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槇 慎一

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1 彼氏から連絡きた?

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「ちえみ、松本氏から連絡きた?」

 ちえみと呼ばれたのは、音楽大学声楽科。
 この4月から二年次に進級したばかり。

 音大は授業が多い。一般教養科目は勿論、専門科目は一年生から継続した少人数制のソルフェージュ、和声学、合唱、複数の外国語科目に西洋史、音楽史。
 二年生でも毎日一限から夕方までびっしり埋まった時間割。一般の人間には区別のつかないような、サークルとも部活とも言うべきオペラ同好会は何種類もある。


 仲良しの友達からとはいえ、朝の挨拶代わりにこんな声を掛けられるのも慣れてしまった。
 せめて最初は「おはよう」と言ってほしいと思いつつ振り返る。


 ちえみの彼氏は、友達その他から「松本氏」と呼ばれている。ちえみが大学一年の時、彼は大学院の二年だった。同じ大学の「先輩」という単語よりも、もう少し尊敬を強めた呼称らしい。


「きてない」

 ちえみは普通に答えた。


 ちえみが卒業した高校から同じ大学に進学した友達は、奈緒、美穂、翔子の三人。そのうちの一人、奈緒に朝からつかまった。中学からの友達で、多少踏み込んだところで喧嘩するようなことはない。
 ちえみが卒業した私立の中高一貫校は音楽……特に合唱やミュージカルが盛んで、芸術鑑賞が多いことで有名だった。歌や音楽が大好きで、小学校の時からその学校に行きたいと憧れていた子が多い。


 ちえみの自宅のある駅から電車で三つと近く、制服も好みで、特別に勉強をしないと入れない学校ではなかった。そこから音大の声楽科やミュージカル関係はもちろん、ピアノ科に進む人もたくさんいる。友達も皆似たような感じで、特別なお嬢様学校でもない。
 ちえみはピアノの進度も緩やかで、ピアノ科に進む程は弾けない。歌ですら特別な才能がなくても音楽が好きで、音楽大学の声楽科に行かせてもらえた。両親が音楽に理解があるからだ。

 ちえみは、そんな大学生活が楽しかった。去年までは。


 この春まで大学院生だった「松本氏」は卒業と同時にフランスに留学してしまった。
 大学二年に進級したちえみは、大学の広いカフェテリアで彼を探してしまう癖がぬけず、その度に友人にからかわれたり冷やかされたりした。
 男声の発声練習で似たような声が聴こえると、違うとわかっていても心が踊ってしまい、別人と判ると胸が締めつけられるようだった。ロビーで偶然会った彼の友人等である先輩方に挨拶したり、正門で待ちあわせて一緒に帰ったりした。
 五つ年の離れたちえみと「松本氏」の、一年間同じ学校で過ごした思い出がそこここにあり、何を見ても、何処にいっても彼を思い出してしまうのは当然のことだ。


「連絡くれればいいのにね」

 最初こそからかっていた友人は、一ヶ月経っても連絡がなく、元気のないちえみに同情した。

「ほんとだよ、もう」

 毎度毎度慰めてもらうのも申し訳ないくらいだ。

「まだ、時間あるよね。今日もやってあげるよ!」

 友人の奈緒は、ちえみの顔をメイクしたり、髪をアレンジしたりしてくれた。ちえみは自分でそんなことをしないから、いつも奈緒に任せていた。慰めてくれているのだとわかっている。最初はサイドを編み込みするくらいだったのが、最近は髪も巻いてくれるようになった。そんな物まで大学に持ってくるなんて、とちえみは驚いた。

 彼と出会った頃は中学一年生で、髪は肩までの、所謂オカッパだった。それから伸ばした髪は肩下20センチくらいになった。
 ちえみは身長が低いから子供っぽく見られるが、こうしてメイクしてもらい、髪を巻いてもらうと、少し大人っぽく見えるどころか、化粧映えして綺麗な女性に変身した。
 奈緒はちえみのことが大好きだったから、こんなことでも気が紛れればと、毎日せっせとちえみの外見をいじくり回した。そう、ちえみは可愛いのに、そういうことに興味がない。素顔は普通に可愛く、メイクをすると恐ろしい程映える。松本氏に写真を送ってやりたいともどかしい気持ちだった。


「でーきた!ちえみ、新しいアイシャドウとチークの色、どう?」

 授業の前だというのに、教科書でなくメイク道具が散らばった机の上を見て、そもそも今までと何が変わったのかわからず、ちえみは何と返事していいかわからなかった。「チークって何?」状態だ。

 そしてまた一人、友人の美穂が教室に現れた。

「ちえみ、おはよう!今日も可愛くしてもらったの?松本氏にその写真送れば?連絡きた?」

 またその話が始まる。

「おはよう。きてないし、しない。何か、いつもこんな返事でごめん……て、何で私が謝らなきゃならないの?」

「そうだそうだ!松本氏!ちえみがこんなに可愛くて、他の男に盗られたらどうするの?」

 しかしながら、友人達がこんな風に教室で騒ぐものだから、こっそり新しい彼氏をつくっちゃうなんてこともできない。
 声楽科の男子は学年でも十人ちょっとだ。ほぼほぼ全て同じクラス単位で行動する。『ちえみの彼氏は大学院オペラコースで首席だった松本氏。留学して一ヶ月間音沙汰無し』は既に全員が知っている。


 松本氏の師匠であり、ちえみの父親である「篠原先生」はこの大学の教授で、同じクラスに門下生もいる。
 私はちょっと居心地が良くない時もある。悪いことはできない。悪いことなどするつもりはないが、先生の子供というのはいろいろと気を使うのだ。これでは新しい彼氏もできないし、浮気もできそうにない。
 いや、ちえみはそんなことをしたいわけではない。ただ、連絡が欲しいだけだった。


 友人は私を心配してくれている。わかってる。私が彼を好きなのもわかってくれる。友人がいるから、寂しくない。寂しくなんかないもん!ちえみは小さく言って唇を尖らせた。


 チャイムが鳴った。


 一限目は外国語。
 二年生から履修するフランス語を楽しみにしていたのに、今では憂鬱なことこの上ない。しかし、一度も欠席したことはない。ロマンスグレーのフランス人の先生の話し方、動作、物腰……。彼も今、こういう人達に囲まれているのかな……。ちえみは授業に集中するよう、気持ちを整えた。授業内容をメモするノートと共に、便箋にも同じことを書いた。


 ノートはもちろん、便箋も一回の授業で何枚も使うので、相当な厚みになった。ちえみは、松本に「今日、これを習ったよ」と勉強がてら報告しようと書き溜めていた。


 だが、送り先がわからなかった。
 連絡がきたら返信するつもりでいた。

 連絡がないなんて夢にも思わなかったのだ。




















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