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本編・月の綺麗な夜でした

そのろく 月の光

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 フラフラになりながら帰宅して、粉々になった自分の理性と平常心に埋もれるように、ミントはベッドの中で丸くなる。
 布団をかぶり羞恥に震えながら、どうしてこんなことになったのだろう? と考えた。
 何らかの理由があってのことだろうが、当事者であるミントだけが取り残され、何も知らなかった。
 
 嘘ではないけれど、真実でもない事を言い広められしまうと、どうしていいかわからなくなる。
 これはいくらなんでもひどすぎる、と思っているうちに、スイッと風のように近づいてくるローの気配を感じた。
 家の外。もう50メートルも歩けば、玄関を開けて入ってくるだろう。

 本来ミントは医師であり治癒師であるから、戦闘員のように家の外の気配など感じない。
 けれど肌をあわせる回数が増えるごとに、不思議とローだけは気配でわかるようになったのだ。
 離れていてもわかるのだから、側にいれば次にどう動くかまで感じた。
 眼差しひとつ。身じろぎひとつで、彼の身体の使い方がなんとなくわかってしまう。

 それは理屈ではなく、動物的な直観に似ていた。
 そんな不思議をふとこぼせば、ローは当然の顔をしていた。

「互いの魔力が混じってるからな。ここまで綺麗に交じり合えば、離れても一生繋がってるようなもんだろうよ」

 そんなやり取りを思い出していたら、さほど時を開けずローは帰宅した。
 ベッドの中で丸くなって打ちひしがれているミントの所に迷いなくやってくると、予想していた通り「なに拗ねてんだ?」と布団をはいできた。

「ローさん、街の人たちに嘘ばかり言わないで」
「嘘じゃねぇよ。新婚だからな」

「違う」と言いかけた唇は、噛みつくように落ちてきた唇にあっさり捕らえられ、文句ごといいようにむさぼられてしまう。
 頭の芯が溶けてぼんやりしたところでようやく解放され、胸に手のひらサイズのなにかを押し付けられた。

「ロー・ウェンとミンティア・ウェンの婚姻証明書だ。持ってろ。これでしばらくミント・グリーンは行方不明だ。ま、王都の監察官クラスになると、偽造だって見抜くだろうな」

 それから当たり前のように、ミントの家や荷物を片付ける手配もしてきたことを告げる。
 理由もなく私財を片付けると怪しまれるだろうが、婚姻で遠くない未来に街を離れるならば、荷物の選別をしてもおかしくない。
 とはいえ、召集予定日が近すぎて家を売るほどの時間はないので、実際の売買は委託し、売れた後の金銭等のやり取りのルートも定めてきたと話す。
 戦への招集に乗るにしても家の片づけは必須だったので、誰もが納得する理由を用意して手続きまで終わらせる、その手際の良さに驚いた。

「二度とここには帰らないつもりで、小さく荷造りしとけよ」
「ありがとう。ちゃんとした理由があったのに、尋ねることもしなくてごめんなさい」

 ほっとして甘えるように身を寄せれば、コロンと寝台に転がされる。
 あれ? と思った時には、首筋に熱い息がかかり、カリリと軽くかじられた。

「ご褒美くれよ、奥さん」
「それはちょっと……待ってぇぇ?!」
「おう。待たねぇ」

 結局のところ、いつものように、いつものごとくである。
 腰が砕けそうなそんなやり取りを繰り返しているうちに数日過ぎて、あっさりと別れの時は訪れた。

 予告されたその日が来てもローはいつもの調子だったし、ちょっとでも気を抜けば蜜月タイムに引きずり込まれるので、実は召集がかかるその日まで側にいてくれるのではないか。
 そんな風に油断していたから、夕食後に肌をあわせた疲れでまどろんでいる時に、揺り起こされて目を見開いた。

 ローは初めて会った時と同じように、使い込まれた旅装を身に着け、長いローブをまとっていた。
 硬くて骨ばった指先が、ミントの唇を玩ぶようになぞる。

「いいか、最後までしぶとく生き残ることを考えろ」

 わかったな、と念を押されて、ミントは瞳を揺らす。
 自分の命と他人の命を天秤にかけられたときに、自分の矜持を優先してローを裏切ってしまいそうだから、一緒にいて欲しいとも思う。
 けれど、行かないで、とは言わなかった。
 そんな約束は出来ないとも言いたかったけれど、それでもローの望みは叶えたかった。

「私はバカだけど、あなたが望むバカでありたい」

 自分自身の在り方は変えられなくとも、かたくなにそれを貫かなくても良いと思うようになった。
 切羽詰まった状態に陥り、両極端な選択を迫られた時に思い出すのは、神の手の教えではなくローの言葉だろう。
 たとえ二度と会えないとしても、ローの言葉は心を深くえぐり、爪痕をミントの中に残していた。

 それが合わせた視線でわかったのか、ニッと笑ってローは立ち上がった。
「またな」と凄んで笑う獰猛な獣に戻り、唇に触れていた指先が遠ざかっていく。
 ほんの少し前まで体温を分けあった事すら過去の残滓に変えて、従順な番犬の顔を捨て去っていた。

 音もなく身をひるがえし風のように去っていく背中を、ミントは扉の外に立ち見送った。
 振り返りもしない薄情さで、男の背中はあっという間に闇に溶けて消える。
 それでも遠ざかる気配は、しんしんと降り注ぐ月光の中でも鮮やかだった。

 去っていく。
 風のように、街の外まで。
 心を研ぎ澄まし、追えるところまでその気配を追っていたけれど、とうとう何も感じなくなる。

 もう会えないかもしれない。
 その現実が恐ろしいほどの空白となり、襲いかかってくるからブルリと身を震わせたけれど、ふと気が付いた。
 心の穴を満たすように、空から清らかな光が降り注いでくるのだ。
 数多の星を陰らすくせに、月光はとても優しい。

 獰猛な獣も、同じ月を見ているだろうか。
 たまには月に踊った兎を、思い出してくれるだろうか。

 初めて出会った時と同じく、とても月の綺麗な夜だった。

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