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仕舞
幸せと悲しみと
ゆきは一命をとりとめ、片桐家で養生することになった。
深川一体は、広く焼け、叔母の家も全焼してしまっている。
お染は、越後屋で、住むことろを世話してもらっていた。
ゆきもどうかという話もあったが、断っている。
片桐家の屋敷には、本当に誰もいなかった。
覚めない夢がまだ続いているような気がした。
血を失い、ほとんど寝ていたのだが、今のところ、お腹の子に障りがなかったことが救いだった。
だが、それでなんの憂いもなくなったかというと、そうではなかった。
深川で、左京大夫が亡くなったことは、世間に広く知れわたり、雪也のその後の消息が取り沙汰されるようになっていた。
不名誉なことなので殺害されたことは伏せられたために、かえって謎を呼び、いろんな憶測が飛び交った。
生き残ったゆきに対する風当たりは、思ったよりも強いものだったのだ。
殿様を見捨てて、男と逃げた、悪女だと。
その男、和馬にも累は及んだ。
ゆきを殿様から奪うために、火事に乗じて殺めたのだと、まことしやかに囁かれているという。
一方では、助けようとしたのだが、左京大夫が助けを拒んで、怪我をした雪也だけを連れて行くように頼んだのだとか、見てきたような噂話はどれも、左京大夫が英雄になっていた。
そういう噂を持ってくるのは、紗江で、和馬のいない昼間、様子を見にやってくる。
「私も、あの人には失望したのよ。もう少し辛抱のある人かと思ったけど、兄上には刃が立たなかったみたいね。あのかんからかんの堅物は、あなたしか無理なのかもしれないわ。悪女がお似合いなのかも」
紗江は結納までかわしながら、他家へ嫁いで行った人の悪口を言って、ゆきを悪女呼ばわりした。
紗江の毒舌を聞いていると、これは夢ではなく現実なのだと思い知る。
相変わらず言いたいことを言って、それでも親身になって世話をしてくれた。
「もう芸者もできないでしょうから、いたければここにいればいいわ。噂なんて、すぐに消えてしまうから、気にしないで」
仕方なくでも紗江は認めてくれているようだったが、矢面に立つ和馬に、申し訳なくて、素直に嬉しいとは思えなかった。
夜になると、和馬が帰ってくる。
「ごめんなさい。私・・・ここにいちゃいけない気がする」
「そんなことはない。噂など気にするな。本当のことは、おれたち自身が知っている。それで十分だ。人にわかってもらおうとは思っていない」
和馬は、そう言って、なんでもないような顔をする。
当主を失った松平家は、潰されることはなかったものの、武士にあるまじき最期ということで禄を減らされ、旗本の格に落とされて、十歳になった嫡子が継ぐことになった。
子供のいない側室は、実家に返されたという。
「この子を産んで育てることが、お殿さまの供養になるから、ゆきはそれだけ頑張ったらいい」
だから、生き残ったことを悔やんではいけない。
それが、左京大夫の意思でもあるのだから。
「そうですね」
それでも、罪悪感に苛まれる。
同時に寂しさが募ってくる。
和馬のそばにいられて、幸せなはずなのに、左京大夫が恋しくてたまらない。
もう二度と会えないことが、これほど辛いことだとは思わなかった。
体に刻まれた記憶は、左京大夫を求めてしまう。
夜な夜な恋しくて、泣いた。
それほど、その存在が大きかったのだ。
幸せと、悲しみの両方の感情が、変わるがわる立ち上がってくる。
「お殿さまを助けられなくて、幸せにはなれない」
「それは違う。おれはお殿さまに、ゆきを幸せにすると約束した。惚れた女の幸せを願わない男はいない」
「和馬さま・・・」
「おれは、ゆきを幸せにしたい。ゆきは何も悪くない。悪いのはおれだ。ゆきを放っておいて、今頃のこのこと現れて、本当は、どのつら下げてって、突っぱねられて然るべきだ。おれは意気地なしだ。もっと早く迎えに行くべきだったんだ。・・・ゆきはお殿さまを好きなままでいい。忘れろとは言わない。でも・・・それでも、おれのそばにいてほしい。勝手なことを言っているのは承知している。楽はさせてあげられないし。金はないし、遊びにも連れて行ってやれないけど・・・」
和馬の手が伸びてきて、頬に触れる。
流れる涙を指が拭う。
「悪女で何が悪いんだ。おれは、どんなゆきでも、受け止める覚悟がある。愛する自信がある。そう決めたんだ」
「・・・」
「いや、それは、ゆきが決めることだな。おれにも、世間にも、遠慮することはない。好きにすればいい」
あのときのゆきは、ここにとどまることができなかった。
やり直す覚悟はあるかと問われている。
「本当に、いいのですね。私・・・和馬さまに甘えてしまっても」
「ああ」
「この子は、左京さまの子です」
「おれの子として育てる。安心してほしい」
「世間に何を言われても」
「もう散々言われてる」
「浮気したら、捨てますよ」
「ああ、捨ててくれて構わない」
「・・・」
ゆきが堪えきれずに吹き出した。
「何がおかしい」
和馬も笑い出した。
「するつもりなのですか?」
「できると思うか?」
「いいえ。だって、私を満足させるまで離しはしませんから。浮気する暇なんてありません」
「大した自信だな」
「もう、あなたは、私の虜です」
「ああ、その通りだ」
優しい口づけが降りてくる。
心地いい。
それだけで、ゆきは満足した。
「笑いの絶えない家にしたいな」
「そうですね」
「おれの子も、産んでくれるか」
「はい」
「よかった。女中じゃなく、おれの妻になってほしい」
「はい」
今だから、そう返事ができる。
お互いの想いが揺るぎない、今だからこそ。
「はあ」
和馬が大きく息を吐いた。
「よかった」
緊張していたのか、冬だというのに汗をかいている。
深川一体は、広く焼け、叔母の家も全焼してしまっている。
お染は、越後屋で、住むことろを世話してもらっていた。
ゆきもどうかという話もあったが、断っている。
片桐家の屋敷には、本当に誰もいなかった。
覚めない夢がまだ続いているような気がした。
血を失い、ほとんど寝ていたのだが、今のところ、お腹の子に障りがなかったことが救いだった。
だが、それでなんの憂いもなくなったかというと、そうではなかった。
深川で、左京大夫が亡くなったことは、世間に広く知れわたり、雪也のその後の消息が取り沙汰されるようになっていた。
不名誉なことなので殺害されたことは伏せられたために、かえって謎を呼び、いろんな憶測が飛び交った。
生き残ったゆきに対する風当たりは、思ったよりも強いものだったのだ。
殿様を見捨てて、男と逃げた、悪女だと。
その男、和馬にも累は及んだ。
ゆきを殿様から奪うために、火事に乗じて殺めたのだと、まことしやかに囁かれているという。
一方では、助けようとしたのだが、左京大夫が助けを拒んで、怪我をした雪也だけを連れて行くように頼んだのだとか、見てきたような噂話はどれも、左京大夫が英雄になっていた。
そういう噂を持ってくるのは、紗江で、和馬のいない昼間、様子を見にやってくる。
「私も、あの人には失望したのよ。もう少し辛抱のある人かと思ったけど、兄上には刃が立たなかったみたいね。あのかんからかんの堅物は、あなたしか無理なのかもしれないわ。悪女がお似合いなのかも」
紗江は結納までかわしながら、他家へ嫁いで行った人の悪口を言って、ゆきを悪女呼ばわりした。
紗江の毒舌を聞いていると、これは夢ではなく現実なのだと思い知る。
相変わらず言いたいことを言って、それでも親身になって世話をしてくれた。
「もう芸者もできないでしょうから、いたければここにいればいいわ。噂なんて、すぐに消えてしまうから、気にしないで」
仕方なくでも紗江は認めてくれているようだったが、矢面に立つ和馬に、申し訳なくて、素直に嬉しいとは思えなかった。
夜になると、和馬が帰ってくる。
「ごめんなさい。私・・・ここにいちゃいけない気がする」
「そんなことはない。噂など気にするな。本当のことは、おれたち自身が知っている。それで十分だ。人にわかってもらおうとは思っていない」
和馬は、そう言って、なんでもないような顔をする。
当主を失った松平家は、潰されることはなかったものの、武士にあるまじき最期ということで禄を減らされ、旗本の格に落とされて、十歳になった嫡子が継ぐことになった。
子供のいない側室は、実家に返されたという。
「この子を産んで育てることが、お殿さまの供養になるから、ゆきはそれだけ頑張ったらいい」
だから、生き残ったことを悔やんではいけない。
それが、左京大夫の意思でもあるのだから。
「そうですね」
それでも、罪悪感に苛まれる。
同時に寂しさが募ってくる。
和馬のそばにいられて、幸せなはずなのに、左京大夫が恋しくてたまらない。
もう二度と会えないことが、これほど辛いことだとは思わなかった。
体に刻まれた記憶は、左京大夫を求めてしまう。
夜な夜な恋しくて、泣いた。
それほど、その存在が大きかったのだ。
幸せと、悲しみの両方の感情が、変わるがわる立ち上がってくる。
「お殿さまを助けられなくて、幸せにはなれない」
「それは違う。おれはお殿さまに、ゆきを幸せにすると約束した。惚れた女の幸せを願わない男はいない」
「和馬さま・・・」
「おれは、ゆきを幸せにしたい。ゆきは何も悪くない。悪いのはおれだ。ゆきを放っておいて、今頃のこのこと現れて、本当は、どのつら下げてって、突っぱねられて然るべきだ。おれは意気地なしだ。もっと早く迎えに行くべきだったんだ。・・・ゆきはお殿さまを好きなままでいい。忘れろとは言わない。でも・・・それでも、おれのそばにいてほしい。勝手なことを言っているのは承知している。楽はさせてあげられないし。金はないし、遊びにも連れて行ってやれないけど・・・」
和馬の手が伸びてきて、頬に触れる。
流れる涙を指が拭う。
「悪女で何が悪いんだ。おれは、どんなゆきでも、受け止める覚悟がある。愛する自信がある。そう決めたんだ」
「・・・」
「いや、それは、ゆきが決めることだな。おれにも、世間にも、遠慮することはない。好きにすればいい」
あのときのゆきは、ここにとどまることができなかった。
やり直す覚悟はあるかと問われている。
「本当に、いいのですね。私・・・和馬さまに甘えてしまっても」
「ああ」
「この子は、左京さまの子です」
「おれの子として育てる。安心してほしい」
「世間に何を言われても」
「もう散々言われてる」
「浮気したら、捨てますよ」
「ああ、捨ててくれて構わない」
「・・・」
ゆきが堪えきれずに吹き出した。
「何がおかしい」
和馬も笑い出した。
「するつもりなのですか?」
「できると思うか?」
「いいえ。だって、私を満足させるまで離しはしませんから。浮気する暇なんてありません」
「大した自信だな」
「もう、あなたは、私の虜です」
「ああ、その通りだ」
優しい口づけが降りてくる。
心地いい。
それだけで、ゆきは満足した。
「笑いの絶えない家にしたいな」
「そうですね」
「おれの子も、産んでくれるか」
「はい」
「よかった。女中じゃなく、おれの妻になってほしい」
「はい」
今だから、そう返事ができる。
お互いの想いが揺るぎない、今だからこそ。
「はあ」
和馬が大きく息を吐いた。
「よかった」
緊張していたのか、冬だというのに汗をかいている。
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