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3−3 始まりのチョコレートケーキ
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パウダーがかけられたコーティングのチョコレートの下には、これもチョコのクリームとスポンジが何層にも重ねられていた。
口の中で、いろんなチョコレートが溶け合い、香り高いカカオが鼻に抜ける。
ほろ苦く大人の味で、くせになりそうな絶妙な苦味に唸ってしまう。
「美味しい~~幸せ~~」
とろけそうな顔になっていることだろう。
このまま死んでもきっと後悔しないと思う。
紅茶も最高だった。こんなに美味しい紅茶は飲んだことがなかった。
世の中には、美香が味わったことのない美味しいものが溢れている。
その一端を味わうことが、今日できたのだ。
こんな贅沢は、頻繁にできるものではなかった。
また食べたいと思っても、このチョコレートケーキには、交通費も含めれば、ゆうに数万ものお金がかかっているのだった。
ちなみにホテルに泊まろうとすれば、美香の1ヶ月分のお給料でも足りないお金がかかる。
一生足を踏み入れられないかもしれない世界に、今、美香はいるのだ。
もう一生分の贅沢をしたような気分になり、お腹がいっぱいになった。
写真も撮ったし、用事は済んだ。
さて・・・。
帰るとしましょうか。
なぜか、寂しい気持ちになる。
こんなところでお茶ができるような女になりたいと思ったのだったが、今の自分とのギャップに。打ちのめされたような気がした。
誰かと一緒だと、話に夢中になり、あまり気にならなかったかもしれない。
一人でいると、自分がよく見えてしまう。
自分と向き合うとは、こんな感じなのか。
夢ではなくて、実際に体験すると、自分の立ち位置が明確になってしまうのだ。
王子様が近づいてきた。
「お茶のおかわりはいかがですか」
お皿を下げながら訊いてくる。
「いいえ。大丈夫です」
「かしこまりました」
ふわりと微笑すると、客に呼ばれて用を聞きに行った。
その様子を見るともなしに眺めていた。
さすがに高級ホテルだけあって、働く人も客も異世界の住人かと思うほどにおしゃれで美しい。
今まで目に入ってこなかったが、王子様を呼んだのは、男性で、スラックスにセーターとラフな格好だが、高級感があり、そのまとう空気も、美香とは明らかに住む世界が違うとわかる。
王子様と何か話している。
こちらは、少し年嵩の王太子といったところか。
別れたクズ男など、一瞬で消し飛ぶほどの存在感がまぶしくて、目をそらした。
王子様がまた近づいてきた。
「あちらのお客様からです」
と笑顔とともに差し出されたのは、一本の赤いバラだった。
「へ?」
変な声が出てしまい、口元を隠した。
「私、ですか? 何かの間違いでは・・・」
「いいえ。あなたにですよ」
「・・・」
差し出されたものを受け取らないのも失礼だと思い、とりあえず受け取った。
「もし、お時間があれば、ご一緒にお茶しませんか、とおっしゃられています」
誘われてる?
人を間に立たせるところが、なんともこなれている。
お金持ちの気まぐれ?
美香は立ち上がると、バラをくれたという男性のそばまで行った。
自分でも不思議なほど落ち着いていた。
いや、落ち着いているというよりも、そうしないほうが落ち着かなかったのだ。
「あの・・・」
唾を飲み込んだ。
目は、その男性を見つめているのだが、周りからも注目されているのがわかる。
「きてくれて嬉しいよ。どうぞ、座って」
初対面なのに、気さくに話しかけてくる。
俳優でもしていそうな柔らかな、いい声が耳に心地いい。
歳は、三十歳前後だろうか。
大人の雰囲気を漂わせ、でも人懐っこい笑顔で、美香の警戒心を解こうとしている。
「あの・・・」
美香は首を横に振った。
「やはり、声かける人を間違えているのではないでしょうか。お花はお返しします」
「間違いではないですよ。ケーキをあんなに美味しそうに食べるあなたがとても素敵だと惹かれたのです」
「・・・」
「お気にさわったのなら、お詫びします。少しお話しませんか・・・。できることなら食事に誘いたいところだよ」
男性の言葉を、どこか人ごとのように聞いていた。
その瞳は澄んで、悪い人には見えなかったが。
「私ではなく、どなたか、もっと素敵な人にお声をかけてください」
もう、ここを出たら、会うこともない人だ。
そんな人の気まぐれにつきあっていられるほど、暇じゃない。
正確には、余裕がない。
「あなたは素敵ですよ」
歯が浮きそうな言葉をさらりと言う。
けれど、美香の心には響かなかった。
「失礼します」
お辞儀をして、さっさと背を向けた。
会計を済ませると、逃げるようにホテルを後にしたのだった。
「ねえ、どうだった?」
会社に行くと、るみが待ちきれないといったふうに前のめりになっている。
お昼に詳しい話をすると、るみがみるみる不機嫌になり怒りだした。
それは、声をかけた男性にではなく、美香に向けられたものだった。
「せっかく誘ってくださったのに、どうして断ってしまうの? もったいない」
「だって・・・からかわれてるに決まってるでしょ。そんなの腹立つし」
「名前も聞かなかったの?」
「もう会わない人の名前を聞いてどうするの?」
「美香って、全然欲がないんだから。もっと、いい男捕まえるんだと言う意気込みが必要よ」
「もういいって言ってるでしょ。男なんて。男を捕まえるために東京まで行ったんじゃないから」
「ああ、美香ったら信じられない」
「普段美人ばっかり相手してるから、珍しかったんじゃないの?」
るみに怒られても、美香は後悔していなかった。
目的はそこじゃない。
「で、どうなの? またやりたいと思った?」
「うー・・・今は無理。でも痩せるのは確かだと思う。緊張して食欲があんまりないのよね」
紛れもなく夢ではない体験は、チョコレートケーキと一緒に美香の中に消えずに残り、一本のバラが心の中で枯れることはなかったのだ。
口の中で、いろんなチョコレートが溶け合い、香り高いカカオが鼻に抜ける。
ほろ苦く大人の味で、くせになりそうな絶妙な苦味に唸ってしまう。
「美味しい~~幸せ~~」
とろけそうな顔になっていることだろう。
このまま死んでもきっと後悔しないと思う。
紅茶も最高だった。こんなに美味しい紅茶は飲んだことがなかった。
世の中には、美香が味わったことのない美味しいものが溢れている。
その一端を味わうことが、今日できたのだ。
こんな贅沢は、頻繁にできるものではなかった。
また食べたいと思っても、このチョコレートケーキには、交通費も含めれば、ゆうに数万ものお金がかかっているのだった。
ちなみにホテルに泊まろうとすれば、美香の1ヶ月分のお給料でも足りないお金がかかる。
一生足を踏み入れられないかもしれない世界に、今、美香はいるのだ。
もう一生分の贅沢をしたような気分になり、お腹がいっぱいになった。
写真も撮ったし、用事は済んだ。
さて・・・。
帰るとしましょうか。
なぜか、寂しい気持ちになる。
こんなところでお茶ができるような女になりたいと思ったのだったが、今の自分とのギャップに。打ちのめされたような気がした。
誰かと一緒だと、話に夢中になり、あまり気にならなかったかもしれない。
一人でいると、自分がよく見えてしまう。
自分と向き合うとは、こんな感じなのか。
夢ではなくて、実際に体験すると、自分の立ち位置が明確になってしまうのだ。
王子様が近づいてきた。
「お茶のおかわりはいかがですか」
お皿を下げながら訊いてくる。
「いいえ。大丈夫です」
「かしこまりました」
ふわりと微笑すると、客に呼ばれて用を聞きに行った。
その様子を見るともなしに眺めていた。
さすがに高級ホテルだけあって、働く人も客も異世界の住人かと思うほどにおしゃれで美しい。
今まで目に入ってこなかったが、王子様を呼んだのは、男性で、スラックスにセーターとラフな格好だが、高級感があり、そのまとう空気も、美香とは明らかに住む世界が違うとわかる。
王子様と何か話している。
こちらは、少し年嵩の王太子といったところか。
別れたクズ男など、一瞬で消し飛ぶほどの存在感がまぶしくて、目をそらした。
王子様がまた近づいてきた。
「あちらのお客様からです」
と笑顔とともに差し出されたのは、一本の赤いバラだった。
「へ?」
変な声が出てしまい、口元を隠した。
「私、ですか? 何かの間違いでは・・・」
「いいえ。あなたにですよ」
「・・・」
差し出されたものを受け取らないのも失礼だと思い、とりあえず受け取った。
「もし、お時間があれば、ご一緒にお茶しませんか、とおっしゃられています」
誘われてる?
人を間に立たせるところが、なんともこなれている。
お金持ちの気まぐれ?
美香は立ち上がると、バラをくれたという男性のそばまで行った。
自分でも不思議なほど落ち着いていた。
いや、落ち着いているというよりも、そうしないほうが落ち着かなかったのだ。
「あの・・・」
唾を飲み込んだ。
目は、その男性を見つめているのだが、周りからも注目されているのがわかる。
「きてくれて嬉しいよ。どうぞ、座って」
初対面なのに、気さくに話しかけてくる。
俳優でもしていそうな柔らかな、いい声が耳に心地いい。
歳は、三十歳前後だろうか。
大人の雰囲気を漂わせ、でも人懐っこい笑顔で、美香の警戒心を解こうとしている。
「あの・・・」
美香は首を横に振った。
「やはり、声かける人を間違えているのではないでしょうか。お花はお返しします」
「間違いではないですよ。ケーキをあんなに美味しそうに食べるあなたがとても素敵だと惹かれたのです」
「・・・」
「お気にさわったのなら、お詫びします。少しお話しませんか・・・。できることなら食事に誘いたいところだよ」
男性の言葉を、どこか人ごとのように聞いていた。
その瞳は澄んで、悪い人には見えなかったが。
「私ではなく、どなたか、もっと素敵な人にお声をかけてください」
もう、ここを出たら、会うこともない人だ。
そんな人の気まぐれにつきあっていられるほど、暇じゃない。
正確には、余裕がない。
「あなたは素敵ですよ」
歯が浮きそうな言葉をさらりと言う。
けれど、美香の心には響かなかった。
「失礼します」
お辞儀をして、さっさと背を向けた。
会計を済ませると、逃げるようにホテルを後にしたのだった。
「ねえ、どうだった?」
会社に行くと、るみが待ちきれないといったふうに前のめりになっている。
お昼に詳しい話をすると、るみがみるみる不機嫌になり怒りだした。
それは、声をかけた男性にではなく、美香に向けられたものだった。
「せっかく誘ってくださったのに、どうして断ってしまうの? もったいない」
「だって・・・からかわれてるに決まってるでしょ。そんなの腹立つし」
「名前も聞かなかったの?」
「もう会わない人の名前を聞いてどうするの?」
「美香って、全然欲がないんだから。もっと、いい男捕まえるんだと言う意気込みが必要よ」
「もういいって言ってるでしょ。男なんて。男を捕まえるために東京まで行ったんじゃないから」
「ああ、美香ったら信じられない」
「普段美人ばっかり相手してるから、珍しかったんじゃないの?」
るみに怒られても、美香は後悔していなかった。
目的はそこじゃない。
「で、どうなの? またやりたいと思った?」
「うー・・・今は無理。でも痩せるのは確かだと思う。緊張して食欲があんまりないのよね」
紛れもなく夢ではない体験は、チョコレートケーキと一緒に美香の中に消えずに残り、一本のバラが心の中で枯れることはなかったのだ。
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