きみに駆ける

美和優希

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 私は月島くんに背を向けると、百メートル先に見える手洗い場まで軽く走った。
 手洗い場について月島くんを見る。
 月島くんの姿は透けているせいもあってうっすらとしか見えないけれど、こちらに向かって手を上げて振ってくれている。
 陸上競技場の外だというのに、スタートの構えをすると、途端に競技場の光景が目の前に浮かび上がってくるようで不思議だ。
 きっとそのくらい、私は陸上が大好きだということなのだろう。

 いくら好きなことでも、続けていくのはきっと楽しいことだけじゃない。きっとまた苦しいこともあれば、ぶつかる壁もあるのだろう。
 けれど、それでも走ることは辞められないから。
 私は、いつまでも走り続けよう。
 そして、それが誰かの──きみの希望になるのなら、それ以上のものはないように感じた。

 月島くんが出した合図とともに、地面を強く蹴る。
 久しぶりに感じる、頬に風が当たる感触。空気を切る音。
 こんな風に意識して走るのは、本当に久しぶりだった。
 月島くんの前に、ゴールテープがあるように見えた気がした。
 私はそこに向かって飛び込むと、速度を落としながらも月島くんの方へ向かった。

 スケッチブックと鉛筆を手にした月島くんは、スケッチブックに視線を落とすことなく私の走りを真っ直ぐに見ていてくれているようだ。

「内村さん」

 月島くんに近づいたとき、彼はまるで私を受け止めようとするかのように両手を広げた。

「……ありがとう」

 月島くんの優しい声を耳にしながら、私はそこに迷わず飛び込んだ。……つもりだった。
 けれど私の両腕は宙を切り、何もない宙に飛び込んだ私はその場に転がりそうになったのを何とか踏みとどめた。

「月島くん……?」

 ──そこにもう、月島くんの姿はなかった。

 消えてしまったんだ。月島くんの心残りが全て解消されたということなのだろう。
 それは、きっと月島くんにとってよかったことなんだと思う。

 けれど、私はまだ、心からそうだとは感じられない。
 何とか転ばずに済んだものの、目の前の現実に立っていられなくて、膝からそこに崩れ落ちた。
 ひとつ、またひとつと、目の前に見えるレンガ造りの地面に染みが広がっていく。

 月島くんが、消えた。
 それが意味することなんて、考えたくもない。


「……歩美っ! もう、探したよ。歩美……?」

 加奈の声だ。まさかずっと私のことを探してくれていたのだろうか。
 それなら悪いことをしたな。

「歩美、どうしたの? 大丈夫?」

 本当なら心配させないようにしないといけないのに、今はできそうにない。

「加奈、ごめんね……。ごめん……」

 ポロポロとこぼれ落ちる涙を拭いながら言葉を紡ぐのが、精一杯だ。

 加奈はそんな私を見て深く事情を聞いてくることはなかった。ただ私が落ち着くまで、背を撫でてくれていた。そんな加奈の優しさに救われるようだった。
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