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救いの天井
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西園寺自室。
「――」
目が、覚める。
強烈な悪寒が全身を駆け回っていた。冷え切った汗は止まることなく、私の体を濡らし続けている。まるで質の悪い風邪を引いたみたい。
手のひらの感触を確かめる。
私の右手。
西園寺さんの手を掴んでる。
昨晩、繋いで眠ってくれた彼女の手。
――ぐっ、ぐっ、ぐっ。
ずっと、離さないでいると約束してくれた彼女の手。
――繰り返し、握りしめる。
人と触れ合えて嬉しいと、初めて感じさせてくれた彼女の手。
――縋るように、手放さないように。
その温かい手がどうして、今は。
私の体温しか感じさせないのか。
「―西園寺、さん」
夜は明けない。
私の視界を塗りつぶす黒は。
私の中に広がる極夜は。
彼女という灯りと?に往くには。
あまりに、昏すぎる。
「西園寺……さん」
生臭さが鼻を掠める。昨日と同じ匂い。解体してしまえば、男も女も変わらない。
手が握れるほどの距離でありながら、暗闇の向こうにいる彼女の顔は窺い知れない。
繰り返し呼びかける。反応を暫く待ってみるけれど、動きはない。次第に夜目が慣れてきて、彼女が私に背を向けてることがわかった。
大丈夫、大丈夫。だって、私はお願いしてない。
西園寺さんを殺してほしいなんて思っていない。
だから、殺されてるはずがない。
虚しかった。
自分に言い聞かせるために脳内を往来する戯言は、与えられた役目をまるで果たせてない。
彼女がどうなっているか。
とっくに私は、わかっていた、から。
どれだけ待っていても、もう仕方がない。
けれど、また彼女の声が聞きたくて。
泣きそうになってる私に、振り返って、『馬鹿ね』と微笑んで、髪を撫で付けて欲しくて。
――もう一度、口づけしてほしくて。
「愛理、ちゃん」
彼女の傍らにいたくて、彼女の手を引っ張ると、それが幽霊のように軽くて、左手首から先がなくな
「ひでえもんだな」
ゆいちゃんは苦々しげに西園寺さんの顔を覗き込んでいた。
「確かにやかましい女だったが、だからって口を刺すこたあねえよな」
「愛理ちゃん……いや、いやぁ……」
声が震える。呼吸がうまくできない。私は、切り取られた彼女の左手首に泣きすがっている。
昨日、私に重ねてくれた柔らかな手。初めて人の温度を感じさせてくれた暖かな左手。また温め返してもらいたくて、一生懸命握りしめているけれど、それはむしろ残された微かなぬくもりでさえ私の温度で塗り潰してしまうようだった。
「凶器は……口ん中に突っこまれてるナイフか」
舟橋先輩は出入り口のドア近くで縮こまっている。
けれど、ゆいちゃんと布瀬先輩はいやに冷静に、愛理ちゃんを観察していた。
信じられない。この二人には人間らしい感情がないのだろうか。人が死んでいるのに、まるで精肉を値踏みするみたいに愛理ちゃんにまとわりついている。まるでハイエナか、ハゲタカ。言葉を選ばなくていいなら、大きな蝿。同じ人間とは思えなくて、心底軽蔑した。前々からおかしいとは思ってたけど、あの二人はやっぱり狂ってる。
「知ってるよ、このナイフ。何年か前に世間を賑わした、通り魔事件で犯人が持ってたモデルだ。恐ろしい斬れ味で、人の肉や内臓なんかバターみたいに裂いてしまうらしい。きっと、富士田もこのナイフで……」
「それはどうかな」
ゆいちゃんはうなじにまで貫通しているナイフをずるりと引き抜いた。
唾液と血液とが混ざり合った粘液が、てらてらと光りながら刃の後を追い縋っていった。
「見ろよ」
ナイフの刃を口の裂傷に当てる。
「合わねえ気がしねえか。素人目だが……もうちっとデカイ刃物が使われてる気がする。例えば……」
「もういい! もういいんだよ、そういうの!」
爆竹を叩きつけたみたいな大声で、舟橋先輩がゆいちゃんの言葉を掻き消した。
「何で殺されたかとか、どうやって殺されたとか! どうでもいいだろ、そんなの! 美南あやめが西園寺愛理を殺した! それだけわかれば十分だろ!」
「違う!」
その場にいた三人が一斉に私を見た。美南あやめが、こんなに大きな声を出せることに自分で驚く。
「私は愛理ちゃんを殺してなんかいない!」
「で、でも、状況からして殺せるのは……」
萎んだ声で舟橋先輩が何か言っている。気圧されたのか、私相手に。一昨日の高圧ぶりはどこに行ったんだ。
「どうして私が愛理ちゃんを殺すんですか! 何が楽しくて愛理ちゃんを殺すんですか! 愛理ちゃんは私のことを好きって言ってくれました! こんなに汚れた私に、傍にいて良いって言ってくれたんですよ! やっと見つけた居場所だったんです! なら、どうして私が愛理ちゃんを殺すんですか? 生まれて初めて人を好きになれたのに! 生まれて初めて人に好きと言われたのに! 生まれて初めて人に触れられたいと思ったのに! 生まれて初めて人に触れたいと思ったのに! そんな人、どうして私が殺すんですか!」
感情が抑えきれなかった。ヒートアップしたせいで、後半部分は金切声になってしまっていた。きっと何を言ってるのかわからなかったと思う。
「出てって」
それは舟橋先輩だけに向けた言葉ではなかった。愛理ちゃんをモノみたいに扱う布瀬先輩もゆいちゃんも許せなかった。
「出てってよ!」
二人きりに、してほしかった。
布瀬自室。
布瀬祐介がカーテンを開けると、気持ちの良い朝日が差し込んできた。館で起こる凄惨な殺しとは不釣り合いな爽やかな陽光。
そういえば、昨日もこんな快晴だったな。
「なあ、布瀬。アイツ、マジでヤバイって……」
日差しの届かない薄暗がりに舟橋がいる。もともと?せぎすな男だったが、この二日間で拍車がかかった。別人のようにやつれ、眠れていないのかクマもできている。全体的に生気を感じさせないパーツの中、目だけはイヤに血走ってギラギラしていて、常に周囲を気にしているのだった。
「富士田はともかく、西園寺まで殺すなんて……。もう意味がわかんねえよ。アイツ、おかしくなっちまって、みんな殺す気なんだ……」
僕は、友達として、舟橋を心配してあげるべきだとわかっている。これでも、高校からの腐れ縁だ。
美南に怯える彼を見て、かわいそうとか、痛ましいとか、何か感じなくてはならない。
そう、美南だ。
美南、あやめ。
彼女は自分の中に澱を残していった。それがどういう種類のものなのかは、自分でもよくわからない。ただ、脳裏に鮮烈に焼き付いた光景が、壊れたビデオテープのように繰り返し再生されている。
切り落とされた手首を握り続ける美南あやめ。
譫言のように、西園寺の名を呼び続ける美南あやめ。
西園寺のために、普段の姿からは想像もできない苛烈な怒りを露わにする美南あやめ。
彼女の姿が僕の心を靄のように包み込んで離してくれない。
彼女を見て、自分が何を思っているのか、自分の気持ちなのにわからない。ただ、もやもやとした焦燥感が、ひたすらに僕の裡をくすぐっているのである。
「……施! ……い……布瀬! おい! 布瀬!」
そこでようやく僕は、舟橋が、泣き縋るように僕のシャツを掴んでいることに気付いた。
「頼むぜ……しっかりしてくれよ、布瀬! 布瀬祐介! もうおまえしかいないんだよ! おまえはちょっと変わってるとこはあるけどさ、基本まともだろ? おまえまでおかしくなったら、俺はもう誰も頼れないんだよ!」
「ごめん」
シャツを掴んでいた手を掴み、そっと下ろさせた。
「なんの話だっけ」
「だから……もう……! 美南をどうにかしないと俺たちの命がヤバいんだって! アイツ、夜になったらまた誰か殺すに決まってる。だからさ、ロープでふん縛るとかしようぜ。いくらサイコパスとはいえ、相手は女なんだ。俺たち二人がかりならどうにでもなる」
「そうすると、どうなる?」
「……は?」
「だから、縛ってどうするの。それに何の意味がある?」
「……縛ってどっかの部屋に閉じめておけば、俺たちは襲われないだろ……」
…………。
ああ、そうか。
少しだけ、わかった。
「ありがとう、舟橋」
「え……ああ? うん」
「なあ、舟橋」
「なんだよ」
「美南さんって怖いよな」
「怖いなんてもんじゃねえよ、アレは」
「彼女の姿を思い出すとさ、心臓がバクバクして、情けないことに泣いてしまいそうになるんだ。富士田の首を見てにやついてたの思い出すとさ、まだ身震いするんだよ。夜、ベッドの中でさ、次は僕かもしれないって考えると、どんだけ眠くても目が覚めちゃうんだ。神経が張り詰めて、眠るどころじゃなくなる」
「わかるよ。だから縛り上げようって……」
「つまり僕さ、四六時中、彼女のこと考えてる」
「……まあ、ある意味ではそういうことになるかもしれない」
「だからさ、考えていてほしいんだ、彼女にも。四六時中……僕のことを」
「……勘弁してくれよ、布瀬。おまえまでそんなわけわかんないこと言いだしちまったら……」
靄の正体はわからない。自分が何をするべきかもわからない。けれど、どこに行くべきかはおぼろげながらもわかった気がする。
「美南さんのところ、行ってくる」
僕の言葉を聞いた舟橋は何かを言いかけて、けれど、やめた。「一人じゃ危ない」とか「俺も行く」とか言おうとしたんだろうと、僕にはわかった。でも、きっと舟橋にもわかったんだ。
僕に、そんな言葉はもう届かないって。
そういうことを感じ取れるのが、腐れ縁という僕らの友情なんだろう。ずる賢くて、卑怯で、口調ばかり強い臆病者で。人間的には最底辺なのかもしれないけれど。確かに、彼は僕の友達だった。
そんな彼を置いて、僕は歩き出す。
罪悪感はある。できることなら舟橋のことだって助けてやりたい。でも、今の僕は自分のことで手いっぱいだった。だって。これは。きっと。これは。
西園寺自室。
愛理ちゃんの手首を抱え込んで、床に座り込んでいる。
「…………」
どれくらい時間が経ったのだろう。
窓の外を見ても、時間を計ることはできないので、部屋の時計を見た。お昼過ぎだった。まだ数時間しか経ってないのか。もう、流れる涙は枯れ果てて、喚くための体力も尽きているのに、まだそれだけしか経っていないのか。
視界が揺れる。徐々に狭まって掠れていく。思考にも靄がかかってきた。
……眠い。
力尽きた私の体は、なんと眠気を感じていた。情けない。私の慟哭は、ほんの数時間分の価値しかないのだと、言われているような気になった。
でも、都合が良いかもしれない。
私が眠ればきっと夢を見る。夢を見れば、きっとあの子に会う。私の影に。
そうしたら、もう終わりにしよう。誰かを殺させるのは終わりにしよう。もう誰も殺さないでくださいとお願いしよう。
布瀬先輩や舟橋先輩のことを忘れたわけじゃない。彼らに対して憐憫の情が生まれたなんてこともない。私の影が、愛理ちゃんを殺したことだって許せない。
ただ、単に、これ以上は。
たとえほんのわずかな刺激でも。
私の心が、持ちそうになかった。
……意識が途切れ途切れになり、無の間隔が長くなっていく。視界はとっくに闇の中。私は夢世界に落ちていった。
明晰夢。
私の来訪に気付いた着物の少女は、椅子に座ったまま顔だけを上げてこちらを見た。
「どうでしたか? 気に入ってくださいましたか」
そんな質問、答えてやる義理がない。少女から離れた場所に立って、私は問いかけた。
「……どうして殺したの? 私、殺してほしいなんて言いましたか? 好きな人だって、言いましたよね? あの人となら、夜明けが迎えられるんだって、言いましたよね? なのにどうして……」
消え入るような声を出すのが精いっぱいだった。ここが現実世界ならきっと彼女の耳には届かなかったろう。
「檀那さん、私は慣れてほしいのですよ。其の躰に相応しい振る舞いに。頑張って怒るのも、うわべだけの涙も、もうおやめなさい。人の振りをするのはおやめなさいな。ちぐはぐなのは苦しいだけでしょう。受け入れなさい、己は化け物であるのだと」
「化け物なのは……あなたの方じゃないですか。あなたは、殺しがしたいだけでしょう。楽しいんでしょ、殺人が。切り落とした首に、刻まれている絶望を見るのが、嬉しくて仕方ないんでしょ? あなたは、私を殺しの理由に使いたいだけ。決して、私の味方なんかじゃない。ええ、そうです。あなたの言うとおり、私は化け物ですよ。でも、それは体だけ。心は化け物じゃない。心は人間なんです」
「檀那さん、檀那さんが人間なら、私を殺さないと。化け物と人は決して相容れぬもの。
ほら、私を成敗しなくては。それが人の義務で御座います故」
少女が両手を広げると、ゆったりとした着物の袖が蝶の羽のように広がった。
「檀那さんになら、私はかまいませぬ」
……本当に、化け物。何でもかんでも、殺せば解決できると思ってる。そして、人を、いえ、生き物を殺すことに何の呵責も抱かない。
「……できるはずないでしょう。私は化け物じゃないって、言ったじゃないですか。人間はきっと、命のやり取りに耐えられないの。……お願いだからもうやめてください。もう、誰も殺さないでください。布瀬先輩のことも、舟橋先輩のことも、もういいんです。富士田くんが死んだときに、良くないことを考えたのは謝ります。でも。これ以上は、もう、私には耐えられない」
「…………」
少女が羽をたたむ。それを合図としたように、部屋を照らしていた蝋燭の火が消えた。心象の世界が、まったき黒に包まれた。
わかっている。私がこんなお願いしたところで、着物の少女の殺戮を止められる保証なんてないということを。愛理ちゃんを殺した時点で、この少女が私の恨みを借りずとも、享楽のためだけに人を殺せるなんてことはわかっている。でも、わかっていても、私にはこれしかできない。無力な人間に過ぎない私には、頼み込むことしかできない。
私はその場に正座する。そして、腰を曲げ、手と額を床についた。
「お願い……ですから」
じっと床を見つめ続けると。やがて上から声が降りてくる。
「そこまで仰せになるのであれば……殺人はもう取りやめましょう」
「え……?」
顔を上げると、着物の少女は床に膝をついて、私を見ていた。目線の高さを、できるだけ低くして。
「檀那さんが、そうまでして人で在りたいのであれば、化け物に変心なさらないのであれば、
私の殺人に意味など在りません。もちろん、私が愉しんでいたところも大いにあったことは否定しませんが、一応は檀那さんの為にしていたことで御座いますよ」
少女は私に手を差し出してくれたが……。腰から提げられた刀、その柄に、少女のもう一方の手が被せられているのが気になった。
「変わらないのなら、終わりにしましょう。檀那さ……を落と……て、其の躰を……てしまっ……終……たします。人……には余る代物で……か……」
微笑んでいた少女の顔がブレ始める。
ざざっ、ざざっ、ざざっ。
古いビデオテープの映像のように、崩れては戻り、戻っては崩れる。
「何……? 何が起きてるの?」
差し出されていた手が遠ざかっていく。いや、少女の姿が、小さな部屋が、私から滑るように離れていく。
「どうやらお客人に御座います」
パンパンと音がして。視界が三回フラッシュする。
頬に軽い衝撃を感じて。
わけもわからぬうちに、私の意識は現実世界に引き戻された。
「……は、ん?」
私の顔に何かが何度も当たっているのがわかる。誰かに叩かれているのだ。何が起きているのか、体が把握したがっていたせいで、思考が覚醒する前に、目が開いてしまう。
「……あ」
心臓が止まりそうになった。驚きのあまり息の吸い方誤り、喉で空気の塊がつっかえて、こひゅと変な声が出た。
「おはよう」
私の目の前に、しゃがみ込んでいたのは。同じくらいの高さの目線で、人のよさそうな笑顔を浮かべている男の人は。
布瀬祐介だった。
彼の手は、私の首に当てられている。それに気付いたとき、瞬く間に脳のリソースが圧迫されてしまった。私は、完封されてしまう。
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ。
なんで、この人が。よりにもよってこの人が。
なんでこんなときに、よりにもよってこんなときに。
今はダメだ。
この人はダメだ。
心が弱っている今、この人と一対一で顔を突き合せたら。
同じ空間に閉じ込められたら。
比喩でも何でもなく。
きっと、私は死んでしまう。
「はは、相変わらずだね。そんなに興奮しないでよ」
眠りに落ちる前と同じように、私の手には愛理ちゃんの手首がある。強く爪を食い込ませた。冷たいけれど、愛理ちゃんを感じられる。そうすることで、どうにか症状を過呼吸にとどめることができた。布瀬先輩もそれに気付いたらしく、視線が手首の上に落ちていた。
「夏場の生肉は腐りやすいんだ」
すっと彼は手をあげる。
骨ばった人差し指が、部屋の奥にある小さなボックスを指していた。
冷蔵庫だ。
意味に気付いた瞬間、このときほど、私は自分の命を危うんだことはない。目の前の男は、狂っているなどという言葉ではとても足りない、遥かにおぞましい、理解不能の何かだった。
かけられた言葉を弾くように、私は首を左右に振った。布瀬先輩はさして気にしていない風で、にこやかな笑顔のまま手を下ろした。あくまでそういう風を装って。
目が笑っていないという言い回しがある。一番近いのは多分それ。彼の目はちゃんと笑っていたから、厳密には違うのだけれど。それはきっと、何か一つ見落せば、そのまま悪いことに繋がるかもしれないと過敏になっていた私だからこそ気付けた、本当に些細な、言葉にすることが困難なほどに微妙な表情の機微だった。要は、先輩は、私の返事を面白く思ってないのだ。
「どうして?」
理由を聞く気なんて、微塵もないくせに。問答無用に、こちらの都合なんてお構いなしに、「手首を手放せ」と言っているくせに。
女の言葉なんて聞いていない。男の人とは、そういうものだ。
そんなことが頭の中いっぱいを埋め尽くしていたものだから、返答する余裕などあるはずがない。
「ねえ、西園寺さんって、どんな人?」
もっとも歯がガチガチとうるさい音を立てている状況では、そもそも言葉を発することが困難ではあったが。
「綺麗な人だとは思うよ。役者としての才能もあると思う。でも、それだけじゃないか。美南さんみたいな強烈な何かを持っているわけじゃない。優秀な普通の人だよ。ただの人間。
なのに、どうして、君は西園寺さんなんかに執着するの?」
彼は、左手で私の?に触れ、右手を私の手の上に被せてきた。大きな手が私に触れた瞬間、ヤスデのような怖気が全身を這いまわる。
「だからなのかな。君が西園寺さんの名を呼んでいると、不安になる。あんなにつまらない人間に引っかかってほしくないって、思うのかな」
もう、その時には。
私は諦めていた。
忌むべき豊かな経験から、これから自分の身に何が起きるか、わかっていた。
だから、せめて、想い人の手を最後まで握っていたいと思った。そうすれば、少しはマシになる気がしたから。
けれど、それは無理というもの。うまく力が入らなかったから。
恐怖に震えてしまって、指がまともに動かなかったのだ。まるで、何時間も真冬の寒さに晒されたかのような有様。力を入れようとがむしゃらになればなるほど、私の右手は強張って、結びつきを弱めていく。
だから、男の人は、私と愛理ちゃんの結びつきを、簡単に外してしまった。彼女の手は放られ、低い位置を滑るように飛んで遠くに行ってしまい、壁にぶつかって止まった。
「僕のことだけを見てよ」
それで、私は終わりです。
そこから先の記憶はプツンと切れてしまって、終わりなのです。
残っているのは、記憶と呼ぶにはあまりにあいまいな感覚。
行為の間、私はふわふわとした感覚に包まれて、少し離れた場所から、私の肉体を見守っていた、そんな気がしました。そう、ちょうど影の辺りから、私のことを傍観していたのです。その時には、もちろん他人事のような心持ちですから、肉体がどんなに汚されようと、まったくの無感動なのです。だから、どんな行為をされたかとかは、ほとんど覚えていませんけれど、こんな状態になるなんて、私の心はもう限界だなと考えていたのは覚えています。
ただ、やはり。私を押しのけて、引き裂いて、男の人が入ってくる瞬間だけは、心が体に引き戻されてしまうのでした。その不快感というもの、体を舐めまわされるとか、体液をすり込まれるとかよりも、遥かに抜けたものですから、私ごときの処世術では、どうにも耐え切れないのでした。
せっかく体得した逃避術も、一番苦しい時に、何の役にも立たないのです。
だから、次に意識が体に戻った時には、いつのまにか私の体はあちこち薄気味悪く滑っており、床に座り込む男の人の上に乗せられて、串刺しにされていたのでした。例えるなら、ちょうど椅子の背もたれに抱きついて座っているような具合です。椅子が揺れる度に、汗だらけの肌と肌がべたべたと触れ合うものですから、たまったものではありません。かと言って、何かできることがあるわけでもありませんから、童心に帰って、椅子の向こう側をぼんやりと眺めながら、ひたすら「早く終われ早く終われ」といつものように念じ続けることにしたのです。
ただ、この時は場所の悪いことに、向こう側には愛理ちゃんがいました。
ベッドに横たわり、こちらを見つめ続ける愛理ちゃんがいました。
一瞬、醜態を愛理ちゃんに見られていることに声を上げそうになりましたけれど、何か愛理ちゃんに妙な既視感を覚えて飲み込みました。
上下に揺れる世界の中、私は彼女を見つめ返します。
じっと見ていると、何やら鏡と向かい合ったような心待ちがしてくるではありませんか。
そのまましばらく見つめあって、私はその既視感の正体に気付きました。
同じ目をしていたのです。
つまり、私は愛理ちゃんと同じ目をしていて、それが既視感の正体だったのです。
それで、とても嬉しくなりました。
愛理ちゃんと同じになれてる自分を褒めてあげたかった。
『こっちに来なさい』
彼女の口は、横一文字に裂かれていましたが、それには微妙に角度が入っていたため、うっすらと笑ってくれているように見えました。まるで、私を歓迎してくれているように。待ってて、愛理ちゃん。私もすぐそっちに……。
そのとき、背もたれが私の視界を遮ると、口に張り付いてきました。椅子は、腕で私の頭をがっちりと固定し、ぬるぬるとした物体をねじ込んできます。座の串に一際大きな緊張が走ったあと、すぐにこの世で最も忌むべき時を迎えました。堪えきれずに体は震え、腹の底から呻き声が響いてしまいます。
そう間を置かずに、私は串刺し椅子から解放され、床の上に放り出されたのでした。
あれほど「早く終われ」と念じていたのに。経験上、これで終わりという確信があるけれど、今となっては、全部どうでもいい。
ただ、ひと言。
疲れた。
真っ暗な心の真ん中に、ただ一言がポツンと浮かんでいるのであります。
二番目に浮かんできた言葉は『ごめんなさい』でした。
本当は、これを一番最初に思い浮かべなければらなかったのに。
なぜならば、元はと言えば、全て私が悪いからです。そもそもにおいて、私はこの合宿が始まる前から汚れた存在ですから、男の人に捌け口にされたとしても仕方がないことだったのです。
例えばゴミ箱が目の前にあったらどうしますか。ゴミを捨てると思います。それと同じことです。
布瀬先輩も、舟橋先輩も、富士田くんも、当たり前のことをしただけですから、責められる謂れなどなかったのです。にも関わらず、逆恨みしてしまったものですから、布瀬先輩が怒るのは当然です。
ゴミ箱が、自分にゴミを入れられたと怒りだしたら、変でしょう。そんなゴミ箱、廃棄されても文句は言えません。ゴミ箱自体がゴミなのです。
だから、こうして打ち捨てられている私は、然るべき罰を受けたというのに過ぎないのです。むしろ、私という存在の卑しさに気付かせてくれた布瀬先輩には改めて感謝する筋合いでしょう。私が汚れてることを思い出させてくれてありがとう。私が化け物だってことも思い出させてくれてありがとう。
そして、もうそれがわかったから、嫌というほど身に染みたから。
だから、死のう。死んで、あの人の隣に行こう。
「……愛理ちゃん」
それで、また手を握ってもらえるのなら。また、口づけしてもらえるのなら。
こんな体で生き続けるより、ずっとマシ。
「そんなに、西園寺は良かった?」
頭上から降りかかる声に、答える気力はありません。
「抱いたんだろ、西園寺。だから、一晩でそんなに仲良くなったんだろ」
やはり、男の人の考えを私風情が理解できるようになる日は、生まれ変わってもきそうにありません。
「抱いてみれば――」
布瀬先輩は、床の上で脱力している私から離れ、ベッドに向かっていきました。
ギシとスプリングの軋む音が聞こえます。
「僕にも、わかるかな」
見間違いかと思いました。
目がおかしくなったのかと思いました。
けれども、それは間違いなく現実で。
お願いです。それだけはやめてください。
私の体には何をしてもいいですし、先輩の体にどんな奉仕もさせていただきます。
ですから、それだけは。
布瀬先輩は、微笑んで動かない愛理ちゃんの上に乗――。
そこで、ブレーカーが落ちたみたいに、私の視界はブラックアウトしました。
脳の処理能力がついに限界を迎え、視界をシャットアウトしたのだとわかりました。
今から起きることを予想して、これ以上の負荷を目から取り入れないように、防御機能を作動させたのです。
でも、それは一寸だけ遅かった。
予想させる余地を与えてしまった。
私の体はあまりに無能で。
どんどん音が遠くなる。
愛理ちゃんの苦悶を代弁するように呻くスプリングの声が小さくなっていく。
無能。
初めに微かでも耳に届いてしまったら意味がないのに。
こうなると、真っ黒な視界は、もはや逆効果です。
黒いスクリーンは、掻き立てる。
現実以上に凄惨な幻日を。
妄想こそが人間を恐怖させる最大の敵。
暗い昏い夜。
星ひとつない真っ黒な夜空。
明けることなく続く極夜。
「夜というものは――」
見上げて、つぶやく。
「あまりにも昏くて、圧し潰されそうになる」
「違いますよ、檀那さん」
横目で見る。
彼女がいるのはわかっていた。
「夜というものは――」
見上げて、答える。
「そんな風に人間には映りません。だって、月も星も輝いているではありませんか」ならば。
「私の頭上に広がる、この極夜は何」
今はもう、わかっていた。
「其処にひとつの明かりもないのなら」
でも、誰かの言葉を借りなければ。
「――それは、闇というものでしょう」
受けれ入れ、られそうに、ない。漆黒の帳。
最初からずっと続いていた夜。
「あなた、最初からわかっていたのね」
初めは明けると思っていた。私を物みたいに扱った三人を殺せば、あるいは愛理ちゃんのような灯りに縋れば、この夜は明けるのだと信じていた。
「ですから」
とんだ、勘違い。
「最初に、申し上げました」
思い出す。
彼女と初めて会った夜。
その、救済の言葉。
「一寸は諦めました。いずれ怪物になると踏んでいた檀那さんの心が、あまりに人に寄ろうとするものだから。しかし、今は、良い目になりました」
今の私の目は、愛理ちゃんと同じ目。
灰色の、目。
「では」
少女の手が動く。指が刀の柄に伸ばされる。
「まだ」
少女が行動を起こす前に、私は制止する。
私たちは似て非なる者。けれど、今ならば、彼女の考えていることが少しはわかる。
「もう、どうでも良いのではないのですか」
「そうね、どうでもいい。 復讐も、希望も、愛情も、友愛も。きっと、私の中の人心は全て砕けてしまった」
――けれど。
「それでも」
――否、だから。
「私は、化け物になります」
――アレは、生きてちゃいけない。
「彼を、殺めます」
着物の少女は目を伏せた。
「誰かのために人を殺すのであれば、そんなものは、とても――」
言葉の続きを、彼女は口にはしなかった。
布瀬自室。
僕の部屋からは、星がよく見えていた。布瀬祐介という男に空を見る趣味はない。生来、無感動な男だ。生まれてこの方、風景や動物に心動かされたことはない。
しかし、今宵ばかりは空を見上げようという心持ちになっていた。
虫の知らせというやつだろうか。僕は直感していた。
この夜が明けることはない。
自分は、生きて朝日を迎えることはないのだと。
たかが風景と言えど、これが見納めとなれば、さすがに感慨深い。無感動の男でも、この良き夜を目に焼き付けておこうという気持ちになるのだった。
「夜空というものはこんなにも美しいものだったんだな」
でも、きっと、今この夜空がこんなに美しいのは、僕の命が終わるからだけじゃない。僕の心に、感情を呼び起こしてくれた人がいたから。そうでなければ、どれだけ美しかろうと、そもそも感じることすらできないのだから。
振り向かずともわかった。
黒い窓ガラスに反射して。
彼女の姿は見えていた。
腰にかかりそうな長髪。
時代錯誤の着物。
そして、腰から提げている、きっと何人もの血を吸った刀。
全身に叩きつけられる、びりびりとした気迫。
生き物の本能が警鐘を鳴らし、総毛立つ。
不吉などという漠然とした言葉では足りない。
呪いなどというあやふやな言葉では不確かすぎる
これは、殺意。
こんなものに前の二人も曝されていたのだろうか。
だとしたら、無抵抗に殺されたとしても無理からぬこと。
心が正常に機能していれば、足がすくんで、声も出なくなってしまうだろうから。
心が欠けている自分ですら、こうして立っているのがやっとなのだ。
殺意が、ひと際、強くなる。
背後の重圧。深海のように昏く、孤独な闇。
足が震える。歯が鳴ってしまって、思うように発声できない。
それらを技術で押しとどめる。役者、布施祐介が今日まで培ってきたものを総動員させる。ここが、一世一代の大舞台なのだ。今、この瞬間だけは、とちるわけにはいかない。
「――僕という男は、」
語りかける。台詞を紡ぐ。
「誰かに愛されたことがなかった」
自分の命を狩る死神。着物を身にまとい、刀という鎌を手にした死神。いいや、死者への迎えということならば。もっと適切な呼び名がある。確かに彼女は恐ろしい。彼女の出現で、この部屋は暗黒に満たされた。のしかかる圧迫感は、割れるような頭痛を引き起こす。どれだけ必死に呼吸をしても、脳への酸素供給は決して追いつくことがない。まるで肺に穴が空いてしまったよう。ああ、ここは死の国か、あるいは地獄の最奥か。
けれど。
胸に手を当て、握りしめる。
この、恐怖でさえも、僕には。
布瀬祐介へもたらすもの、もたらしたものを考えれば。
彼女は。決して死神などではなく。
――きっと、天使だ。
左手首を一瞬、何かが掠めた。
ぼとりという音が先か、あるいは灼けるような痛みが先か。
「ぐうっ……!」
僕の左手は、床に落ちていた。
おびただしい量の血液が、蛇口をひねったように流れ出す。生き延びたかったわけではないが、脊髄反射で、右手は左手首を掴み、血を止めようと動いていた。
しかし、それすら叶わない。
ぞんという音がして、僕の右上腕の筋肉は、刀に貫かれていた。
ざく、ざく、ざく、ざく。
胸郭、腹部、右手指、臍部(さいぶ)。
刀の流れに一拍子遅れて、体の肉が飛んでいく。
彼女の動きは流麗にして、絶え間ない。月光を流し、閃く白刃、紅葉のように舞い散る赤、残影のようにはためく着物。月光の下、駒のように回り、蝶のように袖の羽をはためかせる。様々な舞台を見てきた布瀬だが、かくも美しい舞は見たことがない。死と黒と暗と闇と。深い絶望に、ずっと浸されていなければ、発祥させられない悲哀。まごうことなき、死者の剣舞。
下腿、大腿、肘、肩峰。
虫の標本にでもなった気分だった。
彼女は生き物の壊し方を、嬲り方を識っている。布瀬の脳が、否、脊髄が動けと部位に指令を出すよりも早く、先回りして、可動に必要な筋肉を破壊していく。特に喉の貫通は絶妙で、大声は出せないけれど、掠れ声くらいは出せるよう加減して肉を削いでいった。出血量からして、動脈を避けているのもわかる。
とても、美南あやめの所業とは思えない。いつもおどおどしていて、僕の下で固まっていたあの美南あやめには。
――だけど。
布瀬は、最初に手首を切られた個所から一歩も動くことができず、その場に崩れ落ちた。
ひゅー、ひゅー、ひゅー。
口ではなく、喉に開けられた穴で呼吸をするのは新鮮な体験だった。
――それでも。
……体中が痛い。
全身があげるエマージェンシー。
――彼女は美南あやめだ。そうでなければ。
……そういえば、親にぶたれたことも、なかったっけ。
ぼんやりと、そんなことを思い出した。
――僕にこれほどの殺意を叩きつけるはずがない。
――この殺意こそが、美南あやめの証明。
ずん。
残った手の甲を、刀が貫いていた。
ずん、ずん、ずん、ずん。
刺突が腕を伝って、芋虫のようにのろのろと肩まで上がってくる。喉が健在ならば、痛みに耐えきれず間違いなく絶叫していたと思う。脳は全身に懇願する。逃げろ、この苦痛から遠ざかれと泣きついてきている。けれど、筋肉の主要な部分を斬り飛ばすか穴空きかにされていた肉体は、激痛にびくびくと痙攣するのが限界だった。
彼女も、同じだったのだろうか。
僕に貫かれているときの彼女も。
こんな気持ちだったのだろうか。
今、僕は、彼女と一緒になれているのだろうか。
美南に貫かれるたび、僕の脳内は恐怖で塗り潰されていく。恐怖という感情は、よくない。とても暗くて、不安になるものだ。こんなものは、僅かも残さず、自分の中から取り除くべきである。
だけど。
それも、大事な感情で、感動だ。
今日まで、誰一人として、布瀬祐介の中に喚起できなかった気持ちだ。
ただ一人、美南あやめを除いて。
だから、昏くて、冷たくて、怖くても。
恐怖ですら、布瀬祐介にとっては愛おしい。
抱きしめて離したくない、自分の心の叫びだ。
美南あやめが僕に贈ってくれたかけがえのない宝物。
血で床を汚しながら、布瀬は思い返す。
無残に散らばった富士田の死体。
それを見て、妖しく笑う美南あやめ。
その時に感じた背筋の凍る恐怖。麻痺したように動かない足。全身を駆け巡った、死にたくないという感情。
そして、そのあとに彼女の口から出た
『素敵な夫婦になりましょうね』
プロポーズの言葉。
倒錯が交錯し、駆け巡った電流が、死んでいた感情の息を吹き返させる。
だから、きっとそのときなんだろう。
僕が、美南あやめに
――恋した瞬間は。
両腕がハチの巣になった。
痛みで気が遠くなる。でも、飛ぶわけにいかない。痛みなど、一瞬の幻。ならばこそ、噛み締める。ならばこそ、味わいつくさねばならない。
刀は、今度は爪先から進行を始める。僕に最大限の苦痛を与えるために、丁寧に僕を穴だらけにしていく。
――ああ、震える。
きっと、彼女は今、僕のことだけを見てくれている。
――ああ、うれしい。
僕は、今、こんなにも。
――愛されている。
そうだ。それでいい。そうしてほしい。
西園寺のことなんか見ないでいい。君が見るのは僕だけでいい。
僕だけで、君の心を独占したい。
傍らなんかで満足しない。僕は、いつまでも君の中にいたい。
足を刺し終え、剣先は腹上を這いだす。
美南の言葉を思い出す。西園寺の手首を抱えて、吐露した心中。
初めて人を好きになったと言った。
僕も初めて人を好きになった。
自分の中に芽生えたこれがなんなのか、最初はわからず戸惑った。彼女の気を引きたくて、多少強引なこともしてしまったと思う。手段を間違ったかもと後悔したりもした。
けれど、今、美南は僕の目の前にいる。彼女から、僕に向かって、強烈なアプローチをしかけてきている。ならば、結果として成功だったのだろう。
こうして、美南が僕に感情を向けて、僕の感情を喚起してくれるのなら。
それは、きっと両想いというやつなんだろうから。
刀が喉近くまで上ってきていた。
もう、刺すところが急所以外残っていない。楽しい時間というのは本当にあっという間だった。
目を開ける。もう、血液が足りていないのだろう。視界は黒い靄で縁取られ、ぼかしがかかり、ピントがあっていない。けれど、顎下の朧げな白光だけは、かろうじて確認できた。僕の顎は、刀の切っ先に乗せられていた。
ぐいと、持ち上げられ、自然、彼女を見上げる形になった。
闇がかかった彼女の顔は見えない。そうでなくても、見るだけの視力が、僕には、もう残っていない。けれど、彼女の意図はよくわかっていた。
最期に、言葉を残すチャンスをくれたのだ。
だから、喉を完全には潰さずにおいたのだ。
許されるのは、きっと一言。
それを言い終えた瞬間に、僕の首は、体に別れを告げるのだろう。
なあ、なんて言えばいい。
君はなんて言われれば嬉しい?
僕は。
どんな言葉をかければ。
ずっと、君の中にいられる――?
刃が少しだけ前進し、僕の喉に優しく刺さった。じわりと流れ出した血液が肌をゆっくりと滑っていく。本当なら、一晩かけてこの幸福な煩悶に身を預けたいところだったが、どうやらあまり猶予はくれないらしい。
だから、僕の心に浮かんだのは。
ああ、なんて陳腐な。
天才役者だなんてもてはやされ、数多の舞台をこなしてきた布瀬祐介のくせに。
何千、何万回と使い古された、その言葉しか浮かばない。
でも、残念ながら、その一言は、僕の感情を過不足なく、まこと的確に表してくれる。
そうか。だからこそ、この台詞は、悠久の時を経て生き残り続けているのだろう。
その気持ちがわかったのならば、僕はやっと、一人前の役者になれたのではないか。
妙な満足感に包まれながら、すう、と小さく息を吸い、その言葉を口にしようとした瞬間、
「――」
言葉ではない何かが口から飛び出した。
同時に、顎の筋肉が弛緩したみたいになって、口ががくりと開いてしまう。それっきり戻らない。僕は喋らなくちゃならないのに、口が開閉してくれない。
飛び出た何かは小さなものだった。
ぽとりと落ちた、赤黒い塊。
僕の舌だ。
口が開いたまま塞がらないのは、顎の筋肉が緩んだからではなく、切断されたからだった。
僕の口は横一閃に斬られていた。ちょうど、西園寺愛理と同じように。
混乱する。
今の一刀は僕の言葉を両断した。言わせない、という拒絶の意思が感じられた。何故? 確かに、彼女は僕の最後の言葉を聞こうとしていたはずなのに。この喉の傷の加減具合に、それ以外の意味はないのに。
喋らせたいけど言わせない……。この矛盾した乙女心はどう説明づければいい……?
……。
例えば、僕の言いたいことと、彼女の言ってほしいことが違っているのではないか。きっとそうだ。彼女の殺意からして、それしか考えられない。美南が聞きたいのは命乞い、謝罪、断末魔、きっとそういう類なんだ。僕に最大級の惨めを味わわせて、最底辺に悲惨な殺し方をしたいのだ。
なら、聞きたくないに決まってる。
僕の胸に芽生えたこの言葉。聞けば彼女は負けるのだ。そんな言葉を吐かせて逝かせてしまえば、彼女の復讐が全て無に帰してしまう。命のやり取りなど問題ではない。僕らはそんな低い次元で話をしていない。試合に勝って、勝負に負けてしまうから言わせないのだ。言わせる前に舌を斬り飛ばして、喋れなくしたんだ。
僕は……。
彼女を傷つけたくない。彼女が嫌がることはしたくない。
これでも、初恋の相手だから。初めて好きになった女の子だから。表現の仕方は歪でも、僕は彼女が好きだから。この気持ちに嘘はないから。
けれど、だからこそ。
抑えられない。
その台詞を口にした後の彼女の顔を思い浮かべるだけで、僕は昂(たかぶ)ってくる、だって、その一言を言うだけで、僕は、きっと。
――彼女の永遠になれる。
美南が刀を振り上げる。
もったいぶったように緩慢な動作だった。きっと、迫りくる死の恐怖を体現することで、最後の絶望を与えたいのだ。命乞いも、謝罪も。断末魔も引き出せなかった埋め合わせに。
本当に、かわいい女の子。
小さい体をいっぱいに使って、下手くそなりに頑張る子。
僕のことを好きで好きでたまらない恋する乙女。
初恋の相手が、君でよかった。
彼女は弛緩しきってる。勝利を確信して、油断しきっている。舌を落として、喉を潰せば、もう安心だと高を括っている。
僕が、舞台役者だなんてことも忘れて。
見上げる。
闇の向こうの彼女の顔はやはり判然としない。けど、いつだってそうだったろう。観客席の顔なんて、舞台から見えやしないんだから。
才能があるから、期待されているからと、ただ惰性で続けただけの演劇。小手先の表現技法だけ達者になって、肝心の僕の中は空虚なままだった演劇。こんなこと、続ける意味あるんだろうかと、何度も辞めかけた。僕の生きる目的や、夢中になれるものは他にあって、それを探したほうがいいんじゃないかって。
でも、そうじゃなかった。
正しかった。
ようやくわかったんだ。
僕が演劇を続けてた理由。
神が芝居の才能を賜した理由。
すべてはこの瞬間の為。
――彼女の為だけに。
彼女が気付く。
目が合った。
目が。
目は。
口なんかよりも、遥かに雄弁だ。
流水のようだった演武が静止する。それまで、無表情だった彼女の顔が崩れる。目が見開かれる。
満足が、充実が、全身に広がっていく。痛みなんか目じゃない。この支配感は、痛覚の電気信号なんか打ち消して余りある脳内麻薬。あやめは、やっぱり、僕のもの。
僕の好きにできる恋人。
振り下ろされるそれはもはや刀ではなくこん棒だった。引いて斬る、などという日本刀を扱う際の基本の技巧は、影すら残っていない。あるのはただ、感情の爆発。着物の少女の亡霊は跡形もなく消え去り、ただの美南あやめがそこにいた。
渾身の負け惜しみ。女のヒステリー。
まばゆい閃光に埋めつくされる。回転して部屋を飛んでいく折れた白刃が、僕の最期の光景。まるで西瓜割りみたいに、僕の頭は砕け散り、赤い果肉をまき散らした。
真黒。
墨をぶちまけたような部屋の中。
黒はこの合宿中で最も強い深まりを見せている。どこに足を踏み出せばいいかもわからない。その先に地面があるのかわからないから。踏み外せば、そのまま果てない奈落に落ちてしまいそう。
信じられない。
こんな深い闇が。
まもなく晴れるなんて。
「檀那さん」
横目で見る。
闇の中に浮かぶ着物の少女。
「復讐は何も生まないって、ホントね」
歯の間から漏れた笑いは自嘲。
「最後の最後まで、男の人には勝てなかったわ」
「怨嗟と恋心は、燃え上がるものですから。嫌いは好きのうちで御座いますし、泣き顔と笑い顔は、どちらも涙を浮かべます」
違いないと、小さく笑った。
「お二人はよく似ていて、よくお似合いでございました。幸せの中、逝かせてやるなんて、真、良き女房で御座いましたね」
――とても化け物の所業では御座いませぬ。
「……そうね」
執着を見せてはならなかったのだ。彼に、救いを与えてしまったから。私が彼を本当に嫌うのなら、心底憎むのなら、私は、彼を無視しなければならなかった、なのに、最後に、よりにもよって最期に、彼を殺そうとしたなんて。これでは、惚れているのと何も変わらない。勘違いされても文句を言える筋合いがない。何が楽しくて、アイツに恋しなければならないのか。恋というのは、もっと楽しくて明るくて甘酸っぱいものではないのか。最後の選択は間違いだったのだ。いいや、違う。間違いと言うのなら……。
「この館に来たのが、私の間違いだったのかな。あの夜、布瀬先輩に組み伏せられた時から」
あの夜のことがなければ。私が、演劇を頑張ろうとしなければ。
この合宿は、こんなに血みどろにならなかったのだろうか。
「檀那さん、間違いと言うのであれば―」
あ、この子……また言うつもりだな。
私の聞きたくない言葉。耳をふさいでも届いてしまう言葉を。
「その心の在り処からして、間違いでございます。化け物の器に、人心が合うはずがありません。その器は、元々私の居場所にございます。ですから、檀那さん、間違いというのなら、檀那さん」
――檀那さんが生まれたことこそ、間違いなのです。
「……私は、どうして生まれたの? この体があなたのものだというのなら、私の体はどこにあるの」
「何処にも。この館で起きたこと、すべて儀式でございます。彼らの身に起きた災いを辿っていたのです。闇に葬られたひと夏の出来事を書き出す旅路にございます。けれど、それも終着駅。檀那さん、貴女の役目は終わりです。檀那さんの心は、怪物を暴くためだけに作られたものなのですから」
「じゃあ、最初から死人も同じだったのね」
とんだ道化。でも、私にはお似合いの末路だ。十二の夜、パパに抱かれたときに私は死んだのだと思っていたけれど、まさか生まれたときに死んでいたとは。
なるほど、西園寺愛理は確かに救いにはならなかった。彼女の優しさは心に染みて、傷を癒してくれるような錯覚に陥らせたけど。所詮、偽りへ勘違い。決して、私の死を理解していたわけではない。西園寺愛理が生者である以上、西園寺愛理という薬は生者にだけ効くものだ。生者が死者を理解することは、決してない。
「……化け物なりに檀那さんには同情しております。ですから、機会はさしあげました。もし、化け物に変心できるのであれば、其の躰を貰っていただこうと。しかし、貴女の母が作った心は人に寄りすぎていた」
「……母か。そういえば、母親の記憶、全然ないや、私」
でも、寂しくなんてない。
母がいなくても、本当の理解者が目の前にいるから。
彼女は、最初の夜からずっと、私の中に居続けて、繰り返し繰り返し、真実を言い聞かせていた。
なぜこうも胸を抉るのか。
なぜこうも無情なのか。
真実はいつだって、痛みなくして心に届かない。
着物の少女。―私の、影。
いや、私こそがきっと、彼女の影。
「敬語、お辞めになったのですね」
「ええ、誰の顔色も窺わなくていいから」
ここで終わりだから。
少女は腰から提げた刀に手をかける。
「では、初夜の約束を果たしましょう」
鈴のように澄み渡った音が、長い尾を引いて闇に響く。鞘から刀が抜かれた音。
「殺してさしあげます」
それは始まりの夜に聞いた言葉。
二人、否、一人が出会った極夜の問いかけ。
弱すぎた私が、逃げ続けた質問。
その答えに。
すう、と眼を瞑る。
未練などない。
あろうはずがない。
この汚れた体に。
隅々まで侵された死体に。
一体何故、縋ろうと思っていた。
今更、何が惜しくて縋ろうとする。
遠回りにはなったけど。
私は今、ようやく、唯一の救済に至る。
「私は化け物でございますが、お約束いたします。弄ぶことなく、嬲ることなく、一刀の下、殺めること」
「化け物のくせにどうして人間に優しくするのかしら」
「其の心、人にすら成り切れねばこそ」
体を何かが掠めた。
一陣の風が通り過ぎた。
嘆息した。本物は、痛みなんて感じさせない。
やっぱり、私は大根役者だ。
私は、彼女の体から離れていく。
眼を瞑っていたのに、わかった。
私を覆う闇が祓われていく。
わかってる。
ただの終幕だなんてこと。
この闇は単なる舞台装置で、私の心の闇なんかじゃなかったってこと。
でも、救われる気がする。
だって、私がそう信じるのなら、これは、間違いなく私の闇だから。幼い頃から、ずっとまとわりついていた黒だから。
初めから救われようがなかった少女に。
ただ一つ許された、光の形。最後くらい自分勝手に縋らせてもらう。
「確に。旦那さんをお返しいただきました、檀那さん」
夜が明ける。
――其の心に残された、最後の極夜が。
「――」
目が、覚める。
強烈な悪寒が全身を駆け回っていた。冷え切った汗は止まることなく、私の体を濡らし続けている。まるで質の悪い風邪を引いたみたい。
手のひらの感触を確かめる。
私の右手。
西園寺さんの手を掴んでる。
昨晩、繋いで眠ってくれた彼女の手。
――ぐっ、ぐっ、ぐっ。
ずっと、離さないでいると約束してくれた彼女の手。
――繰り返し、握りしめる。
人と触れ合えて嬉しいと、初めて感じさせてくれた彼女の手。
――縋るように、手放さないように。
その温かい手がどうして、今は。
私の体温しか感じさせないのか。
「―西園寺、さん」
夜は明けない。
私の視界を塗りつぶす黒は。
私の中に広がる極夜は。
彼女という灯りと?に往くには。
あまりに、昏すぎる。
「西園寺……さん」
生臭さが鼻を掠める。昨日と同じ匂い。解体してしまえば、男も女も変わらない。
手が握れるほどの距離でありながら、暗闇の向こうにいる彼女の顔は窺い知れない。
繰り返し呼びかける。反応を暫く待ってみるけれど、動きはない。次第に夜目が慣れてきて、彼女が私に背を向けてることがわかった。
大丈夫、大丈夫。だって、私はお願いしてない。
西園寺さんを殺してほしいなんて思っていない。
だから、殺されてるはずがない。
虚しかった。
自分に言い聞かせるために脳内を往来する戯言は、与えられた役目をまるで果たせてない。
彼女がどうなっているか。
とっくに私は、わかっていた、から。
どれだけ待っていても、もう仕方がない。
けれど、また彼女の声が聞きたくて。
泣きそうになってる私に、振り返って、『馬鹿ね』と微笑んで、髪を撫で付けて欲しくて。
――もう一度、口づけしてほしくて。
「愛理、ちゃん」
彼女の傍らにいたくて、彼女の手を引っ張ると、それが幽霊のように軽くて、左手首から先がなくな
「ひでえもんだな」
ゆいちゃんは苦々しげに西園寺さんの顔を覗き込んでいた。
「確かにやかましい女だったが、だからって口を刺すこたあねえよな」
「愛理ちゃん……いや、いやぁ……」
声が震える。呼吸がうまくできない。私は、切り取られた彼女の左手首に泣きすがっている。
昨日、私に重ねてくれた柔らかな手。初めて人の温度を感じさせてくれた暖かな左手。また温め返してもらいたくて、一生懸命握りしめているけれど、それはむしろ残された微かなぬくもりでさえ私の温度で塗り潰してしまうようだった。
「凶器は……口ん中に突っこまれてるナイフか」
舟橋先輩は出入り口のドア近くで縮こまっている。
けれど、ゆいちゃんと布瀬先輩はいやに冷静に、愛理ちゃんを観察していた。
信じられない。この二人には人間らしい感情がないのだろうか。人が死んでいるのに、まるで精肉を値踏みするみたいに愛理ちゃんにまとわりついている。まるでハイエナか、ハゲタカ。言葉を選ばなくていいなら、大きな蝿。同じ人間とは思えなくて、心底軽蔑した。前々からおかしいとは思ってたけど、あの二人はやっぱり狂ってる。
「知ってるよ、このナイフ。何年か前に世間を賑わした、通り魔事件で犯人が持ってたモデルだ。恐ろしい斬れ味で、人の肉や内臓なんかバターみたいに裂いてしまうらしい。きっと、富士田もこのナイフで……」
「それはどうかな」
ゆいちゃんはうなじにまで貫通しているナイフをずるりと引き抜いた。
唾液と血液とが混ざり合った粘液が、てらてらと光りながら刃の後を追い縋っていった。
「見ろよ」
ナイフの刃を口の裂傷に当てる。
「合わねえ気がしねえか。素人目だが……もうちっとデカイ刃物が使われてる気がする。例えば……」
「もういい! もういいんだよ、そういうの!」
爆竹を叩きつけたみたいな大声で、舟橋先輩がゆいちゃんの言葉を掻き消した。
「何で殺されたかとか、どうやって殺されたとか! どうでもいいだろ、そんなの! 美南あやめが西園寺愛理を殺した! それだけわかれば十分だろ!」
「違う!」
その場にいた三人が一斉に私を見た。美南あやめが、こんなに大きな声を出せることに自分で驚く。
「私は愛理ちゃんを殺してなんかいない!」
「で、でも、状況からして殺せるのは……」
萎んだ声で舟橋先輩が何か言っている。気圧されたのか、私相手に。一昨日の高圧ぶりはどこに行ったんだ。
「どうして私が愛理ちゃんを殺すんですか! 何が楽しくて愛理ちゃんを殺すんですか! 愛理ちゃんは私のことを好きって言ってくれました! こんなに汚れた私に、傍にいて良いって言ってくれたんですよ! やっと見つけた居場所だったんです! なら、どうして私が愛理ちゃんを殺すんですか? 生まれて初めて人を好きになれたのに! 生まれて初めて人に好きと言われたのに! 生まれて初めて人に触れられたいと思ったのに! 生まれて初めて人に触れたいと思ったのに! そんな人、どうして私が殺すんですか!」
感情が抑えきれなかった。ヒートアップしたせいで、後半部分は金切声になってしまっていた。きっと何を言ってるのかわからなかったと思う。
「出てって」
それは舟橋先輩だけに向けた言葉ではなかった。愛理ちゃんをモノみたいに扱う布瀬先輩もゆいちゃんも許せなかった。
「出てってよ!」
二人きりに、してほしかった。
布瀬自室。
布瀬祐介がカーテンを開けると、気持ちの良い朝日が差し込んできた。館で起こる凄惨な殺しとは不釣り合いな爽やかな陽光。
そういえば、昨日もこんな快晴だったな。
「なあ、布瀬。アイツ、マジでヤバイって……」
日差しの届かない薄暗がりに舟橋がいる。もともと?せぎすな男だったが、この二日間で拍車がかかった。別人のようにやつれ、眠れていないのかクマもできている。全体的に生気を感じさせないパーツの中、目だけはイヤに血走ってギラギラしていて、常に周囲を気にしているのだった。
「富士田はともかく、西園寺まで殺すなんて……。もう意味がわかんねえよ。アイツ、おかしくなっちまって、みんな殺す気なんだ……」
僕は、友達として、舟橋を心配してあげるべきだとわかっている。これでも、高校からの腐れ縁だ。
美南に怯える彼を見て、かわいそうとか、痛ましいとか、何か感じなくてはならない。
そう、美南だ。
美南、あやめ。
彼女は自分の中に澱を残していった。それがどういう種類のものなのかは、自分でもよくわからない。ただ、脳裏に鮮烈に焼き付いた光景が、壊れたビデオテープのように繰り返し再生されている。
切り落とされた手首を握り続ける美南あやめ。
譫言のように、西園寺の名を呼び続ける美南あやめ。
西園寺のために、普段の姿からは想像もできない苛烈な怒りを露わにする美南あやめ。
彼女の姿が僕の心を靄のように包み込んで離してくれない。
彼女を見て、自分が何を思っているのか、自分の気持ちなのにわからない。ただ、もやもやとした焦燥感が、ひたすらに僕の裡をくすぐっているのである。
「……施! ……い……布瀬! おい! 布瀬!」
そこでようやく僕は、舟橋が、泣き縋るように僕のシャツを掴んでいることに気付いた。
「頼むぜ……しっかりしてくれよ、布瀬! 布瀬祐介! もうおまえしかいないんだよ! おまえはちょっと変わってるとこはあるけどさ、基本まともだろ? おまえまでおかしくなったら、俺はもう誰も頼れないんだよ!」
「ごめん」
シャツを掴んでいた手を掴み、そっと下ろさせた。
「なんの話だっけ」
「だから……もう……! 美南をどうにかしないと俺たちの命がヤバいんだって! アイツ、夜になったらまた誰か殺すに決まってる。だからさ、ロープでふん縛るとかしようぜ。いくらサイコパスとはいえ、相手は女なんだ。俺たち二人がかりならどうにでもなる」
「そうすると、どうなる?」
「……は?」
「だから、縛ってどうするの。それに何の意味がある?」
「……縛ってどっかの部屋に閉じめておけば、俺たちは襲われないだろ……」
…………。
ああ、そうか。
少しだけ、わかった。
「ありがとう、舟橋」
「え……ああ? うん」
「なあ、舟橋」
「なんだよ」
「美南さんって怖いよな」
「怖いなんてもんじゃねえよ、アレは」
「彼女の姿を思い出すとさ、心臓がバクバクして、情けないことに泣いてしまいそうになるんだ。富士田の首を見てにやついてたの思い出すとさ、まだ身震いするんだよ。夜、ベッドの中でさ、次は僕かもしれないって考えると、どんだけ眠くても目が覚めちゃうんだ。神経が張り詰めて、眠るどころじゃなくなる」
「わかるよ。だから縛り上げようって……」
「つまり僕さ、四六時中、彼女のこと考えてる」
「……まあ、ある意味ではそういうことになるかもしれない」
「だからさ、考えていてほしいんだ、彼女にも。四六時中……僕のことを」
「……勘弁してくれよ、布瀬。おまえまでそんなわけわかんないこと言いだしちまったら……」
靄の正体はわからない。自分が何をするべきかもわからない。けれど、どこに行くべきかはおぼろげながらもわかった気がする。
「美南さんのところ、行ってくる」
僕の言葉を聞いた舟橋は何かを言いかけて、けれど、やめた。「一人じゃ危ない」とか「俺も行く」とか言おうとしたんだろうと、僕にはわかった。でも、きっと舟橋にもわかったんだ。
僕に、そんな言葉はもう届かないって。
そういうことを感じ取れるのが、腐れ縁という僕らの友情なんだろう。ずる賢くて、卑怯で、口調ばかり強い臆病者で。人間的には最底辺なのかもしれないけれど。確かに、彼は僕の友達だった。
そんな彼を置いて、僕は歩き出す。
罪悪感はある。できることなら舟橋のことだって助けてやりたい。でも、今の僕は自分のことで手いっぱいだった。だって。これは。きっと。これは。
西園寺自室。
愛理ちゃんの手首を抱え込んで、床に座り込んでいる。
「…………」
どれくらい時間が経ったのだろう。
窓の外を見ても、時間を計ることはできないので、部屋の時計を見た。お昼過ぎだった。まだ数時間しか経ってないのか。もう、流れる涙は枯れ果てて、喚くための体力も尽きているのに、まだそれだけしか経っていないのか。
視界が揺れる。徐々に狭まって掠れていく。思考にも靄がかかってきた。
……眠い。
力尽きた私の体は、なんと眠気を感じていた。情けない。私の慟哭は、ほんの数時間分の価値しかないのだと、言われているような気になった。
でも、都合が良いかもしれない。
私が眠ればきっと夢を見る。夢を見れば、きっとあの子に会う。私の影に。
そうしたら、もう終わりにしよう。誰かを殺させるのは終わりにしよう。もう誰も殺さないでくださいとお願いしよう。
布瀬先輩や舟橋先輩のことを忘れたわけじゃない。彼らに対して憐憫の情が生まれたなんてこともない。私の影が、愛理ちゃんを殺したことだって許せない。
ただ、単に、これ以上は。
たとえほんのわずかな刺激でも。
私の心が、持ちそうになかった。
……意識が途切れ途切れになり、無の間隔が長くなっていく。視界はとっくに闇の中。私は夢世界に落ちていった。
明晰夢。
私の来訪に気付いた着物の少女は、椅子に座ったまま顔だけを上げてこちらを見た。
「どうでしたか? 気に入ってくださいましたか」
そんな質問、答えてやる義理がない。少女から離れた場所に立って、私は問いかけた。
「……どうして殺したの? 私、殺してほしいなんて言いましたか? 好きな人だって、言いましたよね? あの人となら、夜明けが迎えられるんだって、言いましたよね? なのにどうして……」
消え入るような声を出すのが精いっぱいだった。ここが現実世界ならきっと彼女の耳には届かなかったろう。
「檀那さん、私は慣れてほしいのですよ。其の躰に相応しい振る舞いに。頑張って怒るのも、うわべだけの涙も、もうおやめなさい。人の振りをするのはおやめなさいな。ちぐはぐなのは苦しいだけでしょう。受け入れなさい、己は化け物であるのだと」
「化け物なのは……あなたの方じゃないですか。あなたは、殺しがしたいだけでしょう。楽しいんでしょ、殺人が。切り落とした首に、刻まれている絶望を見るのが、嬉しくて仕方ないんでしょ? あなたは、私を殺しの理由に使いたいだけ。決して、私の味方なんかじゃない。ええ、そうです。あなたの言うとおり、私は化け物ですよ。でも、それは体だけ。心は化け物じゃない。心は人間なんです」
「檀那さん、檀那さんが人間なら、私を殺さないと。化け物と人は決して相容れぬもの。
ほら、私を成敗しなくては。それが人の義務で御座います故」
少女が両手を広げると、ゆったりとした着物の袖が蝶の羽のように広がった。
「檀那さんになら、私はかまいませぬ」
……本当に、化け物。何でもかんでも、殺せば解決できると思ってる。そして、人を、いえ、生き物を殺すことに何の呵責も抱かない。
「……できるはずないでしょう。私は化け物じゃないって、言ったじゃないですか。人間はきっと、命のやり取りに耐えられないの。……お願いだからもうやめてください。もう、誰も殺さないでください。布瀬先輩のことも、舟橋先輩のことも、もういいんです。富士田くんが死んだときに、良くないことを考えたのは謝ります。でも。これ以上は、もう、私には耐えられない」
「…………」
少女が羽をたたむ。それを合図としたように、部屋を照らしていた蝋燭の火が消えた。心象の世界が、まったき黒に包まれた。
わかっている。私がこんなお願いしたところで、着物の少女の殺戮を止められる保証なんてないということを。愛理ちゃんを殺した時点で、この少女が私の恨みを借りずとも、享楽のためだけに人を殺せるなんてことはわかっている。でも、わかっていても、私にはこれしかできない。無力な人間に過ぎない私には、頼み込むことしかできない。
私はその場に正座する。そして、腰を曲げ、手と額を床についた。
「お願い……ですから」
じっと床を見つめ続けると。やがて上から声が降りてくる。
「そこまで仰せになるのであれば……殺人はもう取りやめましょう」
「え……?」
顔を上げると、着物の少女は床に膝をついて、私を見ていた。目線の高さを、できるだけ低くして。
「檀那さんが、そうまでして人で在りたいのであれば、化け物に変心なさらないのであれば、
私の殺人に意味など在りません。もちろん、私が愉しんでいたところも大いにあったことは否定しませんが、一応は檀那さんの為にしていたことで御座いますよ」
少女は私に手を差し出してくれたが……。腰から提げられた刀、その柄に、少女のもう一方の手が被せられているのが気になった。
「変わらないのなら、終わりにしましょう。檀那さ……を落と……て、其の躰を……てしまっ……終……たします。人……には余る代物で……か……」
微笑んでいた少女の顔がブレ始める。
ざざっ、ざざっ、ざざっ。
古いビデオテープの映像のように、崩れては戻り、戻っては崩れる。
「何……? 何が起きてるの?」
差し出されていた手が遠ざかっていく。いや、少女の姿が、小さな部屋が、私から滑るように離れていく。
「どうやらお客人に御座います」
パンパンと音がして。視界が三回フラッシュする。
頬に軽い衝撃を感じて。
わけもわからぬうちに、私の意識は現実世界に引き戻された。
「……は、ん?」
私の顔に何かが何度も当たっているのがわかる。誰かに叩かれているのだ。何が起きているのか、体が把握したがっていたせいで、思考が覚醒する前に、目が開いてしまう。
「……あ」
心臓が止まりそうになった。驚きのあまり息の吸い方誤り、喉で空気の塊がつっかえて、こひゅと変な声が出た。
「おはよう」
私の目の前に、しゃがみ込んでいたのは。同じくらいの高さの目線で、人のよさそうな笑顔を浮かべている男の人は。
布瀬祐介だった。
彼の手は、私の首に当てられている。それに気付いたとき、瞬く間に脳のリソースが圧迫されてしまった。私は、完封されてしまう。
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ。
なんで、この人が。よりにもよってこの人が。
なんでこんなときに、よりにもよってこんなときに。
今はダメだ。
この人はダメだ。
心が弱っている今、この人と一対一で顔を突き合せたら。
同じ空間に閉じ込められたら。
比喩でも何でもなく。
きっと、私は死んでしまう。
「はは、相変わらずだね。そんなに興奮しないでよ」
眠りに落ちる前と同じように、私の手には愛理ちゃんの手首がある。強く爪を食い込ませた。冷たいけれど、愛理ちゃんを感じられる。そうすることで、どうにか症状を過呼吸にとどめることができた。布瀬先輩もそれに気付いたらしく、視線が手首の上に落ちていた。
「夏場の生肉は腐りやすいんだ」
すっと彼は手をあげる。
骨ばった人差し指が、部屋の奥にある小さなボックスを指していた。
冷蔵庫だ。
意味に気付いた瞬間、このときほど、私は自分の命を危うんだことはない。目の前の男は、狂っているなどという言葉ではとても足りない、遥かにおぞましい、理解不能の何かだった。
かけられた言葉を弾くように、私は首を左右に振った。布瀬先輩はさして気にしていない風で、にこやかな笑顔のまま手を下ろした。あくまでそういう風を装って。
目が笑っていないという言い回しがある。一番近いのは多分それ。彼の目はちゃんと笑っていたから、厳密には違うのだけれど。それはきっと、何か一つ見落せば、そのまま悪いことに繋がるかもしれないと過敏になっていた私だからこそ気付けた、本当に些細な、言葉にすることが困難なほどに微妙な表情の機微だった。要は、先輩は、私の返事を面白く思ってないのだ。
「どうして?」
理由を聞く気なんて、微塵もないくせに。問答無用に、こちらの都合なんてお構いなしに、「手首を手放せ」と言っているくせに。
女の言葉なんて聞いていない。男の人とは、そういうものだ。
そんなことが頭の中いっぱいを埋め尽くしていたものだから、返答する余裕などあるはずがない。
「ねえ、西園寺さんって、どんな人?」
もっとも歯がガチガチとうるさい音を立てている状況では、そもそも言葉を発することが困難ではあったが。
「綺麗な人だとは思うよ。役者としての才能もあると思う。でも、それだけじゃないか。美南さんみたいな強烈な何かを持っているわけじゃない。優秀な普通の人だよ。ただの人間。
なのに、どうして、君は西園寺さんなんかに執着するの?」
彼は、左手で私の?に触れ、右手を私の手の上に被せてきた。大きな手が私に触れた瞬間、ヤスデのような怖気が全身を這いまわる。
「だからなのかな。君が西園寺さんの名を呼んでいると、不安になる。あんなにつまらない人間に引っかかってほしくないって、思うのかな」
もう、その時には。
私は諦めていた。
忌むべき豊かな経験から、これから自分の身に何が起きるか、わかっていた。
だから、せめて、想い人の手を最後まで握っていたいと思った。そうすれば、少しはマシになる気がしたから。
けれど、それは無理というもの。うまく力が入らなかったから。
恐怖に震えてしまって、指がまともに動かなかったのだ。まるで、何時間も真冬の寒さに晒されたかのような有様。力を入れようとがむしゃらになればなるほど、私の右手は強張って、結びつきを弱めていく。
だから、男の人は、私と愛理ちゃんの結びつきを、簡単に外してしまった。彼女の手は放られ、低い位置を滑るように飛んで遠くに行ってしまい、壁にぶつかって止まった。
「僕のことだけを見てよ」
それで、私は終わりです。
そこから先の記憶はプツンと切れてしまって、終わりなのです。
残っているのは、記憶と呼ぶにはあまりにあいまいな感覚。
行為の間、私はふわふわとした感覚に包まれて、少し離れた場所から、私の肉体を見守っていた、そんな気がしました。そう、ちょうど影の辺りから、私のことを傍観していたのです。その時には、もちろん他人事のような心持ちですから、肉体がどんなに汚されようと、まったくの無感動なのです。だから、どんな行為をされたかとかは、ほとんど覚えていませんけれど、こんな状態になるなんて、私の心はもう限界だなと考えていたのは覚えています。
ただ、やはり。私を押しのけて、引き裂いて、男の人が入ってくる瞬間だけは、心が体に引き戻されてしまうのでした。その不快感というもの、体を舐めまわされるとか、体液をすり込まれるとかよりも、遥かに抜けたものですから、私ごときの処世術では、どうにも耐え切れないのでした。
せっかく体得した逃避術も、一番苦しい時に、何の役にも立たないのです。
だから、次に意識が体に戻った時には、いつのまにか私の体はあちこち薄気味悪く滑っており、床に座り込む男の人の上に乗せられて、串刺しにされていたのでした。例えるなら、ちょうど椅子の背もたれに抱きついて座っているような具合です。椅子が揺れる度に、汗だらけの肌と肌がべたべたと触れ合うものですから、たまったものではありません。かと言って、何かできることがあるわけでもありませんから、童心に帰って、椅子の向こう側をぼんやりと眺めながら、ひたすら「早く終われ早く終われ」といつものように念じ続けることにしたのです。
ただ、この時は場所の悪いことに、向こう側には愛理ちゃんがいました。
ベッドに横たわり、こちらを見つめ続ける愛理ちゃんがいました。
一瞬、醜態を愛理ちゃんに見られていることに声を上げそうになりましたけれど、何か愛理ちゃんに妙な既視感を覚えて飲み込みました。
上下に揺れる世界の中、私は彼女を見つめ返します。
じっと見ていると、何やら鏡と向かい合ったような心待ちがしてくるではありませんか。
そのまましばらく見つめあって、私はその既視感の正体に気付きました。
同じ目をしていたのです。
つまり、私は愛理ちゃんと同じ目をしていて、それが既視感の正体だったのです。
それで、とても嬉しくなりました。
愛理ちゃんと同じになれてる自分を褒めてあげたかった。
『こっちに来なさい』
彼女の口は、横一文字に裂かれていましたが、それには微妙に角度が入っていたため、うっすらと笑ってくれているように見えました。まるで、私を歓迎してくれているように。待ってて、愛理ちゃん。私もすぐそっちに……。
そのとき、背もたれが私の視界を遮ると、口に張り付いてきました。椅子は、腕で私の頭をがっちりと固定し、ぬるぬるとした物体をねじ込んできます。座の串に一際大きな緊張が走ったあと、すぐにこの世で最も忌むべき時を迎えました。堪えきれずに体は震え、腹の底から呻き声が響いてしまいます。
そう間を置かずに、私は串刺し椅子から解放され、床の上に放り出されたのでした。
あれほど「早く終われ」と念じていたのに。経験上、これで終わりという確信があるけれど、今となっては、全部どうでもいい。
ただ、ひと言。
疲れた。
真っ暗な心の真ん中に、ただ一言がポツンと浮かんでいるのであります。
二番目に浮かんできた言葉は『ごめんなさい』でした。
本当は、これを一番最初に思い浮かべなければらなかったのに。
なぜならば、元はと言えば、全て私が悪いからです。そもそもにおいて、私はこの合宿が始まる前から汚れた存在ですから、男の人に捌け口にされたとしても仕方がないことだったのです。
例えばゴミ箱が目の前にあったらどうしますか。ゴミを捨てると思います。それと同じことです。
布瀬先輩も、舟橋先輩も、富士田くんも、当たり前のことをしただけですから、責められる謂れなどなかったのです。にも関わらず、逆恨みしてしまったものですから、布瀬先輩が怒るのは当然です。
ゴミ箱が、自分にゴミを入れられたと怒りだしたら、変でしょう。そんなゴミ箱、廃棄されても文句は言えません。ゴミ箱自体がゴミなのです。
だから、こうして打ち捨てられている私は、然るべき罰を受けたというのに過ぎないのです。むしろ、私という存在の卑しさに気付かせてくれた布瀬先輩には改めて感謝する筋合いでしょう。私が汚れてることを思い出させてくれてありがとう。私が化け物だってことも思い出させてくれてありがとう。
そして、もうそれがわかったから、嫌というほど身に染みたから。
だから、死のう。死んで、あの人の隣に行こう。
「……愛理ちゃん」
それで、また手を握ってもらえるのなら。また、口づけしてもらえるのなら。
こんな体で生き続けるより、ずっとマシ。
「そんなに、西園寺は良かった?」
頭上から降りかかる声に、答える気力はありません。
「抱いたんだろ、西園寺。だから、一晩でそんなに仲良くなったんだろ」
やはり、男の人の考えを私風情が理解できるようになる日は、生まれ変わってもきそうにありません。
「抱いてみれば――」
布瀬先輩は、床の上で脱力している私から離れ、ベッドに向かっていきました。
ギシとスプリングの軋む音が聞こえます。
「僕にも、わかるかな」
見間違いかと思いました。
目がおかしくなったのかと思いました。
けれども、それは間違いなく現実で。
お願いです。それだけはやめてください。
私の体には何をしてもいいですし、先輩の体にどんな奉仕もさせていただきます。
ですから、それだけは。
布瀬先輩は、微笑んで動かない愛理ちゃんの上に乗――。
そこで、ブレーカーが落ちたみたいに、私の視界はブラックアウトしました。
脳の処理能力がついに限界を迎え、視界をシャットアウトしたのだとわかりました。
今から起きることを予想して、これ以上の負荷を目から取り入れないように、防御機能を作動させたのです。
でも、それは一寸だけ遅かった。
予想させる余地を与えてしまった。
私の体はあまりに無能で。
どんどん音が遠くなる。
愛理ちゃんの苦悶を代弁するように呻くスプリングの声が小さくなっていく。
無能。
初めに微かでも耳に届いてしまったら意味がないのに。
こうなると、真っ黒な視界は、もはや逆効果です。
黒いスクリーンは、掻き立てる。
現実以上に凄惨な幻日を。
妄想こそが人間を恐怖させる最大の敵。
暗い昏い夜。
星ひとつない真っ黒な夜空。
明けることなく続く極夜。
「夜というものは――」
見上げて、つぶやく。
「あまりにも昏くて、圧し潰されそうになる」
「違いますよ、檀那さん」
横目で見る。
彼女がいるのはわかっていた。
「夜というものは――」
見上げて、答える。
「そんな風に人間には映りません。だって、月も星も輝いているではありませんか」ならば。
「私の頭上に広がる、この極夜は何」
今はもう、わかっていた。
「其処にひとつの明かりもないのなら」
でも、誰かの言葉を借りなければ。
「――それは、闇というものでしょう」
受けれ入れ、られそうに、ない。漆黒の帳。
最初からずっと続いていた夜。
「あなた、最初からわかっていたのね」
初めは明けると思っていた。私を物みたいに扱った三人を殺せば、あるいは愛理ちゃんのような灯りに縋れば、この夜は明けるのだと信じていた。
「ですから」
とんだ、勘違い。
「最初に、申し上げました」
思い出す。
彼女と初めて会った夜。
その、救済の言葉。
「一寸は諦めました。いずれ怪物になると踏んでいた檀那さんの心が、あまりに人に寄ろうとするものだから。しかし、今は、良い目になりました」
今の私の目は、愛理ちゃんと同じ目。
灰色の、目。
「では」
少女の手が動く。指が刀の柄に伸ばされる。
「まだ」
少女が行動を起こす前に、私は制止する。
私たちは似て非なる者。けれど、今ならば、彼女の考えていることが少しはわかる。
「もう、どうでも良いのではないのですか」
「そうね、どうでもいい。 復讐も、希望も、愛情も、友愛も。きっと、私の中の人心は全て砕けてしまった」
――けれど。
「それでも」
――否、だから。
「私は、化け物になります」
――アレは、生きてちゃいけない。
「彼を、殺めます」
着物の少女は目を伏せた。
「誰かのために人を殺すのであれば、そんなものは、とても――」
言葉の続きを、彼女は口にはしなかった。
布瀬自室。
僕の部屋からは、星がよく見えていた。布瀬祐介という男に空を見る趣味はない。生来、無感動な男だ。生まれてこの方、風景や動物に心動かされたことはない。
しかし、今宵ばかりは空を見上げようという心持ちになっていた。
虫の知らせというやつだろうか。僕は直感していた。
この夜が明けることはない。
自分は、生きて朝日を迎えることはないのだと。
たかが風景と言えど、これが見納めとなれば、さすがに感慨深い。無感動の男でも、この良き夜を目に焼き付けておこうという気持ちになるのだった。
「夜空というものはこんなにも美しいものだったんだな」
でも、きっと、今この夜空がこんなに美しいのは、僕の命が終わるからだけじゃない。僕の心に、感情を呼び起こしてくれた人がいたから。そうでなければ、どれだけ美しかろうと、そもそも感じることすらできないのだから。
振り向かずともわかった。
黒い窓ガラスに反射して。
彼女の姿は見えていた。
腰にかかりそうな長髪。
時代錯誤の着物。
そして、腰から提げている、きっと何人もの血を吸った刀。
全身に叩きつけられる、びりびりとした気迫。
生き物の本能が警鐘を鳴らし、総毛立つ。
不吉などという漠然とした言葉では足りない。
呪いなどというあやふやな言葉では不確かすぎる
これは、殺意。
こんなものに前の二人も曝されていたのだろうか。
だとしたら、無抵抗に殺されたとしても無理からぬこと。
心が正常に機能していれば、足がすくんで、声も出なくなってしまうだろうから。
心が欠けている自分ですら、こうして立っているのがやっとなのだ。
殺意が、ひと際、強くなる。
背後の重圧。深海のように昏く、孤独な闇。
足が震える。歯が鳴ってしまって、思うように発声できない。
それらを技術で押しとどめる。役者、布施祐介が今日まで培ってきたものを総動員させる。ここが、一世一代の大舞台なのだ。今、この瞬間だけは、とちるわけにはいかない。
「――僕という男は、」
語りかける。台詞を紡ぐ。
「誰かに愛されたことがなかった」
自分の命を狩る死神。着物を身にまとい、刀という鎌を手にした死神。いいや、死者への迎えということならば。もっと適切な呼び名がある。確かに彼女は恐ろしい。彼女の出現で、この部屋は暗黒に満たされた。のしかかる圧迫感は、割れるような頭痛を引き起こす。どれだけ必死に呼吸をしても、脳への酸素供給は決して追いつくことがない。まるで肺に穴が空いてしまったよう。ああ、ここは死の国か、あるいは地獄の最奥か。
けれど。
胸に手を当て、握りしめる。
この、恐怖でさえも、僕には。
布瀬祐介へもたらすもの、もたらしたものを考えれば。
彼女は。決して死神などではなく。
――きっと、天使だ。
左手首を一瞬、何かが掠めた。
ぼとりという音が先か、あるいは灼けるような痛みが先か。
「ぐうっ……!」
僕の左手は、床に落ちていた。
おびただしい量の血液が、蛇口をひねったように流れ出す。生き延びたかったわけではないが、脊髄反射で、右手は左手首を掴み、血を止めようと動いていた。
しかし、それすら叶わない。
ぞんという音がして、僕の右上腕の筋肉は、刀に貫かれていた。
ざく、ざく、ざく、ざく。
胸郭、腹部、右手指、臍部(さいぶ)。
刀の流れに一拍子遅れて、体の肉が飛んでいく。
彼女の動きは流麗にして、絶え間ない。月光を流し、閃く白刃、紅葉のように舞い散る赤、残影のようにはためく着物。月光の下、駒のように回り、蝶のように袖の羽をはためかせる。様々な舞台を見てきた布瀬だが、かくも美しい舞は見たことがない。死と黒と暗と闇と。深い絶望に、ずっと浸されていなければ、発祥させられない悲哀。まごうことなき、死者の剣舞。
下腿、大腿、肘、肩峰。
虫の標本にでもなった気分だった。
彼女は生き物の壊し方を、嬲り方を識っている。布瀬の脳が、否、脊髄が動けと部位に指令を出すよりも早く、先回りして、可動に必要な筋肉を破壊していく。特に喉の貫通は絶妙で、大声は出せないけれど、掠れ声くらいは出せるよう加減して肉を削いでいった。出血量からして、動脈を避けているのもわかる。
とても、美南あやめの所業とは思えない。いつもおどおどしていて、僕の下で固まっていたあの美南あやめには。
――だけど。
布瀬は、最初に手首を切られた個所から一歩も動くことができず、その場に崩れ落ちた。
ひゅー、ひゅー、ひゅー。
口ではなく、喉に開けられた穴で呼吸をするのは新鮮な体験だった。
――それでも。
……体中が痛い。
全身があげるエマージェンシー。
――彼女は美南あやめだ。そうでなければ。
……そういえば、親にぶたれたことも、なかったっけ。
ぼんやりと、そんなことを思い出した。
――僕にこれほどの殺意を叩きつけるはずがない。
――この殺意こそが、美南あやめの証明。
ずん。
残った手の甲を、刀が貫いていた。
ずん、ずん、ずん、ずん。
刺突が腕を伝って、芋虫のようにのろのろと肩まで上がってくる。喉が健在ならば、痛みに耐えきれず間違いなく絶叫していたと思う。脳は全身に懇願する。逃げろ、この苦痛から遠ざかれと泣きついてきている。けれど、筋肉の主要な部分を斬り飛ばすか穴空きかにされていた肉体は、激痛にびくびくと痙攣するのが限界だった。
彼女も、同じだったのだろうか。
僕に貫かれているときの彼女も。
こんな気持ちだったのだろうか。
今、僕は、彼女と一緒になれているのだろうか。
美南に貫かれるたび、僕の脳内は恐怖で塗り潰されていく。恐怖という感情は、よくない。とても暗くて、不安になるものだ。こんなものは、僅かも残さず、自分の中から取り除くべきである。
だけど。
それも、大事な感情で、感動だ。
今日まで、誰一人として、布瀬祐介の中に喚起できなかった気持ちだ。
ただ一人、美南あやめを除いて。
だから、昏くて、冷たくて、怖くても。
恐怖ですら、布瀬祐介にとっては愛おしい。
抱きしめて離したくない、自分の心の叫びだ。
美南あやめが僕に贈ってくれたかけがえのない宝物。
血で床を汚しながら、布瀬は思い返す。
無残に散らばった富士田の死体。
それを見て、妖しく笑う美南あやめ。
その時に感じた背筋の凍る恐怖。麻痺したように動かない足。全身を駆け巡った、死にたくないという感情。
そして、そのあとに彼女の口から出た
『素敵な夫婦になりましょうね』
プロポーズの言葉。
倒錯が交錯し、駆け巡った電流が、死んでいた感情の息を吹き返させる。
だから、きっとそのときなんだろう。
僕が、美南あやめに
――恋した瞬間は。
両腕がハチの巣になった。
痛みで気が遠くなる。でも、飛ぶわけにいかない。痛みなど、一瞬の幻。ならばこそ、噛み締める。ならばこそ、味わいつくさねばならない。
刀は、今度は爪先から進行を始める。僕に最大限の苦痛を与えるために、丁寧に僕を穴だらけにしていく。
――ああ、震える。
きっと、彼女は今、僕のことだけを見てくれている。
――ああ、うれしい。
僕は、今、こんなにも。
――愛されている。
そうだ。それでいい。そうしてほしい。
西園寺のことなんか見ないでいい。君が見るのは僕だけでいい。
僕だけで、君の心を独占したい。
傍らなんかで満足しない。僕は、いつまでも君の中にいたい。
足を刺し終え、剣先は腹上を這いだす。
美南の言葉を思い出す。西園寺の手首を抱えて、吐露した心中。
初めて人を好きになったと言った。
僕も初めて人を好きになった。
自分の中に芽生えたこれがなんなのか、最初はわからず戸惑った。彼女の気を引きたくて、多少強引なこともしてしまったと思う。手段を間違ったかもと後悔したりもした。
けれど、今、美南は僕の目の前にいる。彼女から、僕に向かって、強烈なアプローチをしかけてきている。ならば、結果として成功だったのだろう。
こうして、美南が僕に感情を向けて、僕の感情を喚起してくれるのなら。
それは、きっと両想いというやつなんだろうから。
刀が喉近くまで上ってきていた。
もう、刺すところが急所以外残っていない。楽しい時間というのは本当にあっという間だった。
目を開ける。もう、血液が足りていないのだろう。視界は黒い靄で縁取られ、ぼかしがかかり、ピントがあっていない。けれど、顎下の朧げな白光だけは、かろうじて確認できた。僕の顎は、刀の切っ先に乗せられていた。
ぐいと、持ち上げられ、自然、彼女を見上げる形になった。
闇がかかった彼女の顔は見えない。そうでなくても、見るだけの視力が、僕には、もう残っていない。けれど、彼女の意図はよくわかっていた。
最期に、言葉を残すチャンスをくれたのだ。
だから、喉を完全には潰さずにおいたのだ。
許されるのは、きっと一言。
それを言い終えた瞬間に、僕の首は、体に別れを告げるのだろう。
なあ、なんて言えばいい。
君はなんて言われれば嬉しい?
僕は。
どんな言葉をかければ。
ずっと、君の中にいられる――?
刃が少しだけ前進し、僕の喉に優しく刺さった。じわりと流れ出した血液が肌をゆっくりと滑っていく。本当なら、一晩かけてこの幸福な煩悶に身を預けたいところだったが、どうやらあまり猶予はくれないらしい。
だから、僕の心に浮かんだのは。
ああ、なんて陳腐な。
天才役者だなんてもてはやされ、数多の舞台をこなしてきた布瀬祐介のくせに。
何千、何万回と使い古された、その言葉しか浮かばない。
でも、残念ながら、その一言は、僕の感情を過不足なく、まこと的確に表してくれる。
そうか。だからこそ、この台詞は、悠久の時を経て生き残り続けているのだろう。
その気持ちがわかったのならば、僕はやっと、一人前の役者になれたのではないか。
妙な満足感に包まれながら、すう、と小さく息を吸い、その言葉を口にしようとした瞬間、
「――」
言葉ではない何かが口から飛び出した。
同時に、顎の筋肉が弛緩したみたいになって、口ががくりと開いてしまう。それっきり戻らない。僕は喋らなくちゃならないのに、口が開閉してくれない。
飛び出た何かは小さなものだった。
ぽとりと落ちた、赤黒い塊。
僕の舌だ。
口が開いたまま塞がらないのは、顎の筋肉が緩んだからではなく、切断されたからだった。
僕の口は横一閃に斬られていた。ちょうど、西園寺愛理と同じように。
混乱する。
今の一刀は僕の言葉を両断した。言わせない、という拒絶の意思が感じられた。何故? 確かに、彼女は僕の最後の言葉を聞こうとしていたはずなのに。この喉の傷の加減具合に、それ以外の意味はないのに。
喋らせたいけど言わせない……。この矛盾した乙女心はどう説明づければいい……?
……。
例えば、僕の言いたいことと、彼女の言ってほしいことが違っているのではないか。きっとそうだ。彼女の殺意からして、それしか考えられない。美南が聞きたいのは命乞い、謝罪、断末魔、きっとそういう類なんだ。僕に最大級の惨めを味わわせて、最底辺に悲惨な殺し方をしたいのだ。
なら、聞きたくないに決まってる。
僕の胸に芽生えたこの言葉。聞けば彼女は負けるのだ。そんな言葉を吐かせて逝かせてしまえば、彼女の復讐が全て無に帰してしまう。命のやり取りなど問題ではない。僕らはそんな低い次元で話をしていない。試合に勝って、勝負に負けてしまうから言わせないのだ。言わせる前に舌を斬り飛ばして、喋れなくしたんだ。
僕は……。
彼女を傷つけたくない。彼女が嫌がることはしたくない。
これでも、初恋の相手だから。初めて好きになった女の子だから。表現の仕方は歪でも、僕は彼女が好きだから。この気持ちに嘘はないから。
けれど、だからこそ。
抑えられない。
その台詞を口にした後の彼女の顔を思い浮かべるだけで、僕は昂(たかぶ)ってくる、だって、その一言を言うだけで、僕は、きっと。
――彼女の永遠になれる。
美南が刀を振り上げる。
もったいぶったように緩慢な動作だった。きっと、迫りくる死の恐怖を体現することで、最後の絶望を与えたいのだ。命乞いも、謝罪も。断末魔も引き出せなかった埋め合わせに。
本当に、かわいい女の子。
小さい体をいっぱいに使って、下手くそなりに頑張る子。
僕のことを好きで好きでたまらない恋する乙女。
初恋の相手が、君でよかった。
彼女は弛緩しきってる。勝利を確信して、油断しきっている。舌を落として、喉を潰せば、もう安心だと高を括っている。
僕が、舞台役者だなんてことも忘れて。
見上げる。
闇の向こうの彼女の顔はやはり判然としない。けど、いつだってそうだったろう。観客席の顔なんて、舞台から見えやしないんだから。
才能があるから、期待されているからと、ただ惰性で続けただけの演劇。小手先の表現技法だけ達者になって、肝心の僕の中は空虚なままだった演劇。こんなこと、続ける意味あるんだろうかと、何度も辞めかけた。僕の生きる目的や、夢中になれるものは他にあって、それを探したほうがいいんじゃないかって。
でも、そうじゃなかった。
正しかった。
ようやくわかったんだ。
僕が演劇を続けてた理由。
神が芝居の才能を賜した理由。
すべてはこの瞬間の為。
――彼女の為だけに。
彼女が気付く。
目が合った。
目が。
目は。
口なんかよりも、遥かに雄弁だ。
流水のようだった演武が静止する。それまで、無表情だった彼女の顔が崩れる。目が見開かれる。
満足が、充実が、全身に広がっていく。痛みなんか目じゃない。この支配感は、痛覚の電気信号なんか打ち消して余りある脳内麻薬。あやめは、やっぱり、僕のもの。
僕の好きにできる恋人。
振り下ろされるそれはもはや刀ではなくこん棒だった。引いて斬る、などという日本刀を扱う際の基本の技巧は、影すら残っていない。あるのはただ、感情の爆発。着物の少女の亡霊は跡形もなく消え去り、ただの美南あやめがそこにいた。
渾身の負け惜しみ。女のヒステリー。
まばゆい閃光に埋めつくされる。回転して部屋を飛んでいく折れた白刃が、僕の最期の光景。まるで西瓜割りみたいに、僕の頭は砕け散り、赤い果肉をまき散らした。
真黒。
墨をぶちまけたような部屋の中。
黒はこの合宿中で最も強い深まりを見せている。どこに足を踏み出せばいいかもわからない。その先に地面があるのかわからないから。踏み外せば、そのまま果てない奈落に落ちてしまいそう。
信じられない。
こんな深い闇が。
まもなく晴れるなんて。
「檀那さん」
横目で見る。
闇の中に浮かぶ着物の少女。
「復讐は何も生まないって、ホントね」
歯の間から漏れた笑いは自嘲。
「最後の最後まで、男の人には勝てなかったわ」
「怨嗟と恋心は、燃え上がるものですから。嫌いは好きのうちで御座いますし、泣き顔と笑い顔は、どちらも涙を浮かべます」
違いないと、小さく笑った。
「お二人はよく似ていて、よくお似合いでございました。幸せの中、逝かせてやるなんて、真、良き女房で御座いましたね」
――とても化け物の所業では御座いませぬ。
「……そうね」
執着を見せてはならなかったのだ。彼に、救いを与えてしまったから。私が彼を本当に嫌うのなら、心底憎むのなら、私は、彼を無視しなければならなかった、なのに、最後に、よりにもよって最期に、彼を殺そうとしたなんて。これでは、惚れているのと何も変わらない。勘違いされても文句を言える筋合いがない。何が楽しくて、アイツに恋しなければならないのか。恋というのは、もっと楽しくて明るくて甘酸っぱいものではないのか。最後の選択は間違いだったのだ。いいや、違う。間違いと言うのなら……。
「この館に来たのが、私の間違いだったのかな。あの夜、布瀬先輩に組み伏せられた時から」
あの夜のことがなければ。私が、演劇を頑張ろうとしなければ。
この合宿は、こんなに血みどろにならなかったのだろうか。
「檀那さん、間違いと言うのであれば―」
あ、この子……また言うつもりだな。
私の聞きたくない言葉。耳をふさいでも届いてしまう言葉を。
「その心の在り処からして、間違いでございます。化け物の器に、人心が合うはずがありません。その器は、元々私の居場所にございます。ですから、檀那さん、間違いというのなら、檀那さん」
――檀那さんが生まれたことこそ、間違いなのです。
「……私は、どうして生まれたの? この体があなたのものだというのなら、私の体はどこにあるの」
「何処にも。この館で起きたこと、すべて儀式でございます。彼らの身に起きた災いを辿っていたのです。闇に葬られたひと夏の出来事を書き出す旅路にございます。けれど、それも終着駅。檀那さん、貴女の役目は終わりです。檀那さんの心は、怪物を暴くためだけに作られたものなのですから」
「じゃあ、最初から死人も同じだったのね」
とんだ道化。でも、私にはお似合いの末路だ。十二の夜、パパに抱かれたときに私は死んだのだと思っていたけれど、まさか生まれたときに死んでいたとは。
なるほど、西園寺愛理は確かに救いにはならなかった。彼女の優しさは心に染みて、傷を癒してくれるような錯覚に陥らせたけど。所詮、偽りへ勘違い。決して、私の死を理解していたわけではない。西園寺愛理が生者である以上、西園寺愛理という薬は生者にだけ効くものだ。生者が死者を理解することは、決してない。
「……化け物なりに檀那さんには同情しております。ですから、機会はさしあげました。もし、化け物に変心できるのであれば、其の躰を貰っていただこうと。しかし、貴女の母が作った心は人に寄りすぎていた」
「……母か。そういえば、母親の記憶、全然ないや、私」
でも、寂しくなんてない。
母がいなくても、本当の理解者が目の前にいるから。
彼女は、最初の夜からずっと、私の中に居続けて、繰り返し繰り返し、真実を言い聞かせていた。
なぜこうも胸を抉るのか。
なぜこうも無情なのか。
真実はいつだって、痛みなくして心に届かない。
着物の少女。―私の、影。
いや、私こそがきっと、彼女の影。
「敬語、お辞めになったのですね」
「ええ、誰の顔色も窺わなくていいから」
ここで終わりだから。
少女は腰から提げた刀に手をかける。
「では、初夜の約束を果たしましょう」
鈴のように澄み渡った音が、長い尾を引いて闇に響く。鞘から刀が抜かれた音。
「殺してさしあげます」
それは始まりの夜に聞いた言葉。
二人、否、一人が出会った極夜の問いかけ。
弱すぎた私が、逃げ続けた質問。
その答えに。
すう、と眼を瞑る。
未練などない。
あろうはずがない。
この汚れた体に。
隅々まで侵された死体に。
一体何故、縋ろうと思っていた。
今更、何が惜しくて縋ろうとする。
遠回りにはなったけど。
私は今、ようやく、唯一の救済に至る。
「私は化け物でございますが、お約束いたします。弄ぶことなく、嬲ることなく、一刀の下、殺めること」
「化け物のくせにどうして人間に優しくするのかしら」
「其の心、人にすら成り切れねばこそ」
体を何かが掠めた。
一陣の風が通り過ぎた。
嘆息した。本物は、痛みなんて感じさせない。
やっぱり、私は大根役者だ。
私は、彼女の体から離れていく。
眼を瞑っていたのに、わかった。
私を覆う闇が祓われていく。
わかってる。
ただの終幕だなんてこと。
この闇は単なる舞台装置で、私の心の闇なんかじゃなかったってこと。
でも、救われる気がする。
だって、私がそう信じるのなら、これは、間違いなく私の闇だから。幼い頃から、ずっとまとわりついていた黒だから。
初めから救われようがなかった少女に。
ただ一つ許された、光の形。最後くらい自分勝手に縋らせてもらう。
「確に。旦那さんをお返しいただきました、檀那さん」
夜が明ける。
――其の心に残された、最後の極夜が。
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