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槇 慎一

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8 しんちゃん、ひいてひいて?

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 夏休みになった。
 嬉しいような、嬉しくないような夏休み。

 休みの時は、早朝から母親にピアノの基礎練習を見てもらい、午前中はかおちゃんのレッスンをして、午後は自分の練習をして、夕方から、またかおちゃんのレッスンをして、夜はまた母親のレッスン……朝の基礎練習以外の曲を見てもらうという生活をしていた。学校があった方が格段に楽だ。


 夜、電話がかかってきた。

「かおちゃん、弾かないで待ってて」
「はい」

 かおちゃんは、ピアノを弾いていた手を止め、膝の上に置いた。これは電話が来た時のお約束だった。


 僕は電話に出た。

「はい。槇です」
「慎一くん、こんばんは。高田です。るり子先生は今お話できますか?」

 お母さんの生徒の高田さんだった。

「はい。少々お待ちください」
 僕は電話の保留ボタンを押し、かおちゃんに「弾いていいよ」と言った。かおちゃんは小さく「はい」と言ってさっき練習していたところの続きを弾いた。尤も、かおちゃんが両手で力いっぱい弾いたとしても、通話の妨げになるようなことはないけれど。
 僕は保留のボタンを押したまま、レッスン室で勉強しているお母さんのところに、電話を持っていった。

 僕は、リビングに戻ってかおちゃんのレッスンの続きをした。かおちゃんと長い時間ピアノが弾けるのは、夏休みならでは。

 普通にピアノを習っていたら、週に一回レッスンのところ、僕達はそれぞれ一日二回レッスン、単純に計算しただけでも週に14回レッスンだ。一回あたりの時間も長い。当然一時間どころではない。僕の家は一回のレッスンが三時間で一コマと数える。多少の休憩も入れるし、まだ小さいかおちゃんのレッスンも同じだ。
 かおちゃんは、僕がお母さんのレッスンを受けている間に練習をしても、しないで遊んでいてもかまわない。
 また、僕がかおちゃんをレッスンしているために、僕の練習時間はあまりない。本当はもっと練習してほしいと思っているのかどうかわからないけれど、お母さんは出来ていない僕を怒るようなことはない。

 お母さんは、僕に対して飽きないようにと、いろいろなやり方を提案して基礎練習を見てくれる。すぐにできないこともあったけれど、ゲームみたいで、だんだんコツを覚えていくところも面白かったし、お母さんが次に何をしてくれるのか、楽しくてたまらなかった。
 初見で弾く訓練をし、そこから様々な練習のしかたを教えてくれる。僕にとっては遊びだった。レッスンの曲で、ソルフェージュや和声も教えてくれる。「ぎしゅうし」、「ぞくく」、「ドッペルドミナント」など言葉の意味はわからなくても、音や響きで判るし、使い方もわかる。そして、僕はそれをすぐにかおちゃんのレッスンに生かして復習していた。

 一人で練習するのは、出来ないところを出来るようにすることだから、ただ楽しいとは言い難い。
 お母さんが、僕にピアノのことを煩く言わないのは、僕がかおちゃんにピアノを教えるのを、とてもいいことだと思っているからだろう。かおちゃんにピアノを教えるのは楽しい。

 けれど、かおちゃんは僕が教えた以上に素敵にピアノを弾く。まるでピアノが歌っているようだ。かおちゃんが音を奏でているだけで、僕は幸せな気持ちになる。
 本当は、少し複雑な気持ちにもなる。悔しいとか憎いとかではないけれど。羨ましいとか、憧れに近い。
 それなのに、かおちゃんは無邪気に僕に言う。
「しんちゃん、ひいてひいて」
 かおちゃんはまだ年長さんで、あまりしゃべらない。こわがりで、周りのお友達よりもおとなしい。小さい声でゆっくり話す。僕ににこっとするのが、かわいくてかわいくてたまらない。

 僕はかおちゃんにせがまれて、ギロックのソナチネを全楽章弾いた。

「慎一、ちょっといらっしゃい」
 お母さんが僕を呼んだ。

「はい。かおちゃん、弾いてて」
 僕は笑顔をつくり、かおちゃんの頭をなでて、その場を離れた。さらさらした、細くて長い、かおちゃんの髪の感触………。



 お母さんのレッスン室に入ると、ドアを閉めた。真面目な話か。何だろう。

 僕の家のレッスン室には、グランドピアノが二台並べて置いてある。お母さんは、ここで音楽大学の受験生や音楽高校の受験生のレッスンをする。僕のレッスンもだ。一台のピアノを代わる代わる弾くのとは違い、僕にあわせて同時に弾かれると、一瞬も気が抜けない。真剣に弾かざるを得なくて緊張感でいっぱいになる。

「はい。何?」
「高田さんからの電話なんだけどね、お友達の妹さんを教えたんですって?」
「うん。教えてって言われたから。だめだった?」
「そうじゃないの。今まで全然練習してこない子だったんですって?そういう子は巷には大勢いるでしょうけれど……。それが、四月の私達のコンサートに来てから、すごくやる気を見せてくれて、ようやくバイエルが半分まで進んだところなんですって?」
「あぁ、そんな感じ」
「そこで伸び悩んで親子で困っていたところを、たまたま慎一が遊びに行って教えることになったんですって?」
「うん」
「だから、高田さんが慎一にありがとうって」

 なんだ。そんなことか。なのに、話は終わらないみたいだ。何が言いたいんだ?

「でもね、高田さんは慎一のことをとても大切にしているからそう言ってくれたんだけど……世の中にはお友達だからって変に甘える人がいるから、慎一に対して御礼をするようにお母様に言ったそうよ」
「そんな、僕は!」
「わかってる。慎一が言いたいこともわかる。私が言いたいのは……」

 僕は、胸がしめつけられるような気持ちだった。じゃあ、かおちゃんは?かおちゃんのことはどう説明する?僕は、この気持ちが悲しみなのか怒りなのかもわからなかった。御礼がほしくてやっているんじゃない。御礼なんて、むしろ……。

「慎一は教えるのが上手だし、好きでしょう。頼まれたら引き受けるでしょう。そして、真剣に教えるでしょう。それに対して、御礼を差し出されたら、受け取っていいのだということを伝えたかったの。慎一は、それだけの物を持っているの」

 それでも僕は、何も言えなかった。


 お母さんはレッスン室のドアを開けた。真剣な話は終わりみたいだ。かおちゃんが心配になるといけないからだろう。かおちゃんは、ずっとギロックの一楽章を一人で練習している。

「あなたが教えたかおちゃん、ここまでになる子はいないわ。きっとこの先も。敢えて厳しいことを言えば、時間は有限なの。同じ時間を使うなら、自分のため、かおちゃんのために使ったらと思うわ。嫌なことを言ってごめんなさいね。あなたの判断に任せるけれど、ピアノを真剣に目指す人は少ないの。発表会を聴きにくるように伝えてご覧なさい」


 お母さんが先に部屋の外に出た。

 僕は、その場から動けなかった。



 動かない僕の代わりに、お母さんがかおちゃんに話しかけた。

「かおちゃん、それ素敵ね。誰の曲なの?」
「ぎろっく……」
「聴かせてくれる?」
「はい」


 今日から練習を始めたばかりの、覚えたての、ギロック作曲『ソナチネ』一楽章。


 まだ、通して弾くには難しい……。それでも、歌心のあるフレーズ、こう弾きたいという気持ち、この曲が好き、ピアノが好き、そんなことがあふれてきて、切ないくらいに伝わってくる。


 僕は自分のレッスンよりも、かおちゃんのレッスンを優先させたいくらい、かおちゃんのピアノが好きだ。

 そう、僕はピアノより何より、かおちゃんが好きだった。

















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