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conductor
18 眠り姫と喫茶店デート
しおりを挟む仁の出発は、年明けの、仁の誕生日の少し前に決まった。
「必ず見送りに行かせてくれ。かおりが悲しむから、黙って行ってしまわないでくれ」と伝えておいた。
あれからというもの、妻は手袋を編んでいた。仁のためだろう。伴奏の仕事とその練習時間以外の全てを使っていた。僕と一緒の時間に眠らないこともあった。やらないと気がすまないだろう。間に合わなければ悲しむだろう。僕は食事を作って、いつものようにハグとキスをして、それ以外は放っておいた。
仁が日本からいなくなったら、精神的にどうなってしまうか不安だった。
出発の日。
空港で会った仁は、ヴァイオリンケースの他はリュック一つだった。ステイ先は教授の家で、他の荷物は随分前に送り、既に届いているらしい。
妻は、綺麗に包んだ手袋を仁に渡した。
「開けていい?」
妻は頷いた。
「もしかして編んだの?」
妻は頷いた。
「こんなの作れるんだ……。黒……僕が一番好きな色だ。ありがとう。これだけじゃ薄いから、重ねて使うね」
仁は包み紙を妻に返して、自分で持っていた厚手の手袋を重ねてはめてから、二枚一緒に外した。
妻は、コートを着た仁に抱きついた。
仁は、静かに抱きしめ返した。
妻も背が高いが、もう既に仁の方が高かった。時間いっぱいそうしていた。
アナウンスが流れ、僕は二人まとめて抱きしめた。
「Спасибо Я пойду」
仁は「ありがとう、行ってくるね」と言って、ゲートの向こうに歩いて行った。
子供時代は赤ちゃんのようだった息子は、いつの間にか年相応より大人びて見えた。
それからの妻は、予想通りというか……元気をなくしていた。
伴奏の仕事と、そのための練習時間だけは自分でアラームを使って起きていたが、他はずっと眠っていた。横になって体を休めているのではなく、本当に眠っていた。起きていられないし、夜は夜で眠れるのだという。手袋を作っていた時は寝ていなかったから、その反動だろうか。それにしても、よくそんなに眠れるなと、こちらが不思議になるくらいだった。
僕は予め友人に教えてもらった、評判の良い心療内科を尋ねた。音楽家がよく利用しているらしい。最初は僕が一人で行き、妻の相談をした。薬が必要とまでは思わないから、何かのきっかけになるよう、プラシーボ効果的な物を処方してほしいと相談した。医師は了解してくれた。
妻は基本的に身体は健康なので、子供の頃から病院に世話になるようなことはなかった。結婚する前に、発達の検査に連れて行ったことがある。病院はとても怖いところのように感じるらしい。出産は大変だったが、世間的にはあれでも安産だというらしいし……。
とにかく、今の状態を僕が心配していること、痛いことはされないこと、僕が一緒にいることを伝えると、ついて行くと言ってくれた。いや、ついて行くのは僕なのだが……。
病院に行くと、案の定医師から質問をされても話をすることはできず、緊張して固くなり、答えに困っていた。
医師は、僕が予め伝えてあったからか、
「薬をあげるから飲んでみてね」
と優しく言ってくれた。
『薬』の入った袋には妻の名前が書かれていた。
「ほら、僕も飲むから」
と言って、妻の目の前で飲んでみせた。
本当の薬ではなく、薬の形にした物で、飲むことで精神的に安定するきっかけになればという目論見だった。成分表示を見ると、ほとんど糖分だった。
「甘いよ。お菓子みたいだ」
妻は、自分でそれを飲んだ。なんだ、飲めるじゃないか。よかった。僕が笑ってみせると、妻もにこっとした。僕は嬉しくなって、妻を優しく抱きしめて眠った。久しぶりに、二人でぐっすり眠った。
翌日、妻は合唱の仕事だった。今までも仕事には行っていたから『薬』の効果かどうかはわからないが、睡眠の感じは良かったような気がした。
僕が夕方帰宅したら、いつもなら寝ていた妻がいなかった。メールをしたら、「近くの喫茶店にいる」と返信が来た。
「僕も行くよ」
普段はこの大学の学生がいるからほとんど行かないが、結婚してから妻を連れて行ったことのある喫茶店だった。
到着すると、妻は奥の席に座っていた。僕が来たのがわかると、妻が嬉しそうに手を振ってにこっとした。かわいいな。僕はコーヒーを注文した。
「ずっとここにいたの?」
「うん」
「伴奏が終わってからずっと?」
「ううん、一回おうちでお昼ごはんを食べたの。寝なくてもいいかなって思えたから、外に出て……ここを覗いたら、あまり人がいなかったから」
「そうか。デートみたいで、たまにはいいな」
僕達は笑った。『薬』の効果があったかもしれない。普段だったらどちらかがピアノの練習をしている。会話がなくても、僕達は二人でいるだけで幸せだ。ずっとそうだった。少なくとも僕はそう思っている。妻がにこっとしてくれた。
「だいすき」
いきなり言う。外でもか。
「僕も大好きだよ。一緒にいてくれて嬉しいよ」
テーブルの上で、両手を握った。
妻は、久しぶりに夜まで起きていた。僕が練習するのを聴いていたし、妻が練習している曲を僕がレッスンしたりした。
いつもの時間に僕がシャワーを浴び、その後に妻……そんな生活は久しぶりだった。
バスルームから出てきた妻は、少し眠そうだった。
「かおり、眠ってもいい。でも……もう少し起きていられる?」
潤んだ目で頷いた。
僕は静かにキスをした。
挨拶代わりのキスじゃない、これから始まることを期待させるキスをした。
「かおり、愛してる」
妻は僕をあたたかく包んでくれた。
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