結婚記念日と喧嘩

槇 慎一

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2 先生がおこってる?

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 私は、先生と入籍して一緒に暮らし始めたばかり。

 ずっと先生と生徒の関係だったのが、高校卒業と同時に結婚することになったから、「つきあう」とか「彼と彼女」という関係ではなかった。

 初めてのデートで海に行った時、私が先生を泣かせてしまった。どうして先生が泣いてしまったのかはわからなかったけれど、先生の頬にキスをして謝った。

「仲直りの方法は、これでいいですか?」
と聞いたら、先生は、
「そうだね、喧嘩していないけどね」 
と笑って許してくれた。

 彼と喧嘩したらどうやって仲直りするのか、お友達に聞いてみたかった。でも、喧嘩じゃなかったのか……。その前に、どういう状況になったら喧嘩なのかも聞かなくちゃ。


 入籍して、一緒に暮らし始めてから、先生は毎晩のように私を抱きしめる。キスしかされたことがなかったから最初はドキドキした。先生はいつも優しかった。ただ、いろいろされて恥ずかしい。なのに私がそう言うと、先生はちょっと嬉しそうにする。

「かおり、恥ずかしい?」
って言ってすごく優しい顔をしてくれる。それなのに、その恥ずかしいことはやめてくれない。




 先生が私にピアノのレッスンをしてくれるのは、曜日と時間が決まっているわけではなく、質問したりお願いすれば見てくれる。

 ある時、私が思ったように捗っていない曲があって、先生に指摘されてしまった。

「かおり、ドビュッシーの『花火』、まだ譜読みできていない?」
「はい」
「じゃあ……『花火』の譜読みが終わるまで、かおりを抱かないことにしようかな。ちょっと集中して頑張って」

 先生は私にキスをして、お仕事に行った。

 えっ?何?譜読みが遅いって注意された?譜読みが終わるまで抱かないって……。私はそれでもいいけど。でも、それは言わない方がいいような気がした。

 先生に言われても、私は譜読みを急ぐ気にならなかった。それまでのペースを崩さず、自分のペースでいつものようにゆっくり丁寧にさらった。難しいし、急いだら雑になる。それはいやだった。



 夜、私の譜読みの進捗を見た先生は、私のペースが変わらず、焦っても急いでもいないことに驚いたみたいだった。

 先生は何も言わなかったけれど、夜におやすみのキスをしてくれた。私はそれだけで充分幸せだった。


 それが何日か続いた。




 その週末、先生の提案で私達はそれぞれの実家に泊まることになった。何故かわからない。何か用があるのかな?実家といっても社宅で同じマンションの上下。先生は、私の実家の玄関まで送ってくれた。

「今夜は別々。おやすみ、かおり」

 先生は優しかったけれど、本当はキスしてほしかった……。でも、そんなことを上手くお願いできる自信もなくて、少しだけ先生を見つめた。先生は、そんな時にはいつも「なあに?かおり」とか「話して?」って聞いてくれるのに、その時は微笑んでくれただけで帰っていった。ちょっとさみしかった。


 奥からパパが出て来た。玄関で佇んでいる私に、
「おかえり。どうした?」
と言った。私は、パパに何か言いたいのか、言いたくないのか、言えないのか、自分でわからなくて、背の高いパパの腰にぎゅうっとくっついた。「ただいま」って、パパにぎゅうっとするのは小さい頃からの習慣だった。いつだったか、パパが「先生の前ではやめなさい」って言ってた。今は先生もいないし、いいよね。


 私はしばらく無言でいたけれど、そのままの姿勢で、パパに言った。
「先生が、もう私を抱かないって」

 背中をぽんぽんとしてくれていたパパの手が止まった。パパが、両手で私の背中を抱きしめてくれた。
「喧嘩したのか?」



 そこへ、
「かおり、ごめん。僕の携帯持っててもらったよね」
玄関のドアが開いて、先生が現れた。


 先生に見つかっちゃった。いけなかったかな?どうなっちゃうんだろう……。私は余計にパパにきつくしがみついた。


 一番最初にパパが口を開いた。
「かおり、先生と喧嘩したのか?」

 私は、
「え?喧嘩してるんですか?」
と二人に聞いてみた。

「え?」
「え?」
 先生もパパも、驚いている。

「あ……携帯……」
 私はパパから離れて、ポシェットから携帯を出して先生に渡そうとした。


 パパは、両手で私の肩を押して先生の方に向かせた。
「仲直りしなさい。じゃあね」 
 パパは奥へ戻っていった。


 私は、呆然としている先生の手に携帯を握らせて、背伸びして先生の頬にキスをした。

「……ありがとう。でも、喧嘩していないよ?」
 先生は、不思議そうに言った。

「私も、喧嘩していないと思いました」
 私も不思議だった。

「じゃあ、何故……かおり、パパに何か言った?」
「先生に、もう私を抱かないって言われたって」


 先生は額に手を当てて表情を隠した。先生が困っている。

「何か誤解されている。……かおりの部屋に入れて」
「はい、どうぞ」

 私の部屋に入った瞬間、先生に両腕を掴まれて強いキスをされた。ちょっと乱暴なくらいの力で抱きしめられた。まるで、身体中が私を求めているみたいなキスだった。キスしてほしかったから、嬉しかった。でも、こんなに激しくなくていいのに。それは贅沢かな、なんて考えていたら先生に注意された。

「かおり、何を考えている?他のこと考えられるなんて、余裕だね」
「え?キスしてほしかったから、嬉しいなって」

「『花火』はどこまでいった?」
「最後まで終わりました」

「なら、何故直ぐに報告しない?」
「えっ?……明日……報告しようかと」

「何故、そんなに余裕なんだ……」
「明日報告するつもりでした……」

「僕は、譜読みが終わるまで抱かないって言ったんだ。譜読みが遅かったし、かおりに僕を求めてほしくて……。ちょっとしたスパイスのつもりだったが、かおりには効かなかったか……」
 先生が、小さい声で言った。

「スパイス?『花火』は難しかったし、遅いのもわかっていなかった。抱かないって先生に言われたのも、よくわからなかった。でも……」
「でも?僕だけが我慢してたってわけ?」

 私は、少しだけ意味を理解した。さっき、キスしてほしかった気持ちと同じ……かな?

「あの……じゃあ……今日、抱いてくれる?」
 最後は小さい声になってしまったけど、先生には聞こえたみたいだった。

「ここで直球か……」

 先生は今日何度めか、また額に手を当てた。次の瞬間、私の頭の後ろから抱くようにして、もう一度深いキスをしてきた。息が吸えないくらい、激しいキスだった。先生は私の服をぬがそうと、もう片方の手を動かした。性急にっていう言葉は、こういう時に使うんだなってわかった。


「かおり、まだ余裕みたいだな。パパに仲直りの様子を聞かせるか?それとも、声を我慢できるか?」
「テスト?……わかりません。正解はどっちですか?」

「今度は天然か……。パパに喧嘩してると思われたくない。譜読みが終わってるなら抱かせてもらう。声をあげても我慢しても、どちらでも」
「えっ?」

 私は、返事をする暇もなくベッドに乗せられた。







 一晩中、確かに抱きしめられて眠っていたのに、目が覚めた時には先生はいなかった。私は先生の黒いシャツを着ていて、他に何もつけていなかった。この格好をパパに見られるのは恥ずかしいから、パジャマに着替えて、もう一度眠った。


 喧嘩は終わったのかな?

















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