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六章
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二羽の小鳥が迷い込んで来たのがわかった。
館は私の体の一部と同じだから、彼奴等が幼さ故の無垢で、館を土足で駆け回っていたのも手に取るようにわかった。其れは別段構わぬことだった。
丁度腹が減っていて、そろそろ外に出なくてはと思っていたところだ。男子は玩具として愉しみ、女子は肉として楽しむが、人々に鬼と畏れられる私の生き方であった。
一羽の動きが止まったのがわかった。屋敷にある沢山の部屋の一つに入ったきり、身動き一つしなくなった。何をしているのか知らんが、動かぬならば都合が良い。其方から食うこととした。
部屋へ行き、真鍮製の握りを捻り、扉を開ける。誰か来たことは小鳥にもわかっただろう。刹那、空気がぶるりと震えた。
小鳥は寝台の下にいた。隠れん坊でもしているのだろうか。其方に近づくと、ばっと驚かすように小鳥が飛び出て、私の足に抱きついた。
「桔梗捕まえた!」
小さな可愛い子であった。
少女はぎゅうと目を瞑っていた。私のことを桔梗という友達と勘違いしていた。
やがてゆっくりと目を開き、私を見上げた。たちまち少女の心に震えが走り、大きな目が戦慄くように震え始めた。目玉は涙の薄膜と恐怖で覆われた。それもそうだろう。人間どもが噂するとおり、私は鬼の形相をしていたに違いない。玩具にする男子相手ならいざ知らず、飯にすぎぬ女子を相手に面を取り繕う由などなかった。
「あっ」
女子が小さな声を上げた時には、私は大口をあげて頭に噛り付いていた。
煎餅を砕くような音を立てて、髑髏を割っていく。溢れ出た甘酒のような血と、大福のように柔らかな脳を啜った。骨を噛み砕く感触は、いつだって小気味良い。女子の体が私の腕の中で震える。漏れる体液と尿が私の着物を汚していく。
赤い糸を引きながら私が女子から口を離した時には、頭の凡そ三分の一ほどが削れてなくなっていた。白目を剥いて震えながら、あっ、あっ、と小さく呻くしかできない女子。死に体であった。
「あんず……?」
声に振り向けばもう一人の女子も来ていた。開け放たれた扉のあたりで、私たちを見て立ち尽くしている。二羽の片割れ。その娘を横目に据えながら、手中の肉の咀嚼に戻る。殺したてが一番美味いのだ。
ほんの一歩だけ、娘が後じさった。私が食事をしているうちに逃げようと思ったのか知らん。逃げても構わなかった。この館は私の腹である。故に、私が許さなければ決して出ることは叶わない。私は肉に集中してよかった。
ずるっ、ずるっじゅっ、ぐちゅ……。
友達の体が細かに砕かれて、小さくなっていくのを少女はじっと眺めていた。けれど、その視線の意味は、実に奇なるものであった。目の前で起きていることに頭が真っ白になって動けなくなる者、蛇に睨まれた蛙のよう立ち尽くしてしまう者は仰山見てきた。されど、その娘は違った。
娘の目は、熱っぽかった。
私が脳を啜って、死に体が魚のように跳ねれば、応じて娘も体を悶えさせる。臓腑を貪られる友の姿に、顔を林檎みたいに赤くして、息を荒くさせている。齢十にも満たぬであろう女子とは思えぬ艶やかさにあった。
獲物を食い尽くした頃には、娘は腰が抜けてへたり込んでいた。痩せ犬のように物欲しそうな目をしている。
私は娘に近付くと、廊下の上に組み伏せた。
娘は、いよいよ苦しそうに顔を上気させた。
なだらかな肩の稜線、首に近い位置に歯を立てる。小さくあげた声のなんと色っぽいことか。まこと驚くべきことに、私の鋭牙が首の血管を破ろうという段になっても、娘が恐怖することはなかった。真逆、娘は真実、私に食われることを望んでいた。まるで思い人と褥を共にする生娘が如く――。まこと旨そうではあった。他の童よりもはるか美味である確信があった。しかし、それ以上に。
もっと見ていたいと思った。
かかる人間には初めて会った。食われるというのに、何故恐怖しないのか。私の十分の一も生きていないのに、なぜこうも艶やかなのか……。娘は私の興味関心を強く駆り立てた。
しかも、娘は、私に対して対等……いや、むしろ私より上に立っている心持のようだった。私に自分を食わせれば満足という面持ちをしている。
故に私は挑むように、問うた。
「そんなに喰われたいか」
腹の内を見透かされた恥ずかしさか、娘の目じりに涙の粒が浮かんだ。そのなんともいじらしいことよ。
私は娘を見守ることを決めた。喉までせりあがっていた食い意地を抑え込んでも、そうする価値があると思った。されど、見守るにしても今日まで弄んだ玩具どものように、屋敷に閉じ込めてしまっては駄目であろう。時の流れが止まった匣庭に置いてしまえば、虫の標本も同じである。この娘の翅は、誰にも縛られることなく、自由闊達に育てられなくてはならぬ。成長の舵取りに、私の希みが混じってはならぬ。友のように、傍らでこの娘を見守りたい……。
その時、妙案が私の中にわいて出た。
着物の帯の上から膨れた腹をさすった。
そうだ。今まさに、食ったばかりではないか。この娘の友を。
成ってしまえばいいのだ、友に。
成り代わるべき者の脳も肉も、私の中にある。ならば、その記憶を再現し、身体を作り直すなど、造作もない。
私は鬼。人ならざる力を持つ化生であるのだから――。
果実のようにみずみずしい唇が動く。
「久しぶりね、あなた」
榊葉桔梗は、私に優しい声をかけた。
「あなたじゃないよ……」
私は抗った。
「ちゃんと名前を呼んでよ」
「九年間、あなたとの再会を待ち続けた」
「私だよ。東雲あんずだよ、知ってるでしょ。幼馴染だもんね……?」
涙に声が震える。
「やっと会えたわね、あなた」
「私を呼んでよ! 無視しないでよ!」
怒号は、虚しく空気に溶けていく。
桔梗は私の方に顔を向けている。けれど、それだけだ。彼女は、私を見ていない。私の中を見透かすような目をしている。
そっか。この三年間、無視してたわけではなかったのかな。榊葉桔梗に私は見えなかったのかもしれない。
今だってそうだ。三年ぶりに私に話しかけてくれているけれど、それは、私の奥底に潜む『あなた』を呼び起こすための手段に過ぎない。……奥底。それも違うか。むしろ、東雲あんずこそが表皮。嘘のように薄い皮一枚に過ぎないのだから。この身を占める割合で言えば、東雲あんずの方が遥かに少ない。
「最初からその気だったの? 私をこの館に呼び出して、思い出させようって魂胆だったの?」
「なんのことかしら」
「……だって、桔梗がメッセージを飛ばしてきたんじゃない。私を探せって」
「この人が何を言っているかわからないけれど……私がここに来たのは、あなたに会うためよ。ここに来れば、思い出に会える。九年前、私を虜にしたあなたの思い出に……」
桔梗は目を細め、私の背後に視線を飛ばす。
「毎年ここに来るのよ、夏になるとね。三年前、あなたに振られてから毎年……」
遠い目は夏の夕焼けを想っている。妬ましいまでに。
「あなたの気を引こうと、あんずの皮をかぶってしまったあなたを起こそうと……三年前までは頑張っていたのだけれどね。食べられる量が増えるように肉をつけて、引き締まった歯ごたえを味わってほしく筋肉を鍛えて、脳味噌が甘くなるように勉学にも励んだ。美味しそうに見えるように……」
けれど。
桔梗が目を伏せる。
「この人は私に恋をした。恋なんてした。一緒にいたいなんてのたまった。食人欲求は我慢するなんて、とどめのセリフと一緒にね。私の気持ちも、努力も、三年前のあの一瞬ですべて裏切られたのよ。私の想いはあなたまでは届かず、東雲あんずなんていう表面をなぞることしかできないんだって失望して……それからは顔を見るのも辛かった。だけど」
桔梗が顔を上げる。心底嬉しそうな、恋する微笑を湛えて、あなたを見る。羨ましいほどに。
「今年でそれもおしまいね。長い、永い鬼ごっこだったわ」
ベッドから立ち上がり、歩み寄ってくる。
「必死に取り繕ってるみたいだけど、無駄よ」
私の首に手を回し、私を匂う。そして、顔を寄せ、耳元で囁く。
「クラクラしちゃう、ケモノ臭さ」
酔い、誘う、艶めかしい声。
ひび割れた私。隙間から覗く中身。
――東雲あんずの、薄っぺらさ。
九年前、東雲あんずは死んだ。
今いる東雲あんずは、鬼が作った仮面。
あんずの脳が有していた知識を集めて再現された工作。
東雲あんずの欠片の寄せ集め。我楽多。
それが私。
『恋に恋するのはやめなさい』
夢の中の、桔梗の言葉が蘇る。
初めて恋心を自覚した時、私は嬉しかった。
桔梗への想いが純粋だと気付けたから、とあの時は思った。
それは正確ではない。
本当は、拠り所を見つけて嬉しかったのだ。
無意識に気づいていたのだ。自分の感情が、人格が、脆い仮面であることを。
だから、恋を求めた。
恋心こそが、もっとも人間的な感情だから。動物や工作では抱くことができない想いだから。恋をすることで、私は仮面ではなく人間なのだと深層心理で安心できたから――。
恋に恋をしたのだ。
そうでなければ、説明がつかない。
だって、東雲あんずは、榊葉桔梗が嫌いだったのだから。
それが、東雲あんずの本当の感情だったのだから。
榊葉桔梗に恋する東雲あんずなど、偽者でなければなんだという。
「ねえ、触ってよ」
桔梗は私の手を取り、そっと自分の胸に触れさせる。柔らかな脂肪に、指が埋まっていく。
芥のような感情、偽りの恋心は、暴力的なまでの御馳走の押し付けに耐えられない。作られた人格に、本来の私を抑えられる理由がない。
だから、これが私にできる最後の質問だ。
「ねえ、『私』は誰なの」
「知らない」
思案するそぶりもない、淡泊な答え。感情なんて込めてくれていない。
胸をチクリと刺す痛み。心を針で突くような、小さくて苛烈な痛み。
それを、確かに感じている。
感じているのに。
これも、我楽多なのか。
これも、我楽多なのだろう。
だって、これは、鬼も東雲あんずも感じるはずのない痛みだから。
桔梗はふうと深く細く吸った後、私にしなだれかかってきた。香る彼女の匂い。めり込む軟肉の圧。もはや、私の言葉に耳を傾ける気もないのだろう。早く食えと訴えてきている。
たまらず、桔梗を押し倒した。怒りのように、衝動的に、暴力的に。
眼下には、くっきり浮きでた鎖骨と、そこから伸びる汗ばんだ首筋。
私の首の後ろに腕が回される。
はやく来てと、私を押し付けようとする。
視界がブレる。視界が重なる。
あの時の、あの夏の。
ダラダラと溢れるよだれ。
滴り、首の肉を濡らす粘液。
それがまた艶めかしくて。
私という殻は、殆ど剥がれ落ちていて。
私の下には、透き通るような桔梗の目。
大きくて、鏡のように綺麗な目。
そこに着物の女が映ってる。
それが、悲しい。
桔梗は鬼に恋してたんだって突きつけられて、悲しい。
桔梗が私に「さっさと死ね」と吐き捨てていて、悲しい。
だけど、ふふ、かまわないとも。
私はあの日、確かにそう言ったものね。
遅くなってごめんね。やっと約束を果たしてあげられる。
あなたのために、死んであげる。
ああ、だけれども、
ひとつだけ、叶うのなら。
せめて、摘んできた一輪の花を。
これから死にゆくあなたに手向けたかった。
なんだ、今更になって思い出した。これも走馬灯の一種だろうか。
つぅ、と頬を熱いモノが伝った。
あの花の名前は――。
息絶えた榊葉桔梗を抱え、窓硝子に映る半透明の私は、藤黄色の着物姿に戻っていた。姿かたちに頓着はない故、東雲あんずのカタチでもよかったのだが、意識が消えると体の造形も引っ張られるらしい。
腕の中の肉を見ると、喉が鳴った。
九年前に思った通り、榊葉桔梗は今まで食べた人肉の中で一番美味であった。長年見守り続けたことによる思い入れが、娘の味を一層引き立てていたのもあるやもしれぬ。
今すぐにでも、続きを食べたい。殺したてが一番美味いことはよく知っている。
されど、その前にやるべきことがあった。
私は、榊葉桔梗の肉を寝具まで運び、その上に寝かせると、彼女の服から携帯電話を取り出した。
液晶画面には七月二十二日と表示されている。ここに来る三日前の日付、東雲あんずが家を発つ前日だ。
カメラ機能を起動させた。東雲あんずの意識はなくなっていたが、知識は残っていたから、扱いに惑うことはなかった。
榊葉桔梗の艶姿を納める。できるだけ、雅に、美しく、うまそうに、蠱惑的に。何より私好みに。
これを東雲あんずに送り、私を呼び出すのだ。
この館は時の流れが止まっている。森の竜宮城からのメッセージは、正常な時間には届かない。日を跨ぐ刹那、その一寸の隙間に滑り込むこととなる。七月二十二日と表示されている桔梗の携帯電話から送信すれば、きっと七月二十三日零時零分のあんずの携帯電話に届くのだろう。
誓って言うが、私は榊場桔梗を殺すつもりはなかった。東雲あんずとして、見守り続けるつもりだった。私を求め、焦がれ、憂う榊場桔梗の姿は、なかなかどうして可愛げがあった。
されど、榊葉桔梗の味を知ってしまった以上、もはや見守ることは叶わない。
榊葉桔梗は私にとって、特別な人間だった。だからこそ、彼女の味は他の人間よりはるかに濃厚で、喉を爛れさせん勢いで熱く暴れ迸った。
ううむ、いかん。思い出してしまっては、たまらぬ。もう一口だけ。
首の肉に再び口づけする。まだ温かい血が噴き出して、甘美が脳を震わせる。榊葉桔梗に感謝する。これほどまでに美味い肉に育ってくれたことを。一片も残さず食らって報いることを約する。
されど、
されど、一抹の憂いが過る。
それは、破滅的な予兆である。
これほどまでに美味い娘を食ってしまっては、ここから先、私が充たされることは二度とないやもしれぬと……。
……考えても仕方あるまい。悪い予感を振り切り、私は携帯電話のメッセージアプリを起動する。
知ってしまった以上戻れない。この極上を自分に味わわせてやらぬなど、耐えられることではない。
館は私の体の一部と同じだから、彼奴等が幼さ故の無垢で、館を土足で駆け回っていたのも手に取るようにわかった。其れは別段構わぬことだった。
丁度腹が減っていて、そろそろ外に出なくてはと思っていたところだ。男子は玩具として愉しみ、女子は肉として楽しむが、人々に鬼と畏れられる私の生き方であった。
一羽の動きが止まったのがわかった。屋敷にある沢山の部屋の一つに入ったきり、身動き一つしなくなった。何をしているのか知らんが、動かぬならば都合が良い。其方から食うこととした。
部屋へ行き、真鍮製の握りを捻り、扉を開ける。誰か来たことは小鳥にもわかっただろう。刹那、空気がぶるりと震えた。
小鳥は寝台の下にいた。隠れん坊でもしているのだろうか。其方に近づくと、ばっと驚かすように小鳥が飛び出て、私の足に抱きついた。
「桔梗捕まえた!」
小さな可愛い子であった。
少女はぎゅうと目を瞑っていた。私のことを桔梗という友達と勘違いしていた。
やがてゆっくりと目を開き、私を見上げた。たちまち少女の心に震えが走り、大きな目が戦慄くように震え始めた。目玉は涙の薄膜と恐怖で覆われた。それもそうだろう。人間どもが噂するとおり、私は鬼の形相をしていたに違いない。玩具にする男子相手ならいざ知らず、飯にすぎぬ女子を相手に面を取り繕う由などなかった。
「あっ」
女子が小さな声を上げた時には、私は大口をあげて頭に噛り付いていた。
煎餅を砕くような音を立てて、髑髏を割っていく。溢れ出た甘酒のような血と、大福のように柔らかな脳を啜った。骨を噛み砕く感触は、いつだって小気味良い。女子の体が私の腕の中で震える。漏れる体液と尿が私の着物を汚していく。
赤い糸を引きながら私が女子から口を離した時には、頭の凡そ三分の一ほどが削れてなくなっていた。白目を剥いて震えながら、あっ、あっ、と小さく呻くしかできない女子。死に体であった。
「あんず……?」
声に振り向けばもう一人の女子も来ていた。開け放たれた扉のあたりで、私たちを見て立ち尽くしている。二羽の片割れ。その娘を横目に据えながら、手中の肉の咀嚼に戻る。殺したてが一番美味いのだ。
ほんの一歩だけ、娘が後じさった。私が食事をしているうちに逃げようと思ったのか知らん。逃げても構わなかった。この館は私の腹である。故に、私が許さなければ決して出ることは叶わない。私は肉に集中してよかった。
ずるっ、ずるっじゅっ、ぐちゅ……。
友達の体が細かに砕かれて、小さくなっていくのを少女はじっと眺めていた。けれど、その視線の意味は、実に奇なるものであった。目の前で起きていることに頭が真っ白になって動けなくなる者、蛇に睨まれた蛙のよう立ち尽くしてしまう者は仰山見てきた。されど、その娘は違った。
娘の目は、熱っぽかった。
私が脳を啜って、死に体が魚のように跳ねれば、応じて娘も体を悶えさせる。臓腑を貪られる友の姿に、顔を林檎みたいに赤くして、息を荒くさせている。齢十にも満たぬであろう女子とは思えぬ艶やかさにあった。
獲物を食い尽くした頃には、娘は腰が抜けてへたり込んでいた。痩せ犬のように物欲しそうな目をしている。
私は娘に近付くと、廊下の上に組み伏せた。
娘は、いよいよ苦しそうに顔を上気させた。
なだらかな肩の稜線、首に近い位置に歯を立てる。小さくあげた声のなんと色っぽいことか。まこと驚くべきことに、私の鋭牙が首の血管を破ろうという段になっても、娘が恐怖することはなかった。真逆、娘は真実、私に食われることを望んでいた。まるで思い人と褥を共にする生娘が如く――。まこと旨そうではあった。他の童よりもはるか美味である確信があった。しかし、それ以上に。
もっと見ていたいと思った。
かかる人間には初めて会った。食われるというのに、何故恐怖しないのか。私の十分の一も生きていないのに、なぜこうも艶やかなのか……。娘は私の興味関心を強く駆り立てた。
しかも、娘は、私に対して対等……いや、むしろ私より上に立っている心持のようだった。私に自分を食わせれば満足という面持ちをしている。
故に私は挑むように、問うた。
「そんなに喰われたいか」
腹の内を見透かされた恥ずかしさか、娘の目じりに涙の粒が浮かんだ。そのなんともいじらしいことよ。
私は娘を見守ることを決めた。喉までせりあがっていた食い意地を抑え込んでも、そうする価値があると思った。されど、見守るにしても今日まで弄んだ玩具どものように、屋敷に閉じ込めてしまっては駄目であろう。時の流れが止まった匣庭に置いてしまえば、虫の標本も同じである。この娘の翅は、誰にも縛られることなく、自由闊達に育てられなくてはならぬ。成長の舵取りに、私の希みが混じってはならぬ。友のように、傍らでこの娘を見守りたい……。
その時、妙案が私の中にわいて出た。
着物の帯の上から膨れた腹をさすった。
そうだ。今まさに、食ったばかりではないか。この娘の友を。
成ってしまえばいいのだ、友に。
成り代わるべき者の脳も肉も、私の中にある。ならば、その記憶を再現し、身体を作り直すなど、造作もない。
私は鬼。人ならざる力を持つ化生であるのだから――。
果実のようにみずみずしい唇が動く。
「久しぶりね、あなた」
榊葉桔梗は、私に優しい声をかけた。
「あなたじゃないよ……」
私は抗った。
「ちゃんと名前を呼んでよ」
「九年間、あなたとの再会を待ち続けた」
「私だよ。東雲あんずだよ、知ってるでしょ。幼馴染だもんね……?」
涙に声が震える。
「やっと会えたわね、あなた」
「私を呼んでよ! 無視しないでよ!」
怒号は、虚しく空気に溶けていく。
桔梗は私の方に顔を向けている。けれど、それだけだ。彼女は、私を見ていない。私の中を見透かすような目をしている。
そっか。この三年間、無視してたわけではなかったのかな。榊葉桔梗に私は見えなかったのかもしれない。
今だってそうだ。三年ぶりに私に話しかけてくれているけれど、それは、私の奥底に潜む『あなた』を呼び起こすための手段に過ぎない。……奥底。それも違うか。むしろ、東雲あんずこそが表皮。嘘のように薄い皮一枚に過ぎないのだから。この身を占める割合で言えば、東雲あんずの方が遥かに少ない。
「最初からその気だったの? 私をこの館に呼び出して、思い出させようって魂胆だったの?」
「なんのことかしら」
「……だって、桔梗がメッセージを飛ばしてきたんじゃない。私を探せって」
「この人が何を言っているかわからないけれど……私がここに来たのは、あなたに会うためよ。ここに来れば、思い出に会える。九年前、私を虜にしたあなたの思い出に……」
桔梗は目を細め、私の背後に視線を飛ばす。
「毎年ここに来るのよ、夏になるとね。三年前、あなたに振られてから毎年……」
遠い目は夏の夕焼けを想っている。妬ましいまでに。
「あなたの気を引こうと、あんずの皮をかぶってしまったあなたを起こそうと……三年前までは頑張っていたのだけれどね。食べられる量が増えるように肉をつけて、引き締まった歯ごたえを味わってほしく筋肉を鍛えて、脳味噌が甘くなるように勉学にも励んだ。美味しそうに見えるように……」
けれど。
桔梗が目を伏せる。
「この人は私に恋をした。恋なんてした。一緒にいたいなんてのたまった。食人欲求は我慢するなんて、とどめのセリフと一緒にね。私の気持ちも、努力も、三年前のあの一瞬ですべて裏切られたのよ。私の想いはあなたまでは届かず、東雲あんずなんていう表面をなぞることしかできないんだって失望して……それからは顔を見るのも辛かった。だけど」
桔梗が顔を上げる。心底嬉しそうな、恋する微笑を湛えて、あなたを見る。羨ましいほどに。
「今年でそれもおしまいね。長い、永い鬼ごっこだったわ」
ベッドから立ち上がり、歩み寄ってくる。
「必死に取り繕ってるみたいだけど、無駄よ」
私の首に手を回し、私を匂う。そして、顔を寄せ、耳元で囁く。
「クラクラしちゃう、ケモノ臭さ」
酔い、誘う、艶めかしい声。
ひび割れた私。隙間から覗く中身。
――東雲あんずの、薄っぺらさ。
九年前、東雲あんずは死んだ。
今いる東雲あんずは、鬼が作った仮面。
あんずの脳が有していた知識を集めて再現された工作。
東雲あんずの欠片の寄せ集め。我楽多。
それが私。
『恋に恋するのはやめなさい』
夢の中の、桔梗の言葉が蘇る。
初めて恋心を自覚した時、私は嬉しかった。
桔梗への想いが純粋だと気付けたから、とあの時は思った。
それは正確ではない。
本当は、拠り所を見つけて嬉しかったのだ。
無意識に気づいていたのだ。自分の感情が、人格が、脆い仮面であることを。
だから、恋を求めた。
恋心こそが、もっとも人間的な感情だから。動物や工作では抱くことができない想いだから。恋をすることで、私は仮面ではなく人間なのだと深層心理で安心できたから――。
恋に恋をしたのだ。
そうでなければ、説明がつかない。
だって、東雲あんずは、榊葉桔梗が嫌いだったのだから。
それが、東雲あんずの本当の感情だったのだから。
榊葉桔梗に恋する東雲あんずなど、偽者でなければなんだという。
「ねえ、触ってよ」
桔梗は私の手を取り、そっと自分の胸に触れさせる。柔らかな脂肪に、指が埋まっていく。
芥のような感情、偽りの恋心は、暴力的なまでの御馳走の押し付けに耐えられない。作られた人格に、本来の私を抑えられる理由がない。
だから、これが私にできる最後の質問だ。
「ねえ、『私』は誰なの」
「知らない」
思案するそぶりもない、淡泊な答え。感情なんて込めてくれていない。
胸をチクリと刺す痛み。心を針で突くような、小さくて苛烈な痛み。
それを、確かに感じている。
感じているのに。
これも、我楽多なのか。
これも、我楽多なのだろう。
だって、これは、鬼も東雲あんずも感じるはずのない痛みだから。
桔梗はふうと深く細く吸った後、私にしなだれかかってきた。香る彼女の匂い。めり込む軟肉の圧。もはや、私の言葉に耳を傾ける気もないのだろう。早く食えと訴えてきている。
たまらず、桔梗を押し倒した。怒りのように、衝動的に、暴力的に。
眼下には、くっきり浮きでた鎖骨と、そこから伸びる汗ばんだ首筋。
私の首の後ろに腕が回される。
はやく来てと、私を押し付けようとする。
視界がブレる。視界が重なる。
あの時の、あの夏の。
ダラダラと溢れるよだれ。
滴り、首の肉を濡らす粘液。
それがまた艶めかしくて。
私という殻は、殆ど剥がれ落ちていて。
私の下には、透き通るような桔梗の目。
大きくて、鏡のように綺麗な目。
そこに着物の女が映ってる。
それが、悲しい。
桔梗は鬼に恋してたんだって突きつけられて、悲しい。
桔梗が私に「さっさと死ね」と吐き捨てていて、悲しい。
だけど、ふふ、かまわないとも。
私はあの日、確かにそう言ったものね。
遅くなってごめんね。やっと約束を果たしてあげられる。
あなたのために、死んであげる。
ああ、だけれども、
ひとつだけ、叶うのなら。
せめて、摘んできた一輪の花を。
これから死にゆくあなたに手向けたかった。
なんだ、今更になって思い出した。これも走馬灯の一種だろうか。
つぅ、と頬を熱いモノが伝った。
あの花の名前は――。
息絶えた榊葉桔梗を抱え、窓硝子に映る半透明の私は、藤黄色の着物姿に戻っていた。姿かたちに頓着はない故、東雲あんずのカタチでもよかったのだが、意識が消えると体の造形も引っ張られるらしい。
腕の中の肉を見ると、喉が鳴った。
九年前に思った通り、榊葉桔梗は今まで食べた人肉の中で一番美味であった。長年見守り続けたことによる思い入れが、娘の味を一層引き立てていたのもあるやもしれぬ。
今すぐにでも、続きを食べたい。殺したてが一番美味いことはよく知っている。
されど、その前にやるべきことがあった。
私は、榊葉桔梗の肉を寝具まで運び、その上に寝かせると、彼女の服から携帯電話を取り出した。
液晶画面には七月二十二日と表示されている。ここに来る三日前の日付、東雲あんずが家を発つ前日だ。
カメラ機能を起動させた。東雲あんずの意識はなくなっていたが、知識は残っていたから、扱いに惑うことはなかった。
榊葉桔梗の艶姿を納める。できるだけ、雅に、美しく、うまそうに、蠱惑的に。何より私好みに。
これを東雲あんずに送り、私を呼び出すのだ。
この館は時の流れが止まっている。森の竜宮城からのメッセージは、正常な時間には届かない。日を跨ぐ刹那、その一寸の隙間に滑り込むこととなる。七月二十二日と表示されている桔梗の携帯電話から送信すれば、きっと七月二十三日零時零分のあんずの携帯電話に届くのだろう。
誓って言うが、私は榊場桔梗を殺すつもりはなかった。東雲あんずとして、見守り続けるつもりだった。私を求め、焦がれ、憂う榊場桔梗の姿は、なかなかどうして可愛げがあった。
されど、榊葉桔梗の味を知ってしまった以上、もはや見守ることは叶わない。
榊葉桔梗は私にとって、特別な人間だった。だからこそ、彼女の味は他の人間よりはるかに濃厚で、喉を爛れさせん勢いで熱く暴れ迸った。
ううむ、いかん。思い出してしまっては、たまらぬ。もう一口だけ。
首の肉に再び口づけする。まだ温かい血が噴き出して、甘美が脳を震わせる。榊葉桔梗に感謝する。これほどまでに美味い肉に育ってくれたことを。一片も残さず食らって報いることを約する。
されど、
されど、一抹の憂いが過る。
それは、破滅的な予兆である。
これほどまでに美味い娘を食ってしまっては、ここから先、私が充たされることは二度とないやもしれぬと……。
……考えても仕方あるまい。悪い予感を振り切り、私は携帯電話のメッセージアプリを起動する。
知ってしまった以上戻れない。この極上を自分に味わわせてやらぬなど、耐えられることではない。
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舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
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