君が奏でる部屋

槇 慎一

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12 デートの練習

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 かおりと海に行くことになった。

 海に行きたいなんてかわいいな。僕も「彼女」と海に行ってみたい。もう「婚約者」だけど。

 かおりとは「先生と生徒」の関係からいきなり「婚約者」になったから、結婚する前に「つきあう」とか「デート」とか今のうちにたくさんしておきたい。やっぱり、良いデートにするなら練習しなきゃね。

 夕方、かおりに電話をした。
「かおり、今から行っていい?」
「はい」

 昨日も一昨日もかおりの部屋に行った。
 昨日は日付が変わる頃で、自分が止められなくなりそうだった。今日はまだ夕方だし、リビングにした。かおりは帰宅したばかりで制服のままだった。

「こんばんは、かおり」
「こんばんは」

 かおりはにこっとした。

「デートの練習に来た」
「デートの練習?」

「デートでしたいことをより良くするために、何回かやってみたいなって」
「練習ですね」
「そう、練習。かおりは海で何をしたい? 砂浜を歩きたいって言ってたね。他には?」

 僕たちはリビングのソファに並んで座った。

「他には考えていませんでした。先生はデートで何をしたいんですか?」
「かおり、名前。先生じゃなくて、僕の名前は?」

「……あ。しん、いち、さん」
「よろしい」

「しん、いち、さんは、デートで何をしたいんですか?」

 かわいい。言い慣れない感じがかわいい。

「僕は、海じゃなくてもいいから」
「海じゃなくてもいいならここでもいいんですね?」

「そうだね。確かにここでもいい」
「ここでもいいなら練習しましょうか。あ、これはもう本番になってしまいますか? 海じゃなくてもよくて、ここでもいいなら、練習ができませんね? きちんと練習しないと、いきなり本番なんて、だめですよね」

 かおりがこんなに長い話ができることに驚いた。

「かおり、僕がかおりとデートでしたいのは、こんな風に話したり」
「お話?」

「そう。かおりと話をしたり、かおりを見つめたりしたい。……いつもみたいに、ピアノの話だけじゃなく、ピアノのために手を見たり姿勢を見るんじゃなくて」
「私と話、私を見る……」 

「それから、ケンカしたりしてみたいかも」
「私とケンカ?」

「ちがった。わざわざケンカしたいわけじゃない。泣かせたりしたくないから、仲直りの練習をしたい、仲直りの方法を決めたい、と言えばいいかな」
「ケンカの練習と仲直りの練習……その方法……」

 かおりはつぶやきながら復唱した。

「それから、もっと僕に甘えてほしいんだけどな」
「……それは……どうすればいいんでしょうか。練習させてもらってもいいですか?」

「うん。……どういう練習をしたらいいかな」

 僕は少し考えた。僕がお願いすることではなくて、かおりから自発的に甘えてほしいんだが、そういう感情はないのだろうか。

「ピアノのことなら、いろいろ案は出てくるんだけどな」
「……先生でも、わからないことがあるんですね?」

 言い直させる気持ちにはならなかった。



 どうしたら、かおりは僕に甘えてくれるようになるのだろうか。今まで僕や教授がピアノのことで厳しかったからだろうか。それに耐えられる精神力があるから、この若さで一位にまでなれたのだろうし。しかし、昨日は僕が他の人とキスしたことがあるかどうかを気にして泣いたし、脆い面もある。

 だいたい、これだけかおりと長い時間一緒にいて、他にいつ誰とそんな仲になってキスまでいくと思うのか。かおりにはわかるわけもないか。

「その通り、僕も何でもわかるわけじゃない。だけど、困ったことや心配なことは、お友達じゃなくて僕に聞いて。僕がわからなくても一緒に考えるから。あ、パパも許す。教授にはピアノのこととロシア語のことなら聞いてもいい」
「そんなに、一度にたくさん……ノートに書くから、待ってください」

 ノートを取りに行こうとするかおりの腕をつかんで引き留めた。思わず強くつかんでしまった。怯えさせたか。

「ごめん、行かないで。ここにいて」

 かおりをソファに座り直させる。

「大切なことだから。ノートじゃなくて、頭で覚えて」

 僕はできるだけ優しい表情で、ゆっくり真剣に話した。

「僕とパパには何でも聞いて。教授には勉強のことだけ聞いて」
「……何でも聞いていいのは先生とパパ。教授にはお勉強のことだけ」

「そう。わかった?」
「……はい、先生」

「僕の名前は?」

 かおりの表情が固まった。頭がパンクしそうなんだな。これでも学校の勉強はできるみたいだから、ちゃんと予習復習をする真面目な子なんだろう。

「よし、テストしよう」

 ソファで横に並んで、二人で斜めに向かい合うように座り直した。僕の両手でかおりの両手を優しく握り、かおりの目を見て質問した。

「確認するよ。お友達には何でも聞いていい?」
「だめ、先生かパパに聞く」

「はい。教授には何でも聞いていい?」 
「だめ、お勉強のことだけ聞く」 

「はい。僕には勉強のことだけ聞く?」
「いいえ、何でも聞いていい」

「はい。では、教授に僕のことを相談する?」
「先生の、何を?」

「……例えば……僕の機嫌が悪い時に、何故なのか、どうしたらいいか教授に聞いてみる?」
「聞いてみる」

「聞かないで!」

 思わず、きつい口調になってしまった。表情も険しかっただろう。かおりの目に、みるみる涙が溢れてきた。何をやってるんだ、僕は……自己嫌悪に陥る。

 僕はかおりを抱き寄せて、両手できつく抱き締めた。

「ごめん、僕が悪かった」

 かおりは泣いてしまった。


 そこへ、かおりのお父さんが帰ってきた。かおりの泣き顔を見せたくなくて、抱き締めたままお父さんに謝った。

「ごめんなさい。泣かせていました」
「聞こえた。かおりに大切なことを教えてくれていたね。ありがとう。かおりはがまんしちゃうから、慎一くんの前で泣けるようにしてあげてほしい。じゃ、ゆっくりしていって」

 お父さんは奥に行った。

 そのままかおりをソファできつく抱き締め続けた。

 そろそろ腕の力を抜いても大丈夫かな……というくらい長い時間が過ぎた。



 僕の腕の中にいたかおりの右手が、僕の背中にゆっくりと動いた。そして、もう一方の手も。

 これが、かおりが初めて僕に対して自然に甘えてくれた瞬間だった。

 男冥利に尽きるというのだろうか。

 ただただ、嬉しかった。
















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