だから僕は音楽をやめた

那須与二

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2019 6/9 「心に穴が空いた」

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雨が降った。
町は静かだ。

昨夜の雨ですでにびちゃびちゃになった靴からは雨の匂いがした。
部屋は雨の匂いでいっぱいだった。
ベッドから出たくないな。

枕元の机上には彼の手紙が丁寧に並べられて置いてある。
対照的に無造作に散らばったスウェーデンの風景たち。
そのどれもが、ただ、彼の過去の記憶の形に過ぎない。


朝日に照らされる湖の街、リンショーピン。


この湖のほとりの宿を彼も利用していたに違いない。
この広い地球上から奇跡的に見つけだしたこの地。
あの送られてきた写真と同じ風景、窓枠。
椅子からは夏の匂いがした。

だが、彼は既にここからも去っていた。
どれだけ追いかけても追いつかない。
私の詩と彼の詩のように、その間にはどうしても埋めることの出来ない圧倒的な長い時間があった。


惰性で日記を綴りながら外を眺める。


「6/9、リンショーピン
ここは湖のほとりの街。時間がゆっくりと流れていく感覚がする。彼から送られてきたあの写真と同じ景色があった。
私に道を指し示しているのか。
私はまだあなたの真似事しか出来ない。
ねえ早く姿が見たいよ。
私の真ん中に大きな穴を空けていなくなるなんて許せないよ。」


昨夜、雨に打たれたせいでどうやら風邪をひいているようだった。
北欧に降り注ぐ雨すら温いと感じた気がした。
が、まあ何にしろ風邪はひくもんだ。

喉の痛みを取り繕い、濡れたままの靴に無理やり足をねじ込んで、部屋に充満した雨の匂いとはまた違った、新鮮な雨上がりの匂いを感じるために外に出た。

湖は午前の太陽に照らされながらもその底は遥かに暗く、月夜の空のようだった。


どのくらい深いのかな。
2万マイルとか、まさかね。


万年筆を取り出し、詩を描く。


「湖の底にいるみたいだ。
 呼吸すら喉を絡め取ろうとする。
 蜃気楼より確かなだけでいいから。
 君を追っている。」


湖岸沿いにずっと、ずっと歩いていると教会と出会った。
森の中に佇む静かな教会だった。
中に入ると夏草のように青々としたステンドグラスが空間を染めていた。


ここもエイミーの写真にあったところだ。


天井が一番高い地点まで進む。
宗教のことはよく分からないけどここから見える光景が一番きれいだと感じた。

長椅子の端っこに座って彼がここで描いたであろう詩を読む。
ふと長椅子に寝転がり、木漏れ日から溢れる朝日に目を眩ませる。
そのまま首を反らせるとちょうど何かがつむじあたりにこつんとあたった。

長椅子の下、少しはみ出すところ、
彼のカメラがあった。
フィルムは切れていない。


───ずっとなにかに気付きかけていたんだ。でも、まだ気付かないふりをしていた。


宝箱を見つけたかのように慌ててそれを拾い上げて構えてみる。カメラの窓からステンドグラスを見る。


ああ、すごく綺麗だ。


教会を出てふらふらとまた歩き出す。
振り返って森の教会を撮ろうとカメラを構える。
そこに彼はいた。

カメラの窓越しに彼が教会の壁にもたれかかって、立ったまま万年筆を走らせていた。

息を呑み、カメラを下げて肉眼で確認しようとする。が、彼はいなかった。

もう一度カメラを構えると湖岸の方へ歩いていく彼の姿が見えた。


「待って。」


痛々しく、喉が叫んだ。
カメラも他の荷物も放り出して湖岸へ走っていく。

彼の姿はもう無かったがそこには夏の匂いが漂っていた。

たった今、真上に昇ろうとしている朝日。それと対象的なまでに月夜のように深く、暗い湖底を桟橋の先端から見つめる。
呼吸は既にしていなかった。

そして一歩、踏み出した。
潜水とも言い難いほど急激に、月夜に呑まれていく。







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