Variation

槇 慎一

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13 最終ヴァリエーションは卒業式で

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「部屋は掃除しなくていいから、このままにしておけ」

 そう言ってわざと散らかしておいたが、本当に、ほぼほぼそのままだった。空気の入れ替えの為に窓をあけたりしただろうから、その動線だけ、床に物がない。パジャマが洗って畳んである。ゴミ箱は空。変わったのはその三つだ。懐かしすぎて短編オペラが一作歌える、いや書ける。題名は「捨てられチワワ、古巣に戻る」か。


 片付けよう。何しろ無職の居候だ。同じチワワでも、受験生のほうがまだ体裁がよかった。師匠命令で留学したものの、帰国後のことまで考えていなかった。いや、あっちではそんな余裕も暇もなかった。俺は床の物を拾い集めた。書生よろしく勤勉に学び、仕事につなげなければ結婚など…………。



 何を言っても言い訳だ。


 大変だったんだ。まず言葉が通じない。勿論フランス語は勉強していった。地方から東京へ出た時でさえ大変だったんだ。同じ日本語でも標準語とそれ以外ではイントネーションはもとより、話すスピードが全く違う。フランス語なんてそれ以上だ。
 勉強していったとはいえ勉強も大変だった。都市部のコンセルヴァトワールではないから日本人もいない。歌はまた発声からやり直される。発音も矯正される。基本的なことから学び直した。あちらの先生にはよくしてもらったが、歌うまでにはものすごく時間がかかった。わかってる。言い訳だ。


 もっと言えば、時差もある。連絡しても、フランスと東京の時差。常にフランスが8時間遅れ。それに、電話をすれば会いたくなる。どんなに我慢しても届かない。声だけ聞いて我慢できるか!何度でも言うが、大変だったんだ、勉強が。勉強しに行ったのだ。
 ちえみのことは一旦忘れて勉強に打ち込もうとした。留学先の科目は全て所定の評価をクリアし、最短のコースで卒業した。大変だったし、忘れることなんて出来なかった。頑張ったよ、俺。それも、全てちえみのためだ。


 それから、帰国後すぐに東京に帰らなかったのは、実家のゴタゴタがあったからだ。それこそ、そんなことまでいちいち好きな女には言いたくない。
 高校三年の終盤からずっと東京にいた俺は、兄が二人いるから家業など何かといろいろ免れていた。結婚するからと、実家に話をした。大学講師になる為、戸籍謄本等の役所関係の書類も必要だった。
 それだって、東京で居候していたことや、フランスに居を移したこと、住民票は一旦実家に戻したものの、また東京で居候……結婚してそのままそこでも構わないが、いや、置いていただかないと、何しろ無職だし……。
 扶養のこと、税金のことだっていちいち痛いところを何度でもつかれる。名前はちえみが松本になってくれるのか、俺が篠原になるのか、そんなことも。すぐに結婚できたら、ちえみの扶養家族になるのか?
 そもそも俺の親はともかく、地方だと「男が音楽なんて」から始まり、ピアニストならまだ仕事内容は多少は想像できるのだろうが、「オペラ」に至っては単語の説明からだ!!!!…………その辺りを田舎の親兄弟や親戚に同じ話を何度も何度も何度でもしなければならなかった。
 何とかちえみの卒業式までにそれらを済ませたかった。ここでもオペラが書ける。「オペラを知らぬ者に、歌って聴かせてわからせて」これは短編では済まないな。ちえみにも出演してもらわなければ。


 プロポーズしたちえみをここに連れてきた暁には、なるべく短時間で済ませて、他はゆっくり観光でもさせられるように尽力したのだ。


 そう、地元の恩師の佐々木先生にも会ってきた。イチゴのクレープを持ってな。

「やぁ~ん、徹くぅん!久しぶりぃ!ヤダ!格好良くなった!ちょっと何キロ?どうやったらそんなカラダになるのよ?よく見せて!」

 芸能人並にいいツラしているのに、全く変わっていなくて吹いてしまった。脱がされそうになったが、阻止した。どこまで本気かわかったもんじゃない。それにしても佐々木先生、喜歌劇イケる!コミックオペラの主演ができそうだ。


 
 卒業式の後、謝恩会に行ったちえみは何時に帰るかわからなかった。中高時代の友達と一緒に帰るから心配しないでと言っていたらしい。確かに、あの三人はこっちまで同じ方向だしな。

 
 遅い時間になり、キイ…………と門扉の開いた音がした。そして玄関ドアの音がする。帰宅したか。階段を上がっていく音。


 俺がここ……部屋にいるのはわかっている筈だ。後で来るだろう。パジャマだとイマイチだったか?部屋はすっかり綺麗になっている。何なら今夜からここに泊まってくれても構わないが、……やっぱりまだ大っぴらにはできないか。いつからならいい?いつ、一晩中好きにしていいんだ?結婚してからか?話したいし抱きしめたいから早くこいよ!!!俺には携帯がないんだ!ちえみの部屋の隣は師匠の部屋だ。俺が行ったらまずいだろう?


 そんなことを考えていたのに、ちえみは俺の部屋に来ることはなく翌朝になった。俺はショックで、しゅんとした。



 翌朝。

 朝食時には当然会えるだろうと思っていたのに、ちえみは友達と旅行だとかで早朝に出発したらしい。


 ちえみのいない食卓。先生と奥様と三人での朝食だった。


 この大学の卒業式は毎年三月下旬にある。春休みはあと数日。四月になったら大学の事務職員になるちえみは社会人か……。そりゃあ旅行に行く訳だ。


 俺は避けられているのか?




 やっぱりきちんとプロポーズしよう。

 言葉だけでなく、何か残るものにしたい。歌うか。歌うしかない。俺には歌だけだ。何を歌うか。発声しつつ、軽くスキップしながら階段を降りる。


 篠原邸のレッスン室のグランドピアノの上には、ちえみの友達の翔子が創ったと思われる、ピアノ伴奏付きの女声三部合唱曲があった。手書きの譜面をコピーしたもので、膨大な作品だった。
 ヴァリエーション形式か……。パラパラとめくる。ピアノ曲で言えばメンデルスゾーンの『厳格なる変奏曲』が短く感じるくらいの作品だ。バッハの『ゴールドベルグ変奏曲』とは対照的な曲調……チャイコフスキーの『偉大な芸術家の思い出』のようだ。
 伴奏を弾いてみた。その旋律は、まるでちえみの心情をそのまま表現したようなドラマティックな大曲だった。所々にメモされたヴァリエーション毎の日付が、見ているだけでも泣けてくる。
 弾きながら、メロディーを歌ってみた。ちえみが葛藤しながらも、一縷の微かな希望へとつながっているような曲だった。曲の最後は、再会した卒業式の日の、あの柔らかい春の陽射しのような短いコラール(賛美歌)があった。ずっと暗い曲調だったのが、最後の和音のみ暗さを消す、ピカルディ終止で終わっている。この紙だけ、五線紙の色が違う。鉛筆……直筆か。日付も……間違いない。卒業式の最中に書いたのか。やるな、翔子。


 目を閉じた。

 この人生は、プロポーズした先の何処かにつながっている筈。俺自身のオペラの物語はまだまだ始まったばかりだ。今がいいところなんだが、若干予定と違う…………。人生は予定通りになんてならない。


 見せ場をつくるか。

 松本徹は立ち上がった。



















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