青嵐なんて凪ぎ祓いたかった

瓊蜻

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第一話

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 教室に入ると、狂風のような喧騒が降りかかってきた。
 お腹の底から吐き出されるような豪快な笑い声。何かに張り合うように会話を回す声。喰い込むような甲高い相槌。
 息が詰まりそうになりながら、生絹すずし庵織いおりは自分の席へ向かう。少し先の床に視線を向けるように俯きがちに歩きながら、自分の席まで辿り着く。窓際から三番目の列の後ろから二番目の席に腰を下ろし、ようやく顔を上げる。
 すると、そんなはずはないのに、クラスメイト全員に見られているような錯覚を庵織は覚えた。
 いつもの癖で気にしすぎているだけと自分に言い聞かせるが、どのグループの人も断続的にちらちらと自分に視線を投げている。意識しなければわからない程度だったが、庵織はなぜか注目されていると確信する。
 次第に、あちこちで繰り広げられる会話の内容も自分に関することだと気がつく。自意識過剰も大概にしなよと自分に言い聞かせるも、それは冷静な自戒というより苦し紛れの逃避のように感じられた。なぜなら、もう疑いの余地がないほどに四方八方から自分についての噂が聞こえていたからだ。噂というよりも、陰口という表現の方が的確かもしれない。
 ぶわっと変な汗が出て、体が熱くなるように感じたと思いきや、全身が凍りついてしまったかのように強張り、その場から逃げることもできない。
 ふと、机の上に一台のウォークマンがあることに気づく。それは庵織の愛用している若竹色のウォークマンで、小学四年生の誕生日に母から貰ったものだ。
 なぜこんなところにあるのかという疑問は不思議なほど抱かずに、庵織は素早くそれを手に取ると、接続されている有線イヤホンを耳に押し込む。
 それだけでも少し気持ちが楽になる。
 しかし、今はそれだけでは足りない。
 とにかく心を鎮められる音楽に浸りたかった。自分一人のしずかな世界にいきたかった。
 ボタンを押し電源を入れると、お気に入りのインストゥルメンタルを厳選したプレイリスト画面を表示する。今一番聴きたい曲を考える余裕もなく、庵織はプレイリストをシャッフルする。
 でも、音楽は聴こえてこない。
 画面上の表示では再生されているのに、音量も十分なものに設定されているのに、何も聴こえてこない。
 その代わりに、遮りたいはずの周囲の人間の声がより一層耳に入り込んでくる。イヤホンを嵌めているだけでも音は多少抑えられるはずなのに、むしろイヤホンから直接出ているかのように話し声が増長されていく。庵織についてあれこれ思うところを言い合う話し声が。
 呼吸が苦しい。
 これ以上ここにいたらおかしくなってしまうと本能的に感じるが、ショックのせいか恐怖のせいかやはり体は動いてくれない。
 どうしようもなく机に突っ伏す。自分の両腕に深く深く顔を埋める。
 闇の中に入ると、あたりの誼譟が遠のいていく。
 それに付随するように、庵織自身の意識も遠のいていき——。
  

 雀のやわらかい囀りで、庵織はふと目を醒ました。
 カーテン越しとは思えないほど眩しい光が窓から差し込んでいる。その眩しさから逃れるように、庵織はおもむろに布団を被る。 
 寝惚けながらも少しずつ頭が回り始めると、その光が朝日であること、これまで夢を見ていたことが次第にわかってくる。
 しばらく前からほぼ毎日のことだった。もういつからかは忘れてしまったが、悪夢を見ない日の方が断然珍しい。
 大体の場合は今日のように、夢での体験があまりに強烈なせいで、それが全て幻覚だったと確信するまでに少し時間がかかる。
 そして夢だと実感するや否や、現実についての情報がさぁっと流れるように頭の中を巡る感覚も、いつものことだ。
 今日は、ゴールデンウィーク明け最初の登校日だ。
 途端に庵織は、全身を強い気怠さに包まれる。体も瞼も憂鬱感に押しつぶされてしまったかのようで、起き上がる体力どころか目を開ける気力すら湧いてこない。
 どちらが悪夢かわからないなどと情けないことを思いながらしばらくそのままかたまっていると、遠くから微かに音楽が聞こえてきた。祖母がラジオカセットに録音している、朝の体操の曲だ。  
 祖母がラジオ体操を始めたということは、時刻は六時半前後だろうか。
 庵織はこの音源を勝手に起床の目安の一つにしている。眠りの中にいるときには全く気づかない程度の音量なので目覚まし時計の代わりにはならないが、こうして目は覚めても未練がましく布団にくるまっているときには丁度いい起床のきっかけになる。
 祖母と二人暮らしの影響か庵織も朝は早い方なので、普段なら朝食を食べているか、余裕があれば一緒に体操をしているくらいの時間だ。いい加減起きないと遅刻してしまうので、祖母に心配をかけるわけにはいかないとやっとの思いで体を起こす。
 布団を畳んで部屋を出て、廊下を進んで洗面所へ向かう。洗顔と歯磨きをしてからお手洗いを済ませて居間へいくと、祖母はもう体操を終えたのか定位置の座布団に腰を下ろし、ラジオから流れる朝のニュース番組に耳を傾けながらのんびりお茶を飲んでいる。
「おばあちゃんおはよう」
 庵織が声をかけると、祖母はそちらを振り返り、
「おはよう庵織ちゃん」
と挨拶を返してくれる。
 朝ご飯いただくねー、と言って庵織が向かいのダイニングへ踵を返すと、そうだ今日から学校さ始まるんか、と言いながら祖母は立ちあがろうとする。
「あ、大丈夫大丈夫。僕自分で盛るよ」
 あらそうかぃというのんびりした返事とともに座り直す祖母を背に、庵織はダイニングへ入る。庵織はダイニングへ入る。
 庵織は祖母と二人暮らしをしている。庵織の両親は小学校三年生のときに離婚し、庵織を引き取った母は体が良くないため現在は入院している。
 今のこの生活に、庵織は十分満足していた。祖母は優しく明るくおおらかな人で、休日ずっと家にいても何も言われないし、よく笑うので根暗な庵織は元気をもらうことが多い。毎日顔を合わせても苦にならない数少ない人で、庵織は日々感謝していた。もちろん母とも一緒に暮らせるに越したことはないけれど。
 一通り料理を装って席に着き、いただきますと手を合わせる。
 今朝の献立は、鰆の照り焼きに菜の花のおひたし、凍み大根の煮物になめこのお味噌汁、そして舞茸の炊き込みご飯だ。庵織の好物ばかりで、どの料理も素材の旨味が引き出されていてこの上なく美味しい。ご飯を作るのが上手なのも、祖母のすごいところのひとつだ。 
 しっかりと味わいつつも、少し早めのペースでいただいいていく。 
 本当はもっと堪能したいけれど、壁時計の指し示す時刻は七時を回っていてあまり時間がない。それに、これから学校にいかなければならない時点で精神的余裕はないので、どちらにせよ平日の朝にリラックスして食事を摂ることを庵織は半ば諦めていた。
 それでも十分美味しくご飯をいただいて、ごちそうさまでしたと再び手を合わせると、食器を流しへ持っていく。弁当箱に朝食を軽く詰めて風呂敷で包み、自室へ戻って通学カバンの中にしまうと、洗面台で歯を磨く。
 再び部屋に戻って身支度を整えると、庵織は机の上に置いてあるウォークマンを手に取る。母から贈ってもらった若竹色のウォークマン。スマホでも音楽は聞けるが、家にいるときは大抵このウォークマンで音楽を楽しんでいる。
 一瞬先ほどの夢が頭をよぎりかけたがすぐに振り払い、ウォークマンを操作して今の気分に合った曲を探していく。
 庵織が普段聞く音楽はほとんどがインストゥルメンタル、歌詞のない曲だ。さらに言えばピアノ音楽が大半を占めている。曲調も偏っていて、切なくしんみりした雰囲気の音楽が大半で、あとは温かい癒し系の音楽が少しある。
 そんな庵織でも、こと学校に行く前の朝においては珍しく明るめの曲を聴く傾向にある。憂鬱さを少しでも紛らわすためという理由もあるが、ここでセンチメンタル系の音楽に聴き入ってしまうと、無防備な素の状態のままで人前に出ていく感覚がして漠然とした怖さがあった。
 そういうわけで、今朝も比較的爽やかな曲を選んで再生する。庵織が聴く曲では数少ない、普通に歌詞のある曲だ。そうはいっても歌詞はあまり覚えておらず、メロディーや曲調、歌い手の声色が好みだった。爽快だけれど激しさや賑やかさはなくて、旋律も歌声も潤った純水を思わせるような清潔感のある曲だ。 
 朝の陽の光を湛えた庭の木の葉や、近くを飛び交う雀をのんびり眺めながらその曲に聴き入っていると、庵織の体の中からなけなしの元気が少し湧いてきた。

 三分ちょっとで聴き終えると、ウォークマンを定位置に戻す。時計を見ると、結構いい時間になっていることに気づいた。          

 
 相変わらずラジオを聴きながらお茶をすすっている祖母にいってきますと一声かけて、玄関を出る。
 外はちょうどいいくらいの初夏のあたたかさで、青々と広がる晴れ空に小さな綿雲が一つ二つ浮かんでいる。庵織は表の道へ出ると、やや早足で坂を下り始めた。
 庵織の住む家は、住宅の集まる街から離れた山麓部にある。山と田んぼに挟まれた扇状地のような場所で、端的に言うと辺鄙なところだった。家から徒歩で十五分くらいの距離にローカル鉄道の駅があって、そこから七駅で高校の最寄り駅に到着する。乗り換えの必要もなく通学時間自体はそこまで長くはないのだが、田舎のため電車の本数が少なく、朝から時間に気を配らなくてはならない。
 道は車が一台ようやく通れるほどの幅で、やや勾配のある坂道だ。山を下るに連れその傾斜は緩やかになるけれど、帰りはこの若干の登りが地味にこたえる。微妙に距離のある最寄り駅に向かうのに庵織が自転車を使わない理由も、下校でこの登り坂に出くわすためだ。
 山の裾の部分から田園地帯へ入ると、針葉樹林に囲まれていた途端に視界が開けた。すぐそこに見えてきた駅に向かって、庵織は朝の畦道を歩んでいく。
 一面に水田が広がっていて、少し遠くに鉄塔群が連なり、その向こうに街並みが広がり、さらにその奥に山々が聳えている。通勤通学の時間帯というのにあたりに人影はほとんどなく、庵織はこの長閑な風景を一人占めできているような感覚がして、少し嬉しい気持ちになった。
 古めかしい木造の駅舎の前に着く。『おうち駅』と手書きで書かれた看板の文字は掠れていて、小さな家屋の中に壁に沿って取り付けられた木造の椅子には誰も腰掛けていない。人の気配のない駅員室の窓口の上にぽつんと掛けられた時計の針は、もう何年も前から微動だにしていないので、時刻は携帯で確認する。電車が来るまでまだ数分の余裕があった。
 改札という概念もないのでただ古屋を入ったのと反対側からで出ると、コンクリートの塊がひっそりと横に伸びているものがある。
 数段の階段を登り、樗駅のホームに上がる。電車の本数が少ないためかさすがに待つ人は庵織だけということもないが、大体いつもと同様の顔ぶれの数人が電車を待っていた。
 ホームに立つと眼前には田畑と鉄塔だけの穏やかな世界があって、いつもの景色の静けさや駅の閑けさに庵織は心が和らぐのを感じた。
 しばらくするとカンカンカンという踏切の警報音がどこかから聞こえ、線路の向こうから電車がやってきた。
 ホームに停車し、庵織のちょうど手前でドアが開く。降車する乗客がいないか一応確認して中へ乗り込むと、車内にはそれなりの数の人が乗っていた。会社員もいるが学生が多く、おそらくその大半が庵織と同じ高校に通っている生徒だろう。 
 先ほどまでの心の平穏はどこへやら、早速庵織は言いようのないしんどさを感じる。ゴールデンウィークのブランクが人混み耐性の無さを助長しているのか一瞬眩暈を覚えつつ、反対側の扉の前までいって一旦目を瞑る。こちら側の扉は庵織の降りる高校前駅まで一度も開かないので、とりあえずこのまま動く必要はなくなった。
 イヤホンで音楽を聴く気も起こらずただぼんやりと車窓の景色を眺めていると、次第に民家が増え、二十分ちょっとで目的地の『あまがさ高校前駅』に到着した。
 プシューというドアの開く音でくるりと反対側を振り返ると、いつの間にか周りは高校生ばかりだった。彼らに続くように駅のホームに降り、きちんと駅員さんのいる改札で定期をかざして駅の外に出る。
 そのまま人の流れに従うように、並木道の奥に佇む校舎に向かって歩を進める。「おう」とか「久しぶり」とか「誰だっけ」というような、連休明けにありがちな会話がそこかしこから聞こえてくる。万が一にでも顔見知りに話しかけられないよう、庵織は歩速を緩めて集団の後ろに下がった。
 この電車はホームルームに間に合う一番遅い電車で、何かしらの理由で遅延したり一本乗り遅れたりすれば遅刻はほぼ確約となるため、これを利用する生徒はそこまで多くない。すぐに背後には人の気配がなくなり、庵織は少しだけ肩の力を抜きつつ高校の門を潜った。
 下駄箱で外靴を学校指定のサンダルに履き替えていると、ホームルーム五分前を知らせる予鈴が鳴った。このペースなら十分間に合うので、さらにゆっくりと教室へ向かう。
 西棟の二階へ上がり、『2ー3』と書かれたプレートのかかった教室の後ろの扉を開ける。
 久しぶりの教室はやはり騒がしかった。もう大半のクラスメイトが来ているようで、担任の先生も教卓の椅子に腰掛けている。一応遅刻ではないか壁時計を確認しつつ、庵織は自分の席へ向かう。
 夢と同じ窓際から三番目の列の後ろから二番目の席の前で足を止めると、机の横のフックにカバンをかけて椅子に座る。
 しかし、当然と言えば当然だが、夢で見たように周囲の視線を感じることはない。現実ではむしろ誰一人として気にも留めないような存在なのだ。
 こういうときに軽く言葉を交わすような友達がいないのは慣れっこで、庵織はそれ自体は特に問題とは思っていないのだが、自分が浮いていたり孤立している様を客観的に見たときの惨めさのようなものが無性に辛いと感じてしまう。
 いや、惨めさという表現だけでは、その辛さを完全に言い表し切れてはいない。
 哀れさ、見窄らしさ、痛々しさ…。どれも似たようなものかもしれない。
 視点を客観ではなく主観に置き換えてみれば、劣等感や羞恥心、自己卑下のようになるのだろうか。どれも当てはまるけれど、こういう強い感覚は言葉でいくら説明してもどこか核をつけないところがある。
 とにかく、そういう状態を周りからどう思われているかということに、甚大な精神的苦痛を覚えるのだ。蔑みというのか、憐れみというのか、どう思われているの内容までは的確に言い表せないけれど。
 もちろん自分が自意識過剰なせいなのは重々承知しているのだが、それでもこういうものはもうその人の本能というか性というか、とにかく否定しても解消はできないどうしようもないもので——。
 
 キーンコーンカーンコーン。
 
 ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴る。
 担任の村主すぐり先生が軽く朝の挨拶をすると、連絡事項を伝え始めた。村主先生は、おっとりしているがあっさりした感じの中年女性教師で、全員起立して一斉に挨拶とか休み明けの特別長い導入トークなどもない。
 担任の淡々とした連絡が、庵織を徐々に現実に引き戻してくれた。
 連休明けの朝からこんな思い切り悲観的内省状態に陥いるなんて、しばらくこういう場所から解放されていた反動なのかなとぼんやり思っているうちに、手短なホームルームは終わっていた。
 少しの休憩時間ののち一限の英語が始まり、何事もなく四限の国語まで切り抜けた。
 昼休みに入ったことへの歓喜の声とともに、クラスメイトたちがグループごとに固まり始める。
 二年への進級とともにクラス替えをしてからまだ一ヶ月ほどしか経っていないが、すでに一緒に昼ご飯を食べる派閥は出来上がりつつあった。四十人もいるコミュニティの中で、この短期間に、ここまではっきりと仲間か否かの線引きをするなんて、クラスメイトたちの社会性というのか人付き合い力に庵織はただただ感服するしかなかった。
 庵織の席は比較的後ろの方の席で周りの視線もそこまで感じないので、教室で一人ランチタイムを堪能するには決して悪い環境ではないと思っていたが、残念ながらこの席は他のお昼ご飯派閥の陣地に入ってしまった。
 それも、この二年三組で最も恐れられている派閥の陣地に。
 その人たちは、いわゆるスクールカーストの最上位という感じの女子四人組で、他の女子グループはおろか男子の中でも一番積極的で騒がしいグループの人たちさえ怖がって近づけない雰囲気を纏っている。別に明らかに不良とか他派閥の人とは口を全く聞かないとかではないのだけれど、逆にそういうわかりやすい怖さではない分みんな本当に畏れのようなものを感じているようで、それはクラスの人間関係に疎い庵織でも容易に察しがつくほどだった。
 その方々の昼食会の席が、教室の六列あるうちの中央二列の後ろ二席、すなわち庵織の席を含めた四席なのだ。その四席のうち半分は元々彼女らのうち二名の席だし、庵織も別にそれほど教室の自席で食事を摂りたい訳でもなかったので、席を譲ること自体なんの不満もなく、むしろ当然のことのように思えた。
 そもそもよくよく考えてみれば、あの人たちは庵織に「席貸してもらっていい?」とか「どいてくれる?」とかそんなようなことは一度も言っていない。ただクラス替えしてすぐのある日のお昼時、庵織の席の後ろで「どこで食べるー?」と話していた彼女らの一人と目があって、その人が何か言いたそうにしているのを察した瞬間、「あっすみません」という謎の謝罪とともに庵織が勝手に席を退いたのだ。
 そういうわけで、今日も今日とて庵織は弁当と文庫本を持って席を立ち、すごすごと教室を出ると渡り廊下を通って西棟から特別棟へ移る。
 この繖高等学校の敷地内には、三階建ての南北に長く延びる棟が三つ並んでいる。西から西棟、特別棟、東棟と名付けられていて、棟と棟の間は各階から伸びる渡り廊下で繋がっている。西棟は別名教室棟というくらいで教室が集まっている棟で、各階にその階数に対応する学年の七クラスが配置されている。特別棟は理科室や音楽室、図書館や美術室、LL教室など特別な授業で使う部屋がある棟、東棟は職員室や校長室、事務室や保健室などがあり、比較的教員が多くいる棟となっている。
 庵織はそのまま特別棟の二階を通りすぎ、再び渡り廊下を通って東棟へ入ると、数学科準備室や社会科準備室の前を通り過ぎ階段で三階へ上がる。そのままフロアの隅へ歩いていくと、目的地の『学習室3』の前で足を止めた。
 『学習室』は自習など様々な用途で使える空き教室で、校内に3つある。誰でも利用可能ということで、特別棟にある2つの学習室は大抵人がいるが、この『学習室3』は例外的にほぼ人が寄りつかない。教室棟から一番離れている棟の最上階の奥でアクセスが悪いことも理由の一つだが、そもそもこの棟の三階に生徒が立ち入る機会もあまりないので認識している学生すら少ないと思われる。
 こんな穴場を発見して毎日わざわざ教室棟から通い詰める生徒なんて、相当教室に居づらくてかつ部室など他に利用できる部屋を持たない者、つまり自分くらいだろうと庵織は思っていた。現にここを利用するようになってからこの方、まだ他の生徒と鉢合わせるような事態は起きていない。
 階段に近い前方のドアを開けると、庵織は『学習室3』へ入る。教室なら前のドアからなんてまず入らないが、誰もいないとわかっている以上、来た方から近い方の入り口から入ることに不思議はない。
 窓際の適当な席に弁当と本を置くと、まずは窓を開けて換気をする。いつものルーティーンを実施していると、ふと背後から妙な気配を感じた。
 これは、人間の気配だ。
 恐る恐る振り向くと、廊下側の一番後ろの席に一人の学生が座っていた。いつものように前側のドアから入室したので、ちょうど気づきにくい位置にいたのだ。
  しかし、同じ部屋に人がいるのはさすがに感知すべきだった。注意不足を猛省しても時すでに遅く、庵織と目があった相手も水筒を飲もうとしたまま硬直していた。
 そこにいたのは、ダークグレーのニットベストを着た男子生徒だった。
 その深い黒髪のマッシュヘアや、前髪に隠れそうになりながらも強く鋭い眼光を放つ切れ長の目に、庵織は見覚えがあった。
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