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1.友情を繋ぐ柚子香るタルト
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私も一口食べてみる。すると、柔らかいカステラ生地とあんこの甘味が口の中に広がる際、柚子の香りを感じた。
「……美味しい」
だけど、ひとつだけ引っ掛かることがあり、思わず首を傾げた。
「まさか、これがいつも二人で食べていたタルト……?」
おばあさんとチャチャの反応から、きっと二人はいつもこの和菓子を分け合って食べていたのだろう。
でも確かおばあさんは、チャチャといつも“タルト”を食べていたと言っていたような気がするのだけれど……。
だからといって目の前の食べ物の名前はわからない。私は思わず疑問を口走っていた。
「まさかあんた、タルトを知らんかったん? 松山に来たなら、買って帰り」
「は、はい……」
どうやらチャチャとのやり取りに夢中になっていたおばあさんの耳にも届いていたようだ。
どうやらこれは松山のお菓子らしい。
「タルトは、松山の郷土菓子。地元ではタルトと言えば、洋菓子のタルトではなく、こちらを指す場合が多いのです」
飯塚さんが説明を添えてくれる。
「ありがとうございます。そうなんですね」
「私はタルトが大好きやったけん、いつも決まっておやつはこれやったんよ。またこうして大好きなタルトを大好きなチャチャと食べられて。さらには、こんなに良くしてくれる方々に飼ってもらえとるってわかって、私にはもう、思い残すことはないわ」
おばあさんの瞳から涙が溢れた。
だけどその表情にはもう出会ったときに感じた哀愁はなく、嬉しそうだった。
幸せな時間はあっという間だった。ついにチャチャとタルトを食べ終えたおばあさんは、余韻に浸ったあと、今日一番の笑顔を見せた。
「安心して、旅立てるよ」
そして、とうとうおばあさんは温かい、まばゆい光に包まれて空気に溶けていった。
──いってしまった。
もう、私たちの手の届かないところへ。
チャチャもそれは感じているようで、寂しげに窓の外を眺めている。
私もたった一日おばあさんと一緒に過ごしただけだけど、もう二度と会えないのだと思うとこんなに寂しく感じるのだ。チャチャはもっと寂しいだろう。
だけど、おばあさんが最後に心からの笑みを見せてくれたから。この世でずっとチャチャのことを気にやんだままさまよい続けるくらいなら、きっとこれで良かったのだと思う。
「チャチャとおばあさんのために、ありがとうございます」
声の聞こえた方を見れば、飯塚さんが寂しげなチャチャを抱き上げながら私を見ていた。
「……いえ。朝、偶然バス停で出会って、放っておけなかっただけですから」
「放っておけなかったって。観光客ですよね、その荷物」
「あ……その、違わなくはないけど、観光というより、昨日、友達の結婚式が松山であって……」
しどろもどろに答える私に構わず、飯塚さんは会話を続ける。
「じゃあ、本当は今日は観光して帰るつもりだったんじゃないですか? いくら幽霊が見えて会話ができるからって、かなりお人好しですね」
飯塚さんはチャチャを抱っこしたまま、私の向かいの、さっきまでおばあさんが座っていた椅子に腰を下ろす。
「お人好しっていうか、特に予定もなかったので……」
「どちらから松山に?」
「東京です」
空気を読んでなのか、たまたまなのかはわからないけれど、私に連れはいないのか聞かれなくて、内心ホッとする。
「失礼ですが、東京ではどのようなお仕事をされているのですか?」
だけど、次に聞こえた問いかけに、私は言葉に詰まった。
「それは……、広告代理店で働いていて……その……」
つい数ヶ月前まで、しんどいだの文句を言いつつ働いていた会社のことを思い浮かべながら、口を開きかける。適当に当たり障りのない会話をしていれば、突っ込んで何かを聞かれることはないだろう。
だけど、どうしてだろう。
私のことを知らない人だからなのか、私は昨日に備えて嘘に嘘を塗り重ねて作りあげた“至って普通に聞こえる近況”を話す気にはなれなかった。
「……すみません、嘘をつきました。私、今は無職なんです」
自分で言いながら、現状を再認識させられてこれまで何度も感じた絶望の気持ちを味わう。
それでも口にしてしまったのは、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。友人相手では、プライドという名のレッテルが邪魔をして、とてもできなかったから。
「広告代理店で働いていたのは本当ですが、経営状態が悪いからと今年の四月末に……」
クビとは言われてないし、辞めろと声に出して言われたわけでもない。だけど、徐々に仕事を減らされ、仕舞いには転職の話を持ちかけてくるのだ。
どう考えても、あからさまな退職勧奨だった。
「……美味しい」
だけど、ひとつだけ引っ掛かることがあり、思わず首を傾げた。
「まさか、これがいつも二人で食べていたタルト……?」
おばあさんとチャチャの反応から、きっと二人はいつもこの和菓子を分け合って食べていたのだろう。
でも確かおばあさんは、チャチャといつも“タルト”を食べていたと言っていたような気がするのだけれど……。
だからといって目の前の食べ物の名前はわからない。私は思わず疑問を口走っていた。
「まさかあんた、タルトを知らんかったん? 松山に来たなら、買って帰り」
「は、はい……」
どうやらチャチャとのやり取りに夢中になっていたおばあさんの耳にも届いていたようだ。
どうやらこれは松山のお菓子らしい。
「タルトは、松山の郷土菓子。地元ではタルトと言えば、洋菓子のタルトではなく、こちらを指す場合が多いのです」
飯塚さんが説明を添えてくれる。
「ありがとうございます。そうなんですね」
「私はタルトが大好きやったけん、いつも決まっておやつはこれやったんよ。またこうして大好きなタルトを大好きなチャチャと食べられて。さらには、こんなに良くしてくれる方々に飼ってもらえとるってわかって、私にはもう、思い残すことはないわ」
おばあさんの瞳から涙が溢れた。
だけどその表情にはもう出会ったときに感じた哀愁はなく、嬉しそうだった。
幸せな時間はあっという間だった。ついにチャチャとタルトを食べ終えたおばあさんは、余韻に浸ったあと、今日一番の笑顔を見せた。
「安心して、旅立てるよ」
そして、とうとうおばあさんは温かい、まばゆい光に包まれて空気に溶けていった。
──いってしまった。
もう、私たちの手の届かないところへ。
チャチャもそれは感じているようで、寂しげに窓の外を眺めている。
私もたった一日おばあさんと一緒に過ごしただけだけど、もう二度と会えないのだと思うとこんなに寂しく感じるのだ。チャチャはもっと寂しいだろう。
だけど、おばあさんが最後に心からの笑みを見せてくれたから。この世でずっとチャチャのことを気にやんだままさまよい続けるくらいなら、きっとこれで良かったのだと思う。
「チャチャとおばあさんのために、ありがとうございます」
声の聞こえた方を見れば、飯塚さんが寂しげなチャチャを抱き上げながら私を見ていた。
「……いえ。朝、偶然バス停で出会って、放っておけなかっただけですから」
「放っておけなかったって。観光客ですよね、その荷物」
「あ……その、違わなくはないけど、観光というより、昨日、友達の結婚式が松山であって……」
しどろもどろに答える私に構わず、飯塚さんは会話を続ける。
「じゃあ、本当は今日は観光して帰るつもりだったんじゃないですか? いくら幽霊が見えて会話ができるからって、かなりお人好しですね」
飯塚さんはチャチャを抱っこしたまま、私の向かいの、さっきまでおばあさんが座っていた椅子に腰を下ろす。
「お人好しっていうか、特に予定もなかったので……」
「どちらから松山に?」
「東京です」
空気を読んでなのか、たまたまなのかはわからないけれど、私に連れはいないのか聞かれなくて、内心ホッとする。
「失礼ですが、東京ではどのようなお仕事をされているのですか?」
だけど、次に聞こえた問いかけに、私は言葉に詰まった。
「それは……、広告代理店で働いていて……その……」
つい数ヶ月前まで、しんどいだの文句を言いつつ働いていた会社のことを思い浮かべながら、口を開きかける。適当に当たり障りのない会話をしていれば、突っ込んで何かを聞かれることはないだろう。
だけど、どうしてだろう。
私のことを知らない人だからなのか、私は昨日に備えて嘘に嘘を塗り重ねて作りあげた“至って普通に聞こえる近況”を話す気にはなれなかった。
「……すみません、嘘をつきました。私、今は無職なんです」
自分で言いながら、現状を再認識させられてこれまで何度も感じた絶望の気持ちを味わう。
それでも口にしてしまったのは、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。友人相手では、プライドという名のレッテルが邪魔をして、とてもできなかったから。
「広告代理店で働いていたのは本当ですが、経営状態が悪いからと今年の四月末に……」
クビとは言われてないし、辞めろと声に出して言われたわけでもない。だけど、徐々に仕事を減らされ、仕舞いには転職の話を持ちかけてくるのだ。
どう考えても、あからさまな退職勧奨だった。
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