Vibrato 

槇 慎一

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41 あなたの夢を応援します

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 結婚式の翌々日。

 そろそろチェックアウトの時間になった。
 運転手さんが迎えに来たらしい。

 ホテルに迎えに来てもらうなんて、恥ずかしいから自分達で電車に乗って帰りたかったけれど、何だかんだで疲れていたし、今となってはありがたかった。慎二さんは、運転手さんや家政婦さんがいる生活に、まだ慣れないみたいだった。運転手さんも家政婦さんも、一人ずつしかいないのに!

「御殿に帰るか」

 こんな風に、ちょっと他人行儀に言う。そんなの、ウチだけじゃないんだけど。

「周りの家もみんな御殿よ?」
「違いない……」

 私達は、ホテルでゆったり二泊してから家に戻ってきた。

 家といっても、ウチの……平山の敷地内の「離れ」だ。私が産まれて随分経ってから建てられたもので、本邸より新しくて綺麗。お婿さんはともかく、私はそこに住みたかった。私の好みがしっかりと反映されていたから。あ、雑誌に出ていた『弦の音色が響く、私の部屋』の記事が好きなのがバレてたんだな。

 あたたかみのあるアイボリーとオレンジ系の外観。ヨーロッパの教会のような雰囲気の玄関。キッチンから見渡せるリビング。ヴァイオリンの音が響きそうな、高い天井。奥にはパウダールームとベッドルーム。背の高い慎二さんも、ゆったりできるサイズのダブルベッド。それから、小さな私のための小さな部屋に、今まで使っていたベッドも運ばれていた。お茶とお菓子が載せられるくらいのミニテーブルもある。実は私はこういう部屋が落ち着く。広いと、どこからお母さんが現れるかわかったもんじゃない。ミルクがかった女の子色で、ここだけちょっと子供っぽい。他が高級感があるもので揃えられているから、余計にそう感じる。

 ポシェットをベッドに放ったところで止まった。


 …………あ、待って?これって、もしかしてもしかしなくても、私じゃなくて私達の子供の部屋!!!!????


 はあ……。これも皆、お母さんの策略なんだろうな。私が気に入る家具は勿論、慎二さんのために買ったばかりの、新品のスタインウェイのグランドピアノも、こちらの「離れ」に置かれた。

 視線や意識は他に向いても、結婚式からずっと私を側から離さなかった腕が、すうっと鍵盤に吸い寄せられた。

 これは、婿に来てくれた慎二さんへ、私の両親からのプレゼントだ。最高級品とはいえ、ピアノのお値段はわかりやすい。ヴァイオリンよりは安い……なんて思っても言わないけど。

 慎二さんは嬉しそうだった。


 慎二さんはピアノの大屋根を開けながら言う。

「あの日、何を言いたかったんだ?」
「いつ?」
「結婚式の後の、ホテルの部屋で」

 覚えてたんだ?


 ヴィブラートが聴きたいなら、ベートーヴェンの『ロマンス』を一緒に弾きたいって言おうと思っていた。でも、そんなことを頼んでいいのかな?私は趣味だし、慎二さんは自分の課題をたくさんさらわなきゃならない。今年は四年生になるし……。私は言いよどんだ。

「マヤ、何か一緒に弾く?」 
「いいの?」

 わかってくれたみたいで嬉しい!

 私もヴァイオリンのケースを開ける。


「そうだな、『カルメン』なんかどう?」
「えええっ?ヴァイオリンの超絶技巧とかは、一定期間さらわないと、ちょっと厳しいんだけど。ワックスマン?あ、サラサーテでも無理!せめてシュトラウスの『ソナタ』とかにしてよ!」

「どこが『せめて』なんだよ?フランクよりキツイ」
「ふうん、そうなんだ?慎二さんなら何でも弾けるのかと。じゃあ、シマノフスキの『神話』とか?」

「初見では弾きたくないな。ヴァイオリンは伸ばしてるだけじゃないか。さらってないから譜めくりも必要だ。勘弁してくれ……」
「知ってるんだ?じゃあ、『ノクターンとタランテラ』でもいいよ?」

 なんだか楽しい。


「ノクターンはともかく、タランテラは……いや。それはノクターンがヤバい。それも少しはさらわせてくれ。ストラヴィンスキーの『ディヴェルティメント』でどうだ?リズムが合えば楽しいだろ」
「うん、いいよ!」

 初めてあわせる落としどころがソレなんてね。

 ずいぶん高度なお遊びだ。



 「お遊び」は楽しかった。勿論、各々初見で完璧に弾ける訳じゃないけれど真剣勝負だった。交互に間違えては笑ったり、笑う暇もなかったり、こんな風に遊べるなんて。どちらかがつまっても、相手がつなげてくれる。

「ストラヴィンスキーに謝らなきゃだな。これじゃ終われない。サラサーテの『序奏とタランテラ』は?」
「あ、久しぶり!それならまかせて!」

「言ったな!ちゃんと入ってこいよ?」
「私に合わせて入ってきてよ?」

「任せろ。バッチリつけてやる」

 くぅ~!頼もしい!!

 この曲は、幼稚部の頃からの憧れの曲で、初等部に入ったくらいから弾いていた。小さいヴァイオリンだったし、お母さんはこんな曲の伴奏は弾けない。

 たった二小節の前奏は、お遊びとは思えない美しさだった。私のために。ありがとう。


 私も最高のヴィブラートで応えた。

 序奏の後のタランテラの入りは、彼と目を合わせた。でも、目を合わせなくてもピタリと音が重なっただろう。速い曲で、彼の伴奏も心地よくて、楽譜なんていらないくらいだった。

 最後は、ヴァイオリンを放り出したくなった。

 爽快だった。

 お母さんに聴かせてあげてもよかったかも。

 彼と一緒にそんな親孝行ができることも、嬉しかった。


「さっき候補に出てきた曲さ、お互いさらおうか。期限決めた方がいい?それとも、どっちが先に仕上がるか競争する?」

 慎二さんはまるで遊び感覚でそう言ったけど、私は簡単にお願いしてもいいものなのかわからなかった。慎二さんは今年大学四年生。留学とかしたい?それとも大学院でもいい?



 私はヴァイオリンをテーブルに置いた。



「ねえ。……慎二さんは、大学卒業したら、どうしたいの?」

 いつも優しくお返事してくれる彼は、黙った。




「卒業後か。四年はコンチェルトオーディション、コンクール、卒業試験……できれば……」
「できれば?」

「できれば……本当は大学院に行きたかった。作曲をしたかった。アレンジもしたいし、自分の作品を創って、残してみたかった」
「教えてくれてありがとう。夢を過去形にしないで。お母さんに話して?心配しなくて、大丈夫だから」

 私は、言葉を選んで慎重に言った。この家ではお金の心配はいらない。世の中の多くの人はそうじゃないらしい。慎二さんの育ったお家の話からも、ちょっとそういうものを感じた。音大に行くようなお家でも、こんなに優秀な人でもそうなんだ……。言いづらかったけど、私が繋いであげないと、慎二さんからは、きっと、もっと……。

 いくらお金があっても、情熱がなければ無意味だ。

 私は慎二さんに、お金の心配なく邁進してもらいたい。私には、慎二さんやお母さんみたいな、音楽に対するそこまでの情熱がない。お母さんは、慎二さんの音楽を応援してくれる。きっと、もう私の音楽にはこれ以上期待しないだろう。ここまで頑張ったけど、『ここまで』の才能だ。だから、私は慎二さんの『これから』を応援する。

 お金がかかることは、お父さんとお母さんがいくらでも出してくれる。作曲したものを広めるチャンスだって、いくらでも作ることができる。私は、慎二さんがしたいことを応援する。慎二さんが望む、仕事に理解のある妻になれるように、努力します。男のプライドとかいうやつを、どうか良い方向に利用してほしい。

「その情熱は、才能だから。その才能のある慎二さんを、尊敬しています」
「ありがとう。ピアノ科は特待だったけど、作曲はそうもいかない。もう一度学部から入るか、院からチャレンジできるのか、相談してみる。甘えていいのなら、コンチェルトもコンクールも卒業試験も院試も、全力で頑張るよ」

 慎二さんは少し向こうを向いて、そう言った。

 私はその背中にくっついて、若くてカッコよくて面白い旦那さまを抱きしめた。


 それから、「愛してる」って、言った。

 聞こえたかな?あ、聞こえなかった?どうしよう……。



 手を握られて、体ごと向き直された。
 真っ直ぐに私を見る、優しい目。

 唇から、言葉が見えるようだった。


 「俺も。俺も、マヤを愛してる」


 耳からも、はっきり聞こえた。





















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