呪染 〜短編総集編〜

風丘春稀

文字の大きさ
上 下
6 / 11
写真

【六】因果

しおりを挟む


「こんにちは、真紀江まきえさん。初めまして。石嶋悠子と申します。すみません。急にお邪魔するなんて言ってしまって……」
「悠子ちゃん。いいのいいの。さぁ、上がってちょうだい。ずっと会うの楽しみにしてたのよ」
 義母は悠子をリビングに通し、颯爽と台所に向かいもう一つ湯呑みと茶菓子を取って戻ってきた。和也は上辺だけの義母の言葉に困惑していた。本当は会いたくないと言っていたはずだが、本心を見せないように振る舞うだけで精一杯だったのであろう。義母の顔つきがいつもと違っていたので、それは明白であった。
「悠子さん、こんにちは」
「あ、こんにちは……」
 和也は義母と同様にやや強張った面持ちで悠子に挨拶した。悠子はそのぎこちない態度を汲み取ったのか、あまり和也と目線を合わせようとしなかった。挨拶が済むと悠子は義母と向かい合わせに座り、目の前に出されたお茶を一口啜るとしばらくの間沈黙が続いた。
 義母は彼女が喋り始める瞬間を待っているのか、落ち着きなく週刊雑誌をパラパラと捲っていた。その間、和也は仏壇に線香をあげ真悠に手を合わせていた。真悠の遺影が義母の父母と並ぶこともなく、ただ宙を見つめ彼女の顔を二十四年前の記憶の彼方から呼び覚ます。
 客人が来ているのにも関わらず、あまり言葉を交わそうとしない義母を見ると、些か悠子に対して良い印象は抱いていないのだろう。目の前に立っている女は、離婚して出て行った父親の再婚相手の子供なのだから。
 悠子が義母と初めて会う光景を真悠は見ているのだろうか。いくら腹違いの妹とはいえ、真悠はそんなことで人を嫌いになるような性格ではない。緊張でしどろもどろしている悠子をきっと空の上から応援しているに違いない。
 悠子は膝の上モジモジさせていた両手をちゃぶ台に乗せ、指を組んだ。ようやく心の整理がついたようだ。彼女は目線をほんの少し下げると、目を瞑って呼吸を整えた。そして、静かに目を開く。
「あの……えっと、お話しすることがいっぱいありすぎて、うまく整理できなくてごめんなさい。まず、和也さんにも説明してなかったことがあって、何で真紀江さんとお宅にお邪魔しようと思ったのか経緯をお話しすると……」
 悠子は緊張が解れてきたのか、ここに訪れるまでに起きた出来事を簡潔に話し始めた。悠子はブローチが入った変色した紙袋を黒い英字が書かれたクリーム色の手提げ袋から出し、義母に向かって差し出した。
「このブローチを送り返してきたの、真紀江さんですよね? 名前が書いてありました。これを返そうと思って。父は、手紙を見て急に態度を変えました。その次の日には、服も何もなくなってて。手紙とブローチは家に置き去りにされたままでした。真紀江さんは、何でこれを送ってきたのかなって……」
 事の発端はまだ彼女が小学校に入学する前のこと。父親が急に失踪し、母親が捜索願いを出していた。探偵の調査の結果、以前義母が住んでいた戸建てに辿り着いたという。だが、その時既に義母と真悠は退去しており、その家は売りに出されていた。前妻の存在にショックを受けた母親はそれ以上の詮索を辞めたという。ところが、母親はそれから半年の間、再び父親と連絡を取り合っていたのだという。向こうから何度も復縁を持ちかけてられていたが、話し合った結果全て拒否したのだという。
「そう……。元々、そのブローチはあの人たち物だったからね。まるで私から送られてきたブローチを見て逃げるようにいなくなったって感じね」
 義母は雑誌を閉じて、半分ため息混じりに話した。そして、冷静に悠子に質問を返す。
「それ、触ったんでしょ? 何か変わったことは?」
 まるで皿を割った子供を咎める母親のような顔で悠子の瞳を見ていた。悠子の瞳からは、恐怖からなのか、それとも思い当たる節があるからなのか、うっすらと涙が浮かび上がっていた。
「あるのね?」
 義母の問いかけに、悠子はゆっくりと頷いた。
「母親は見たくないと言って開けなかったんです。手紙も読んでません。なので、その中身の物は私しか触ってません。数週間前に父が亡くなって、遺品を整理するために実家に帰りました。その晩から、あのブローチがあった物置部屋から夜な夜な聞こえるんです、壁を引っ掻くような音。その日からもう怖くなって、あの部屋に近寄らなくなりました。部屋に近づいた途端、空気がすごく澱んでるような……息苦しい……そんな感じがしました。それで……翌朝に鏡を見たら……」
「鏡……だって? 悠子さんも、鏡が苦手なのか?」
 和也は目を丸くして悠子の顔を見つめた。真悠も最初に出会った頃は鏡を怖がっていた。
「今はもう、一度も見れなくなりました。顔が……顔が、すごい傷だらけになってて……。怖くて、もう……見られないんです」
「思い出させてしまって申し訳ないんだけど、生前真悠も鏡を怖がってたんだ。どういう感じだったのかもう少し詳しく教えてくれないか? できる範囲でいいから……」
 悠子は涙を流しながらその時の様子を説明した。もしかしたら真悠も彼女と同じ経験をしたのかもしれない。フラッシュバックさせてしまうのを覚悟して、当時の状況を事細かに聞き出した。
「分かりました、大丈夫です……。あの時……無数の切り傷があって、顔全体が真っ赤に血だらけになってて……。でも、自分で顔を触っても違和感はないんです。それが写っているのは、鏡だけだったんです。でも、写ってるものは生々しくて……うっ……ごめんなさい……。お手洗い、ありますか?」
「ごめんなさい……無理させてしまって……。廊下の左側にあります。あ、鏡があるので見ないようにしてくださいね」
「すみません……」
 あの顔がフラッシュバックし、吐き気を催した悠子はよろよろと立ち上がりトイレに駆け込んだ。
「やっぱり聞くんじゃなかった……」
 想像するだけで、それがどんなに悲惨なものか分かる。だが、職業が写真家である故に、写真ではどのように写るのか知りたい自分もいた。
 しばらくして悠子が真っ青になった顔で戻ってきた。力なく座布団に座り込み、軽く咳き込む。
「ごめんなさい、悠子さん。僕が変なこと聞いてしまったせいで……」
「いいんです……。和也さんも、知りたいんですよね? 真悠さんがなぜ鏡を怖がっていたのか……。私と、同じだったんだと思います。もしそのブローチが元々真紀江さんの家にあったなら、真悠さんもきっと触ってるだろうと思ったんです。出てくるんですよ、あの日から……私の夢に、真悠さんが……。自分の顔を見られないんだって、よく話してて。私も同じだって……。私たちはいつか命を捨てて罪を償わなくちゃいけないって。私がそれを受け入れるまで、ずっと出てくるんですよ……ずっと同じことを言うんです。最近、あまり寝付けなくて……。私、どうすれば……」
 悠子の拳が花柄のワンピースの裾を掴み皺を作っていく。悠子の啜り泣く声が物静かなリビングに響き渡っていた。義母は顔を俯かせたまま、何も喋ることはなかった。
「私も死ぬんですかね……。真悠さんみたいに」
「それはないわ……。本当の真悠はあなたを助けたがってるのよ。夢の言葉だけに惑わされてはダメよ」
 義母は突如立ち上がり、悠子の隣に座り彼女の手を握りしめた。
「悠子ちゃん、ごめんなさい。私がもっと早く何とかしてあげていれば、真悠もあなたもこんなことにならずに済んだのに。本当は憎かった。あの人が別の人と再婚したのを知って……。真悠が死んだ後、本当はもうあの人と連絡を取るつもりは無かったのだけど、一応父親だからと思って十数年ぶりに電話越しで声を聞いた。そしたら、自分達のしたことを謝りたいって言ってきてね。でも、それから間も無くした頃だったわ。道路で意識を失ってるところを通行人が見つけてくれたみたいで。それから入退院を繰り返して……。本当はあの人も謝りたかったんだと思うわ。でも、私はまだあの人を許せる状態じゃないの。悠子ちゃんには悪いと思ってるわ。でも、あの人は悠子ちゃんにも辛い宿命を背負わせてしまった。あの人に代わって謝るわ。もう、謝って済むことじゃないけどね……。申し訳ないけど、このブローチは持って帰って頂戴。今の私にはどうすることもできないの」
 義母はそっとティッシュを悠子に差し出した。悠子は涙を流しながらそのブローチをバッグにしまう。
「分かりました……。ありがとう……ございます……。あの、これからお母さんって呼んでもいいですか? 私、もう身内がいないんです。母が死んでからずっとひとりで生きてきました。これから何が起きるか分からないから……せめて、家族って思える関係が欲しくて……。ずっと寂しくて……。だから、一度でもいいから会ってみようと思って。でも、別の母親の子供なんて、愛せないですよね?」
「何言ってるの、そんなことない。真悠もきっと怒らないわ。悠子ちゃん自身には何の罪もないの。真悠のように《因果》が原因だから。元を言えば、遠い先祖がやったことよ。でも、私には元に戻す方法がわからない。今まで何年もかけてこのブローチのことを調べてきて、ようやくその原因を見つけられたけど、因果を断ち切る方法までは見つからなくてね」
「僕が探してきます! 本家を探せば何か分かるはずです。僕も悠子さんを助けたいんです。真悠みたいに失いたくない」
「和也さん……」
 和也が立ち上がり義母の前に立った。義母は驚き口をぽかんと開けながら和也を見上げていた。
「気持ちは痛いくらい分かるわ。でも、本家に関してはまだ子孫がいるかどうか分からない。もう記録が抹消されてて存在しないの。私だって、図書館やら郷土博物館やらいろいろな場所に行ったわ。この周辺の地域の歴史も端から端まで調べた。でも、このブローチに関しては呪術師の神津という一族が作ったこと以外は何も残されていないの。ただ、悠子さんが持ってきたこのブローチのことが書かれていたのは救いだったけどね。少なくとも、これを誰にも渡さなければ良いこと」
「お義母さんが教室で出会ったお姉さん、まだご存命ですか?」
 和也は真実を知っていると思われる義母の夫の姉に望みを賭けていた。
「どうだかねぇ……。引っ越してなければいいけど、前の連絡先があったような気がするわ」
 義母は裁縫道具や小物がたくさん入った戸棚を開き、木製の小棚から電話帳を引っ張り出してきた。ページをペラペラとめくると、ある場所で手を止めた。
「あ、これだ! 最後に連絡したのはかなり昔だけど、してみる価値はある。私も気になってたの。彼女があのブローチに触っているなら、同じ因果を持ってるはずよ。だから、生きてるかどうかがわからないのだけど」
「やってみます」
 和也は悠子と目を見合わせ、悠子は軽く頷き和也の手助けをする決心をした。時計を見ると午後五時を回っている。生きていれば七十代前半の義母より数年歳上であろう。この時間帯に高齢者が外を出歩く可能性は少ない。また娘や息子がいれば、彼らと同居していることもあり得る。
「プルルルル、プルルルル」
 スピーカーモードにしたスマホの呼び出し音が耳に入る。確かに繋がっている。本人が出るか、はたまた別の人間が出るか。鼓動がゆっくりと激しくなり顔の火照りが始まる。電話越しでこんなに緊張することは滅多にない。
『はい、松本ですが……』
 若い女性のような声が聞こえた。松本。想定していた苗字ではない。神津の子孫は一般の家庭に嫁いでいたことを意味していた。
「あ、もしもし。神津真悠の夫の岩井和也と申しますが、神津さんのお姉さんにお話があって」
『ああ、ちょっと待ってくださいね。お母さん、真紀江さんのお宅から電話!』
 遠くのほうで誰かを呼ぶ声が聞こえる。
『ガサッ』 
 受話器を受け取る音が聞こえる。
『あ、もしもし? もしかして、真悠ちゃんの旦那さんかしら? 男の人って聞いたから』
「あ、はい。真悠の夫の和也です」
『あらまぁ、初めましてよね? 私、神津佐世子さよこと申します。慎二しんじが別れて以来関わりなかったですものね。真悠ちゃんのこと良く慎二から聞いてたの。真紀江ちゃん元気にしてる?』
「はい、元気にしてます。真悠のことも気にかけてくれて、ありがとうございます。あの、少し聞きたいことがあって電話したのですが、昔真紀江さんが手芸を習っていた時に、佐世子さんからブローチをもらったと聞いたんです。それ、佐世子さんも誰かからもらったものですか?」
 佐世子がしばらく沈黙する。恐らく記憶が曖昧ですぐには答えられないのだろう。
『ああ、あれは確か……お父さんの親族から使わないからって貰った物だったと思うわね……。デザインが蜘蛛だったから、私ちょっと蜘蛛苦手でね……。まだ綺麗だったし、小物好きな真紀江ちゃんにあげたのよ」
 父親の親族。恐らくそれが本家であろう。だが、佐世子は至って元気そうに見える。因果による現象はまだ起きていない。それとも、隠しているのだろうか。意を決して彼女に尋ねてみる。
「あの、そのブローチ貰ってから変わったことはなかったですか? 例えば……その……不幸があったとか」
『そうねぇ……貰った二週間後に転んで尾てい骨を骨折したぐらいかしら……。どうしてそんなこと聞くの? 何かあったの?』
 佐世子に大きな変化はない。だとしたら、その因果は真悠の代から始まったと考えられる。それまでに本家に何かあったのだろうか。
「あぁ……いえ、ちょっと気になったことがありましてね。ご親族に変わったことは?」
『あぁ、実はそのブローチをくださったご夫婦が不慮の事故で亡くなってねぇ……。葬式にも行ったらしいけど、顔も見せてくれないほどえらい事になってたらしいわ。私はその人たちに会ったこともなかったからよく分からないけど……。あ、そういえば、真悠ちゃんが赤ちゃんの時に一回だけ会ったことがあるんじゃない? 年に一、二回慎二と真紀江ちゃんが実家に帰ってくることがあって、その時にちょうどその夫婦が遊びに来たって話してくれたわ。何の用だったか知らないけど。でも、あの人たちが亡くなってからじゃなかったかしら……。あまり親族と関わらなくなったの』
「関わらなくなった?」
 和也が眉を顰めて聞き返す。悠子も会話が気になるのか、首を前に出して音声を聞いていた。
「それはつまり、どういうことです?」
『それが私もあまり詳しく知らないんだけどね……。お父さんは、夫婦が持ってきたブローチに対してあまり良い反応しなかったわ。お父さんが言うには、急にそれだけ持って実家に来たらしいの。随分昔に処分したはずなのにって言ってて、お父さんもの凄く焦ってたけど。本家で代々伝わる『家宝』だって言ってたわ。うちの家ってちょっと特殊な宗教やっててね。でも、ちょっとおかしいわよね。家宝を処分するって』
 特殊な宗教。店員の高橋の言葉が頭をよぎる。
『めっちゃ昔に蜘蛛を信仰してた村があったって聞いたことが……』
 高橋が言っていたのは「村」。ということは、その信仰は神津家だけに留まらないということだろうか。ただ、少なくともこの一族が信仰の中心となっていた可能性もあり得る。
「それって、もしかして蜘蛛とかですか?」
『あら、よく知ってるわねぇ。そうなのよ。だから私嫌いでねぇ~。なんであんなものを信仰したいと思うんだか。でも、うちだけじゃなかったらしいからね。その神様みたいなの信じてたの。村が一丸となって祀ってたんだけど、神津の力が衰えてくると足抜けする人たちが出てきてね。結局その信仰を今も守ってるのは旧神津家、いわゆる本家ね。その家内でも後に分断が起こったの。で、その分裂した神津家の子孫が私たち。私たちはとうの昔にその信仰は捨ててるから、それ以上のことはよく分からないわ。その夫婦も本家の末裔だったのよ。何か資料が残されていれば、もっと説明できるんだけどね』
 つまり要約するとこうだ。元々神津家の家宝として保管されていたブローチは処分されたはずだった。だが、何者かが何らかの手段を経て佐世子の親戚夫婦の手に渡った。そのブローチに接触した夫婦と当時赤ん坊だった真悠が接触し、『因果』が発生した。そして、真悠に鏡や写真を通して夫婦の死に顔が転写されたということだろうか。悠子はそのブローチに接触している父親、慎二の娘。そして、悠子自身もブローチに触れてしまった当事者。これで二人の因果が成立する。
 恐らくその夫婦が遭遇した事故というのは悲惨なものだったに違いない。もしそれで顔が酷い損傷を受けているということなら、葬式で顔を見せられないのも納得がいく。だが、不可解な点がある。何故その一家はブローチの呪いに影響されるようになったのか。本家の夫婦が分家に訪ねてきた理由は何なのか。そして、何故夫婦と関わっていない悠子が、負傷した顔を見てしまうようになったのか。何故義母はその『因果』に気づくことができたのか。普通ならば、事が起きてすぐさまこのブローチが関係しているとは考えないだろう。だが、彼女は真悠に異変を感じてからブローチについて調べている。
──元々ブローチに何かあることを知っていたのか?
 和也はゆっくりと隣に座る義母の顔を見る。彼女は明らかに狼狽えていた。神津家と直接血のつながりのない義母が、どうやってブローチが元凶である事を突き止めたのか。本人にしか知り得ないことを、彼女は何か隠している。
「ありがとうございます、佐世子さん。あとは、義母からゆっくりと話を聞きます。急に電話して変なこと聞いてしまってすみません」
『いいのよ、和也さん。また、今度は気軽に電話してちょうだいね。世間話でも何でもいいから。じゃ、またね』
『プー、プー』
 電話が切れたのを確認して、再び義母を見ると額に汗が浮かんでいた。
「お義母さん、本当は何でこうなってるのか知ってますよね」
 義母は和也の言葉を聞くと、大きくため息をついて俯いた。悠子は狐につままれたような感覚に陥り、義母と和也を交互に見ながら困惑していた。
しおりを挟む

処理中です...