えて。彼女は今……穏やかに、暮らせているのかしら」
今度は答えられると、ロワールは幾分和らいだ表情で頷き返した。
「はい。彼女は辺境伯のもとへ嫁がれ、幸せに暮らしているそうです」
「そう。なら……よかった」
呟き、本当に? と問いかける自分がいた。
だって彼女はマティアスを愛しており、彼も同じ気持ちであった。それなのにブランシュの暴挙のせいで二人は引き裂かれ、マティアスの婚約者は自分ではない別の男性と結婚してしまった。しかもロワールの言葉が本当ならば、彼女はマティアスとのことを過去のものとして、今の生活を謳歌している。むろん、彼女本人にとってはいいことだろう。
(でも、公爵は?)
マティアスは一人、苦しみの中にいる。
ブランシュのせいで。
「王女殿下?」
ブランシュは一つ、決めた。
「――ジョシュア殿下とお話したいのだけれど」
「殿下はお忙しく、なかなかこちらへ顔を見せるのが難しいかと思われます」
侍女頭が遠回しにやめろと言っているのがわかったが、ブランシュはそれでもと食い下がった。
「どうしてもお伝えしたいことがあるの」
「……かしこまりました」
彼女の目には不信感が隠しきれないでいた。――また王女の癇癪に振り回されるのではないか。
ジョシュアは今や国王に代わって執務を請け負っている。侍女頭が指摘した通り、ブランシュとは違って彼は忙しく、余計な手間をかけさせるべきではない。それでも彼女が王子を呼び出すのは、やはりこちらも早急にどうにかすべき問題であったからだ。
「――記憶が戻ったのか」
呼び出されたジョシュアはまずそう言って、会話を始めた。
「いいえ、まだ」
「そうか。以前のように、おまえにいきなり呼び出されたから、てっきり戻ったのかと思った」
言葉の端々に棘を感じる。
(ずいぶん、苦労させられたんだろうな……)
他人事のようにしか、思えないのが申し訳なかった。
今、ブランシュは十八歳である。ジョシュアは六つ上の二十四歳。青みがかった黒髪に、少し暗い金色の目をしている容貌は国王の若い頃を彷彿とさせた。
(この人が、わたくしのお兄様……)
ブランシュは母親似らしいので似ていないのは納得できたが、それを抜きにしても、兄妹という気がしなかった。
「それで、用件というのは何だ。手短に話しなさい」
「マティアスとの結婚をなかったことにして下さい」
一瞬呆けた顔を晒した後、王子は信じられぬ様子で妹の顔を凝視した。
「何だと?」
冗談を言っているのかと問われ、そんなわけないと首を振る。
「しかし、おまえがマティアスと別れるなど……私たちがどれだけ説得しても、聞かなかったおまえが……何を考えている」
「何も。ただ、記憶を失った今、わたくしは公爵のことを何とも思っておりません……過去のことを聞き、自分自身に恐れを抱いたくらいです。だから、」
「解放してあげたいと?」
はい、とブランシュは肯定した。
「今のままで、結婚生活を続けるのは、公爵にとって辛いはずです。わたくしではなく、もっと別の女性と新しい生活を築いていくべきです」
「あれだけのことをしておきながら離婚するなど……」
「勝手だと思われるのは当然です。けれど……もともと、一緒になった経緯に無理がありました。いずれは破綻する運命ではなかったかと、わたくしは思います……」
どうせ破綻する関係ならば、早めに別れを切り出した方が傷はまだ浅い。
「おまえと話しているとは、とても思えない内容だ」
「記憶を失い、それゆえできている会話でしょう」
ジョシュアは小さくため息をついた。
「もう少し早く、そのことに気づいて欲しかったがな」
本当に。もはや取り返しのつかないことばかりだ。
「しかし、もし記憶が戻ったらどうする。おまえはまたマティアスに執着し、再婚を望むかもしれぬぞ」
「そうならないよう、わたくしを修道院か塔に閉じ込めてください」
ブランシュの提案に、またもや彼は息を呑んだ。
「……言っておくが、修道院も、塔へ入ることも、世俗との縁を断ち切ることになるんだぞ」
「はい」
「一度入ってしまえば、もう二度と出ることは許されない。それくらいの覚悟を必要とするんだぞ」
「はい。わかっております」
構わない。それが目的だからだ。
ブランシュの揺るぎない表情にジョシュアはしばし絶句し、やがて苦々しい顔をした。
「……結婚が容易ではないように、離婚することもそれなりに手続きが必要だ。それにこれはおまえとマティアスの問題でもある。私一人の一存で決めることはできない」
「では、殿下から彼に意向を尋ねて下さい。わたくしはそれに従います」
「おまえ自身の口から伝えなさい」
そこでブランシュはちょっと困った顔をする。
「公爵は滅多にこの部屋へは訪れないのです」
「それは……」
「おそらく、わたくしの顔を見るのがお嫌なのでしょう。ですから代わりに殿下に頼みたいのです」
「なぜ私に頼む。父上に頼めばよかろう」
たしかにその方が確実とも言える。けれどブランシュはあくまでも対等な立場で話をつけたかった。
(それに国王は、わたくしがマティアスと離婚することを望んでいるようにはあまり見えない……)
娘が遠慮していると考えているのか、真意はまだわからないが、マティアスに圧力がかかるのは嫌だった。
「彼がどう思っているのか、知りたいのです」
「……彼が離婚を望むならば、その通りにするということか」
「はい」
「本当にいいんだな?」
「はい。構いません」
ジョシュアは何とも言えない顔つきでブランシュを見つめ、長い沈黙の後、「わかった」と了承してくれた。彼女はほっと胸をなで下ろす。
「ありがとうございます。お忙しい中、わたくしのために手間暇をかけさせてしまって申し訳ありません」
「……本当に、もっと早く気づいてくれればよかったのにな」
失望と後悔が渦巻く目に、ブランシュは心の中で自分もそう思うと返した。
いつもの診察が終わり、退出しようとしたロワールをブランシュは呼び止めた。彼はちょっと驚いた様子であったが、微笑んで椅子に座り直す。
「はい、私で答えられることならば」
「ありがとう。……公爵の婚約者であった女性のことなのだけれど」
一瞬でロワールの顔が硬く強張った。彼だけではない。一緒の部屋にいた侍女も、動揺を露わにしていた。禁句を口にしてしまったのがありありと伝わってくる。
「……申し訳ございません、殿下。彼女のことについては、私の口からお伝えすることはできません」
「どうして?」
「……殿下はまだ病み上がりでございます。刺激の強い内容は、控えるべきだと判断しました」
ロワールの返答はいかにもな感じであったが、ブランシュは嘘だなと思った。
(あのジョシュアって人に口止めされているのね……)
あるいは、マティアスかもしれない。いいや、ロワール自身も、ブランシュが夫の想い人に危害を与えるのではないかと考えているかもしれない。
そう思われても仕方がなかったが、今のブランシュには自分が信用されていないことがどうしようもなく辛かった。
「わかったわ。じゃあ、これだけは教えて。彼女は今……穏やかに、暮らせているのかしら」
今度は答えられると、ロワールは幾分和らいだ表情で頷き返した。
「はい。彼女は辺境伯のもとへ嫁がれ、幸せに暮らしているそうです」
「そう。なら……よかった」
呟き、本当に? と問いかける自分がいた。
だって彼女はマティアスを愛しており、彼も同じ気持ちであった。それなのにブランシュの暴挙のせいで二人は引き裂かれ、マティアスの婚約者は自分ではない別の男性と結婚してしまった。しかもロワールの言葉が本当ならば、彼女はマティアスとのことを過去のものとして、今の生活を謳歌している。むろん、彼女本人にとってはいいことだろう。
(でも、公爵は?)
マティアスは一人、苦しみの中にいる。
ブランシュのせいで。
「王女殿下?」
ブランシュは一つ、決めた。
「――ジョシュア殿下とお話したいのだけれど」
「殿下はお忙しく、なかなかこちらへ顔を見せるのが難しいかと思われます」
侍女頭が遠回しにやめろと言っているのがわかったが、ブランシュはそれでもと食い下がった。
「どうしてもお伝えしたいことがあるの」
「……かしこまりました」
彼女の目には不信感が隠しきれないでいた。――また王女の癇癪に振り回されるのではないか。
ジョシュアは今や国王に代わって執務を請け負っている。侍女頭が指摘した通り、ブランシュとは違って彼は忙しく、余計な手間をかけさせるべきではない。それでも彼女が王子を呼び出すのは、やはりこちらも早急にどうにかすべき問題であったからだ。
「――記憶が戻ったのか」
呼び出されたジョシュアはまずそう言って、会話を始めた。
「いいえ、まだ」
「そうか。以前のように、おまえにいきなり呼び出されたから、てっきり戻ったのかと思った」
言葉の端々に棘を感じる。
(ずいぶん、苦労させられたんだろうな……)
他人事のようにしか、思えないのが申し訳なかった。
今、ブランシュは十八歳である。ジョシュアは六つ上の二十四歳。青みがかった黒髪に、少し暗い金色の目をしている容貌は国王の若い頃を彷彿とさせた。
(この人が、わたくしのお兄様……)
ブランシュは母親似らしいので似ていないのは納得できたが、それを抜きにしても、兄妹という気がしなかった。
「それで、用件というのは何だ。手短に話しなさい」
「マティアスとの結婚をなかったことにして下さい」
一瞬呆けた顔を晒した後、王子は信じられぬ様子で妹の顔を凝視した。
「何だと?」
冗談を言っているのかと問われ、そんなわけないと首を振る。
「しかし、おまえがマティアスと別れるなど……私たちがどれだけ説得しても、聞かなかったおまえが……何を考えている」
「何も。ただ、記憶を失った今、わたくしは公爵のことを何とも思っておりません……過去のことを聞き、自分自身に恐れを抱いたくらいです。だから、」
「解放してあげたいと?」
はい、とブランシュは肯定した。
「今のままで、結婚生活を続けるのは、公爵にとって辛いはずです。わたくしではなく、もっと別の女性と新しい生活を築いていくべきです」
「あれだけのことをしておきながら離婚するなど……」
「勝手だと思われるのは当然です。けれど……もともと、一緒になった経緯に無理がありました。いずれは破綻する運命ではなかったかと、わたくしは思います……」
どうせ破綻する関係ならば、早めに別れを切り出した方が傷はまだ浅い。
「おまえと話しているとは、とても思えない内容だ」
「記憶を失い、それゆえできている会話でしょう」
ジョシュアは小さくため息をついた。
「もう少し早く、そのことに気づいて欲しかったがな」
本当に。もはや取り返しのつかないことばかりだ。
「しかし、もし記憶が戻ったらどうする。おまえはまたマティアスに執着し、再婚を望むかもしれぬぞ」
「そうならないよう、わたくしを修道院か塔に閉じ込めてください」
ブランシュの提案に、またもや彼は息を呑んだ。
「……言っておくが、修道院も、塔へ入ることも、世俗との縁を断ち切ることになるんだぞ」
「はい」
「一度入ってしまえば、もう二度と出ることは許されない。それくらいの覚悟を必要とするんだぞ」
「はい。わかっております」
構わない。それが目的だからだ。
ブランシュの揺るぎない表情にジョシュアはしばし絶句し、やがて苦々しい顔をした。
「……結婚が容易ではないように、離婚することもそれなりに手続きが必要だ。それにこれはおまえとマティアスの問題でもある。私一人の一存で決めることはできない」
「では、殿下から彼に意向を尋ねて下さい。わたくしはそれに従います」
「おまえ自身の口から伝えなさい」
そこでブランシュはちょっと困った顔をする。
「公爵は滅多にこの部屋へは訪れないのです」
「それは……」
「おそらく、わたくしの顔を見るのがお嫌なのでしょう。ですから代わりに殿下に頼みたいのです」
「なぜ私に頼む。父上に頼めばよかろう」
たしかにその方が確実とも言える。けれどブランシュはあくまでも対等な立場で話をつけたかった。
(それに国王は、わたくしがマティアスと離婚することを望んでいるようにはあまり見えない……)
娘が遠慮していると考えているのか、真意はまだわからないが、マティアスに圧力がかかるのは嫌だった。
「彼がどう思っているのか、知りたいのです」
「……彼が離婚を望むならば、その通りにするということか」
「はい」
「本当にいいんだな?」
「はい。構いません」
ジョシュアは何とも言えない顔つきでブランシュを見つめ、長い沈黙の後、「わかった」と了承してくれた。彼女はほっと胸をなで下ろす。
「ありがとうございます。お忙しい中、わたくしのために手間暇をかけさせてしまって申し訳ありません」
「……本当に、もっと早く気づいてくれればよかったのにな」
失望と後悔が渦巻く目に、ブランシュは心の中で自分もそう思うと返した。
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