7 / 8
7.
雑多なものが整理されずに放り込まれた物置だ。大八の片割れの車輪が一つだけ。割れた膳や古い甕、盥、筵や菰。ぞんざいに積み置かれた中に、苗を運ぶ桶や田植えに遣う型枠のような大きな物も置いてある。まだ泥土が乾かないでいるから下の棚田で使ったすぐあとなのだろう。
おこうは背負子に背を持たれ、足を長く伸ばしている。その隣に並ぶようにして胡座をかいた左吉が座っている。目が慣れてきたのか、開いた戸口の月明かりで、互いの表情が見て取れるようになってきた。
「ねえ、田植えを済ませたばかりなのだろうけど、鍬とか鋤とか鎌とか、それから藁切りなんかもないの。刃物だけ此処には置いてないの。他所に置いたんだろうね。きっと此処いらで怖いことがあったのよ。脱藩浮浪が此処ら辺に出てくるって言ってたよね。だから隠しているんじゃないのかな、物騒な物は」
多摩の農家で育ったおこうには物置にあるものの一つ一つが懐かしい。
「お百姓って危ないことには前からちゃんと備えておくのよね。虫が知らせるってか、里の方でもそうやってた。離れてずい分になるけれど里はみんな達者かしら」
奉公に出て六年、此れまではそんなことを考えてもみなかった。
じいちゃんばあちゃん、おとうにおっかあ、子ども三人がみんなで狭い田畑を耕して、やっとこさ食べていける生活だった。それでも昔から畑に出ることは大好きだった。嫌なことも多かったが、それでも楽しいことはあったのだ。農具の物置とその土にまみれた匂いが、幼いころの和んだ心を取り戻してくれる。
左吉の方はそんなことには関心も無い。ただ、おこうの顔がよく見てとれるようになると、次第に気恥ずかしくなってくる。
「なあ、おかしいといえば先ほどの親父、妙に思わなかったか」
「妙って? いい人じゃないの」
「いや、いい人だとは思うんだ。でも妙だ。茶店の親父は最初小田原提灯を持って下りていっただろ。ところがそのあと上がってきた時は丸提灯をぶら下げていた。直ぐ直ぐだぜ。その時一回り小柄になった感じがしたし、どうも気配も物言いも違っていたんだ」
「そりゃ、家に帰って小さい提灯に持ち替えただけよ。茶屋の店先にぶら下げた小田原提灯は魔除けにもいいっていうしさ」
「だからさ、あとで丸提灯を持った奴はきっと狐狸が化けたに違いねえ。親切で泊めてくれるにしてもだ。ふつうなら家の方に勧めるだろ。こんな物置小屋に泊めることはねえ筈だ。そういえば声も違っていたようだ。茶屋でおめえと話していたときは、もっと野太い声だったぞ。ありゃあ、きっと化け物だ」
「まあ、キツネかタヌキみたいに言って。此だけお世話になったお方なのに。あたいたちに気を遣ってくれたのよ。物置だからこうして気兼ねも無く休めるんじゃないの」
おこうはまた笑った。明るい大きな笑い声だ。
「でもさ、たとい化かされてるにしても、此だけ親切にしてくれて、此処で休めたんだもの。有難いキツネさんじゃない」
「そりゃあそうだが。道標の『こん助坂』ってのも気に掛かる。夜が明けたらとんでもねえ所に二人して座ってたりするのじゃねえかな…」
「いいじゃない。化かされていたって、左吉さんと二人だもの。こんないいことない」
「えっ?」
どういうことなんだと戸惑いながらも満更ではない。
「昼間に六郷の渡しで陸蒸気を見たでしょ。あんな大きいなりして、煙を吐きながらものすごい音を立てて、渡し船のすぐそばをぐいぐい渡って走り過ぎていった。すごい世の中だなって…、先のないお店にしがみついて生きていくのが馬鹿馬鹿しく思えちゃった。これからはどんなものが出てくるか分らない世の中よ。国境いを越えたらさ、もっと違った何かが見えてくるんじゃないかしら」
確かに左吉も思った。六郷であっという間に追い抜いていく陸蒸気を見ながら、とてつもない世の中が来たんだと。
「出来たら左吉さんと二人で違った世界に行ってみたい」
おこうの思う世界、どのような世界なのか…
引き込まれそうな気がした。俺と二人でか?
一人だろうが二人だろうが、いずれにせよ明日からは違った世の中で生きなければならない。
それは決して良い世の中の始まりとは限らない。江戸の暮らし向きは、明らかに維新前の方が良かったのだ。
「左吉さんには将来があるんだもの。あのままお店の中で弱っていく左吉さんを見たくなかった。丁度良かったのよ。みんな変わっていくの。どう変わるか、それはわからないけれど、これからは上手いこと自分で変えていったものが勝ちよ。左吉さんもあたしも明日からがご維新だわ」
「そりゃあ、俺にだってそんな気持ちはあるんだ。是までの柵から抜け出して、縁もゆかりもない新しい土地で、何にも無い所から始めたいってそんな気持ちはな。この間も弥之助に、『俺もそろそろどこぞに部屋を借りて通いになっちゃあいけまいか』そう言ったんだ。いずれは独り立ちをして所帯も持ちたいからな」
「旦那様、お許しだったかい」
「いや。あにさんがうちを離れてどうするんだい。あにさんはうちの家族なんだ。何時までもこのあわ屋にいておくれ。二階を自由に使ってくれていいんだから、てよ」
「そうね、旦那様ならそう言うでしょう」
「彼奴に引き留める気なんてある訳がないんだ。通いを認めたらずっとお店に俺がいるってことになる。都合良くこき使って、適当な所でお払い箱にする算段だろう。ところがだ、お前とのことで嫁取りに都合が悪くなると思ったら、手のひら返して、『あにさんすまんが鎌倉に行っておくれ』だ」
「あたいには、旦那様の言いたいことも分かるような気がする。左吉さんには叶わないと、どっかで思ってるんじゃないかしら。大旦那様もお上さんもいなくなって、支えがなくなってお淋しいのよ。『俺はあわ屋を洋菓子屋に変えるんだ。そうでなくちゃ何れ店を潰すようになる。それには、兄さんを洋菓子職人として修業させる。だからおまえと一緒に鎌倉へ行かせるんだ』なんて言ってたもの、本心は左吉さんに戻って欲しいのよ」
「そんなこと言っていやがったのか。伝助じいさんや番頭が言ってた通り、彼奴の言葉にゃいつも実がねえんだ。でもな、本心かどうだか眉唾物だが、少しは兄弟のよしみを思って言ったのかな」
「やっぱり、左吉さんはいい人。ねえ、鎌倉なんか行かないで、あたしと一緒にどっか遠くに行ってみようよ」
「どっか遠くへ行くのはいいが、金もない、仕事もないじゃあどうやって暮らすのだい」
「当座の金はあるわ。やる気さえあれば働き口なんて幾らでもあるわよ」
「それに、あれだ。おれとおめえはめおとでも何でもねえんだぜ」
「あら、冷たいのね。一緒にめおとイナリを食べた仲じゃないの。あたしね、左吉さんとこうなることを夢見ていたんだから。昔からずっと左吉さんのことを気にしていたんだよ。お店の井戸端にお稲荷様があるじゃない。あそこに毎朝願掛けをしたの。いつか左吉さんと一緒にしてくださいって」
おいおい、月明りなんかいらない。もっと暗くしてくれ…
左吉は返答もできず黙りこくってしまった。しゃべると言葉にならないくらいドキドキしていた。
『俺だって、お前のことがずっと前から好きなんだよ』
きっと人には見せられない顔をしていたに違いない。
「あっ、ここに糸繰り車が置いてある。あたし、子どもの時これでよく糸を紡いでいた。産まれ在所じゃあたしが一番うまかったのよ」
その時、亭主のこん助が戸口を覗いた。手には小田原提灯をぶら下げている。
「飲み水の差し入れに来やした」
懐から竹皮に包んだ握り飯を出して、水の入った竹筒を置いた。
「こんな物置じゃぁあれだが、少しはお休みになれやしたか?」
「お気遣いいただいて有り難うございます。おかげさまで、ゆっくり休ませていただいています」
おこうは相変わらず愛想が良い。
こん助は人の好い顔をして、並んで座った左吉とおこうを見比べた。
「左吉さんは欲のねえ実直なお方だ。でも、なんかじれってえねえ」
さては先程来の二人の話を聞いていたな
「四の五の言わず是非とも所帯をお持ちなせえ」
「お世話は有難いが、でもな、そりゃあ余計な口出しだ。ひっつく物なら端っからひっついていらあ」
「そうですかい。そりゃ余計なことでしたな。年寄りの口出しは嫌われて当たり前だ。でも左吉さん。おこうさんはいい世話女房になりやすで」
「分かってらあ。だがよ、俺にもその辺のところをどうすりゃいいのだか、さっぱり見当がつかねえんだ。俺だっておこうが嫌いな訳じゃねえのだから」
昔から好きだったのだ。井戸端でおこうと一寸交わす言葉が何時もの糧になっていたのだ。
「そうだよ。嫌いな訳じゃねえんだ。だから、おこうを養う甲斐性があればとうにそうなっちまってるさ」
本音が出た。
おこうの前では言えなかった。亭主が居てくれたから言えたのだ。
弥之助のせいだ。俺は弥之助に強い嫉妬を感じながら生きていたんだ。
「あたい、左吉さんと一緒なら貧乏だって構わないの。何だってやっていけるよ」
おこうは涙声になって訴える。
「そう言ったっておめえ、男だからな俺は。ずっと食わしてやる責任があらあ。でも、今の俺にはその男の甲斐性がまだねえんだよ」
「おやおや、男の甲斐性ってなんですか。一人で背負い込もうとしなさんな。めおとイナリですよ。先に茶屋で話しした通りだ。振り分け荷物みたく、互いの腹は違っていても、何時もしっかり結わえて前と後ろに振り分ける。二つ一緒で一つの肩に落ち着くんだ。重い荷物も二つに分けりゃ、背負い込んでも楽になる。前と後ろで釣り合いがとれる重さってのがあるんですよ。茶店でイナリを出して、旅路の小腹を満たすに丁度いい頃合いの大きさってのもある。大きすぎても駄目、小さすぎても駄目なのさ。頃合いがあるんですよ。いい頃合いで釣り合いを取らなきゃ、何にしても上手くはいかねえんですよ」
左吉もおこうも大人しく聞いている。
「一人じゃ苦しくても二人ならやっていけるもんだ。世の中、そんなものさね。どうだろうね、お二人さえ良ければ、あの茶屋をぜひ継いでおくんなさいよ」
「えっ!」
突然の亭主の提案だ。二人とも驚いた。
「国を捨てて新しい世界に飛び出るってのもいいだろうが、この国境いに留まって、坂の上からどんどん変わる横浜の港を見守って暮らすのも楽しいもんだ。あっしは娘二人を嫁にやってしまってもう後がない。年寄りの夫婦がそろそろ店じまいをと考えていたところだ。このご時世、脇道の峠の茶屋でどれだけも客がある訳じゃないが、一寸した畑もあるし、二人で何とか食べてはいける。左吉さんの腕を見込んで、旨いあんこのおはぎや団子を売っていけば続けていけるだろう。先の見えない世の中だが、それもやり方次第だ。年寄りに代わって、どうか後を継いではくれまいか」
そりゃあ願ってもない話だが…。
「おこうさえよけりゃあ、俺は此処で所帯を持ってもいいが。どうだ、おこう」
おこうは黙って俯いている。
嫌なわけがない。泣いているんじゃないかというほど黙りこくってしまった。
「よし、決めた。おこう、そうしよう。ご亭主、こんなありがてえ話はない。三代目こん助を是非わたしに継がせておくんなさい。どうだい、おこう」
おこうは黙って頷いた。
『あたしの願いが、とうとう弥之助さんの書いた芝居の筋を超えちゃったみたいだ』
「決まりだ!ここであんこの腕を磨いて、いずれ下の町にも出店を持ってやらあ。横浜の髪の黄色い奴ら相手に、思いっきり旨い饅頭を食わせてやるんだ。そうだ、彼奴らの口に合うような、洋菓子生地にあんこをたっぷり乗せた旨い菓子を拵えよう」
「そうそう、その意気。そうと決まれば苫屋根のぼろ家と小さい畑も二人に任せて、かかあと二人して娘らの里にでも行きますわい。夜が明けたらあんたら二人が峠の茶店の亭主です。キツネに化かされて、朝が来たらあの茶店の前に若いめおとが立って居るって寸法だ」
「でも、そりゃあんまりご亭主に甘えすぎだ。手切れにもらった路銀がある。少ないがこれであの店を買い取らせておくんなさい」
「何を遠慮しやることがありますか。此方こそ、老いぼれて後を継ぐ者もおらず難渋していたところだ。それを、降って湧いた救いの神だわ。まさにお稲荷様のお恵みだ。あっしらもこれで元の狐狸に戻れます。ぼろ家だがどうぞ遠慮無く、後は自由に使うてくだされ」
そういうと、ご亭主の姿がポッと消えた。
やがて周りが白んでくる。おこうは晴れやかな顔で微笑んだ。夕べは泣きはらしたのだろう、ずい分目元が腫れている。
「茶屋に上がってみようよ」
おこうはまるで慣れたような軽い足取りで崖道を上がった。あとから左吉もついて行く。
茶屋の向こうは富士山。古えから続く不二の秀峰がくっきりと聳えている。
振り返ったら横浜だ。眼下の港にもくもくと黒煙を上げた洋船が何艘も重なって見えている。
「左吉さんとあたいの新しい人生がここから始まるんだ」
境木の裏っかわに年老いた夫婦が歩いていった。まるで狐狸のような姿で消えていった。
おこうは背負子に背を持たれ、足を長く伸ばしている。その隣に並ぶようにして胡座をかいた左吉が座っている。目が慣れてきたのか、開いた戸口の月明かりで、互いの表情が見て取れるようになってきた。
「ねえ、田植えを済ませたばかりなのだろうけど、鍬とか鋤とか鎌とか、それから藁切りなんかもないの。刃物だけ此処には置いてないの。他所に置いたんだろうね。きっと此処いらで怖いことがあったのよ。脱藩浮浪が此処ら辺に出てくるって言ってたよね。だから隠しているんじゃないのかな、物騒な物は」
多摩の農家で育ったおこうには物置にあるものの一つ一つが懐かしい。
「お百姓って危ないことには前からちゃんと備えておくのよね。虫が知らせるってか、里の方でもそうやってた。離れてずい分になるけれど里はみんな達者かしら」
奉公に出て六年、此れまではそんなことを考えてもみなかった。
じいちゃんばあちゃん、おとうにおっかあ、子ども三人がみんなで狭い田畑を耕して、やっとこさ食べていける生活だった。それでも昔から畑に出ることは大好きだった。嫌なことも多かったが、それでも楽しいことはあったのだ。農具の物置とその土にまみれた匂いが、幼いころの和んだ心を取り戻してくれる。
左吉の方はそんなことには関心も無い。ただ、おこうの顔がよく見てとれるようになると、次第に気恥ずかしくなってくる。
「なあ、おかしいといえば先ほどの親父、妙に思わなかったか」
「妙って? いい人じゃないの」
「いや、いい人だとは思うんだ。でも妙だ。茶店の親父は最初小田原提灯を持って下りていっただろ。ところがそのあと上がってきた時は丸提灯をぶら下げていた。直ぐ直ぐだぜ。その時一回り小柄になった感じがしたし、どうも気配も物言いも違っていたんだ」
「そりゃ、家に帰って小さい提灯に持ち替えただけよ。茶屋の店先にぶら下げた小田原提灯は魔除けにもいいっていうしさ」
「だからさ、あとで丸提灯を持った奴はきっと狐狸が化けたに違いねえ。親切で泊めてくれるにしてもだ。ふつうなら家の方に勧めるだろ。こんな物置小屋に泊めることはねえ筈だ。そういえば声も違っていたようだ。茶屋でおめえと話していたときは、もっと野太い声だったぞ。ありゃあ、きっと化け物だ」
「まあ、キツネかタヌキみたいに言って。此だけお世話になったお方なのに。あたいたちに気を遣ってくれたのよ。物置だからこうして気兼ねも無く休めるんじゃないの」
おこうはまた笑った。明るい大きな笑い声だ。
「でもさ、たとい化かされてるにしても、此だけ親切にしてくれて、此処で休めたんだもの。有難いキツネさんじゃない」
「そりゃあそうだが。道標の『こん助坂』ってのも気に掛かる。夜が明けたらとんでもねえ所に二人して座ってたりするのじゃねえかな…」
「いいじゃない。化かされていたって、左吉さんと二人だもの。こんないいことない」
「えっ?」
どういうことなんだと戸惑いながらも満更ではない。
「昼間に六郷の渡しで陸蒸気を見たでしょ。あんな大きいなりして、煙を吐きながらものすごい音を立てて、渡し船のすぐそばをぐいぐい渡って走り過ぎていった。すごい世の中だなって…、先のないお店にしがみついて生きていくのが馬鹿馬鹿しく思えちゃった。これからはどんなものが出てくるか分らない世の中よ。国境いを越えたらさ、もっと違った何かが見えてくるんじゃないかしら」
確かに左吉も思った。六郷であっという間に追い抜いていく陸蒸気を見ながら、とてつもない世の中が来たんだと。
「出来たら左吉さんと二人で違った世界に行ってみたい」
おこうの思う世界、どのような世界なのか…
引き込まれそうな気がした。俺と二人でか?
一人だろうが二人だろうが、いずれにせよ明日からは違った世の中で生きなければならない。
それは決して良い世の中の始まりとは限らない。江戸の暮らし向きは、明らかに維新前の方が良かったのだ。
「左吉さんには将来があるんだもの。あのままお店の中で弱っていく左吉さんを見たくなかった。丁度良かったのよ。みんな変わっていくの。どう変わるか、それはわからないけれど、これからは上手いこと自分で変えていったものが勝ちよ。左吉さんもあたしも明日からがご維新だわ」
「そりゃあ、俺にだってそんな気持ちはあるんだ。是までの柵から抜け出して、縁もゆかりもない新しい土地で、何にも無い所から始めたいってそんな気持ちはな。この間も弥之助に、『俺もそろそろどこぞに部屋を借りて通いになっちゃあいけまいか』そう言ったんだ。いずれは独り立ちをして所帯も持ちたいからな」
「旦那様、お許しだったかい」
「いや。あにさんがうちを離れてどうするんだい。あにさんはうちの家族なんだ。何時までもこのあわ屋にいておくれ。二階を自由に使ってくれていいんだから、てよ」
「そうね、旦那様ならそう言うでしょう」
「彼奴に引き留める気なんてある訳がないんだ。通いを認めたらずっとお店に俺がいるってことになる。都合良くこき使って、適当な所でお払い箱にする算段だろう。ところがだ、お前とのことで嫁取りに都合が悪くなると思ったら、手のひら返して、『あにさんすまんが鎌倉に行っておくれ』だ」
「あたいには、旦那様の言いたいことも分かるような気がする。左吉さんには叶わないと、どっかで思ってるんじゃないかしら。大旦那様もお上さんもいなくなって、支えがなくなってお淋しいのよ。『俺はあわ屋を洋菓子屋に変えるんだ。そうでなくちゃ何れ店を潰すようになる。それには、兄さんを洋菓子職人として修業させる。だからおまえと一緒に鎌倉へ行かせるんだ』なんて言ってたもの、本心は左吉さんに戻って欲しいのよ」
「そんなこと言っていやがったのか。伝助じいさんや番頭が言ってた通り、彼奴の言葉にゃいつも実がねえんだ。でもな、本心かどうだか眉唾物だが、少しは兄弟のよしみを思って言ったのかな」
「やっぱり、左吉さんはいい人。ねえ、鎌倉なんか行かないで、あたしと一緒にどっか遠くに行ってみようよ」
「どっか遠くへ行くのはいいが、金もない、仕事もないじゃあどうやって暮らすのだい」
「当座の金はあるわ。やる気さえあれば働き口なんて幾らでもあるわよ」
「それに、あれだ。おれとおめえはめおとでも何でもねえんだぜ」
「あら、冷たいのね。一緒にめおとイナリを食べた仲じゃないの。あたしね、左吉さんとこうなることを夢見ていたんだから。昔からずっと左吉さんのことを気にしていたんだよ。お店の井戸端にお稲荷様があるじゃない。あそこに毎朝願掛けをしたの。いつか左吉さんと一緒にしてくださいって」
おいおい、月明りなんかいらない。もっと暗くしてくれ…
左吉は返答もできず黙りこくってしまった。しゃべると言葉にならないくらいドキドキしていた。
『俺だって、お前のことがずっと前から好きなんだよ』
きっと人には見せられない顔をしていたに違いない。
「あっ、ここに糸繰り車が置いてある。あたし、子どもの時これでよく糸を紡いでいた。産まれ在所じゃあたしが一番うまかったのよ」
その時、亭主のこん助が戸口を覗いた。手には小田原提灯をぶら下げている。
「飲み水の差し入れに来やした」
懐から竹皮に包んだ握り飯を出して、水の入った竹筒を置いた。
「こんな物置じゃぁあれだが、少しはお休みになれやしたか?」
「お気遣いいただいて有り難うございます。おかげさまで、ゆっくり休ませていただいています」
おこうは相変わらず愛想が良い。
こん助は人の好い顔をして、並んで座った左吉とおこうを見比べた。
「左吉さんは欲のねえ実直なお方だ。でも、なんかじれってえねえ」
さては先程来の二人の話を聞いていたな
「四の五の言わず是非とも所帯をお持ちなせえ」
「お世話は有難いが、でもな、そりゃあ余計な口出しだ。ひっつく物なら端っからひっついていらあ」
「そうですかい。そりゃ余計なことでしたな。年寄りの口出しは嫌われて当たり前だ。でも左吉さん。おこうさんはいい世話女房になりやすで」
「分かってらあ。だがよ、俺にもその辺のところをどうすりゃいいのだか、さっぱり見当がつかねえんだ。俺だっておこうが嫌いな訳じゃねえのだから」
昔から好きだったのだ。井戸端でおこうと一寸交わす言葉が何時もの糧になっていたのだ。
「そうだよ。嫌いな訳じゃねえんだ。だから、おこうを養う甲斐性があればとうにそうなっちまってるさ」
本音が出た。
おこうの前では言えなかった。亭主が居てくれたから言えたのだ。
弥之助のせいだ。俺は弥之助に強い嫉妬を感じながら生きていたんだ。
「あたい、左吉さんと一緒なら貧乏だって構わないの。何だってやっていけるよ」
おこうは涙声になって訴える。
「そう言ったっておめえ、男だからな俺は。ずっと食わしてやる責任があらあ。でも、今の俺にはその男の甲斐性がまだねえんだよ」
「おやおや、男の甲斐性ってなんですか。一人で背負い込もうとしなさんな。めおとイナリですよ。先に茶屋で話しした通りだ。振り分け荷物みたく、互いの腹は違っていても、何時もしっかり結わえて前と後ろに振り分ける。二つ一緒で一つの肩に落ち着くんだ。重い荷物も二つに分けりゃ、背負い込んでも楽になる。前と後ろで釣り合いがとれる重さってのがあるんですよ。茶店でイナリを出して、旅路の小腹を満たすに丁度いい頃合いの大きさってのもある。大きすぎても駄目、小さすぎても駄目なのさ。頃合いがあるんですよ。いい頃合いで釣り合いを取らなきゃ、何にしても上手くはいかねえんですよ」
左吉もおこうも大人しく聞いている。
「一人じゃ苦しくても二人ならやっていけるもんだ。世の中、そんなものさね。どうだろうね、お二人さえ良ければ、あの茶屋をぜひ継いでおくんなさいよ」
「えっ!」
突然の亭主の提案だ。二人とも驚いた。
「国を捨てて新しい世界に飛び出るってのもいいだろうが、この国境いに留まって、坂の上からどんどん変わる横浜の港を見守って暮らすのも楽しいもんだ。あっしは娘二人を嫁にやってしまってもう後がない。年寄りの夫婦がそろそろ店じまいをと考えていたところだ。このご時世、脇道の峠の茶屋でどれだけも客がある訳じゃないが、一寸した畑もあるし、二人で何とか食べてはいける。左吉さんの腕を見込んで、旨いあんこのおはぎや団子を売っていけば続けていけるだろう。先の見えない世の中だが、それもやり方次第だ。年寄りに代わって、どうか後を継いではくれまいか」
そりゃあ願ってもない話だが…。
「おこうさえよけりゃあ、俺は此処で所帯を持ってもいいが。どうだ、おこう」
おこうは黙って俯いている。
嫌なわけがない。泣いているんじゃないかというほど黙りこくってしまった。
「よし、決めた。おこう、そうしよう。ご亭主、こんなありがてえ話はない。三代目こん助を是非わたしに継がせておくんなさい。どうだい、おこう」
おこうは黙って頷いた。
『あたしの願いが、とうとう弥之助さんの書いた芝居の筋を超えちゃったみたいだ』
「決まりだ!ここであんこの腕を磨いて、いずれ下の町にも出店を持ってやらあ。横浜の髪の黄色い奴ら相手に、思いっきり旨い饅頭を食わせてやるんだ。そうだ、彼奴らの口に合うような、洋菓子生地にあんこをたっぷり乗せた旨い菓子を拵えよう」
「そうそう、その意気。そうと決まれば苫屋根のぼろ家と小さい畑も二人に任せて、かかあと二人して娘らの里にでも行きますわい。夜が明けたらあんたら二人が峠の茶店の亭主です。キツネに化かされて、朝が来たらあの茶店の前に若いめおとが立って居るって寸法だ」
「でも、そりゃあんまりご亭主に甘えすぎだ。手切れにもらった路銀がある。少ないがこれであの店を買い取らせておくんなさい」
「何を遠慮しやることがありますか。此方こそ、老いぼれて後を継ぐ者もおらず難渋していたところだ。それを、降って湧いた救いの神だわ。まさにお稲荷様のお恵みだ。あっしらもこれで元の狐狸に戻れます。ぼろ家だがどうぞ遠慮無く、後は自由に使うてくだされ」
そういうと、ご亭主の姿がポッと消えた。
やがて周りが白んでくる。おこうは晴れやかな顔で微笑んだ。夕べは泣きはらしたのだろう、ずい分目元が腫れている。
「茶屋に上がってみようよ」
おこうはまるで慣れたような軽い足取りで崖道を上がった。あとから左吉もついて行く。
茶屋の向こうは富士山。古えから続く不二の秀峰がくっきりと聳えている。
振り返ったら横浜だ。眼下の港にもくもくと黒煙を上げた洋船が何艘も重なって見えている。
「左吉さんとあたいの新しい人生がここから始まるんだ」
境木の裏っかわに年老いた夫婦が歩いていった。まるで狐狸のような姿で消えていった。
あなたにおすすめの小説
鸞の島
こいちろう
歴史・時代
鸞は鮮やかな青い羽根に覆われた霊鳥である。雛たちの前では子らが近寄り易いよう、落ち着いた色に姿を変えて現れるという。
年を経ると天上に上り天帝の御車に据えられる鈴となる。その鈴も鸞という。大鳥が鈴となるのか、鈴が大鳥となるのかは分からないが、鈴も大鳥も鸞である。その鸞は平穏な海を好むという。
世界に平和をもたらす真の指導者が現れた時、初めて鸞は自ら鳴る
いつか遠くへ
こいちろう
現代文学
定年も間近となり、社内で慰労会を開いてくれた。同僚と語らいながら、勤務して四十年程の日々を振り返る。代り映えしない毎日だったように思うが、出勤途中の電車の中で、このまま乗り過ごして遠くへ行ってしまいたい、知らない所に行って、誰もいない所で一人っきりで大きな声を上げて叫びたい。そんな気持ちになったことだってある。慰労会に集まってくれた同僚の顔をこうして改めて見ていると、その日々がふといとおしくなった。
ワスレ草、花一輪
こいちろう
歴史・時代
娘仇討ち、孝女千勢!妹の評判は瞬く間に広がった。方や、兄の新平は仇を追う道中で本懐成就の報を聞くものの、所在も知らせず帰参も遅れた。新平とて、辛苦を重ねて諸国を巡っていたのだ。ところが、世間の悪評は日増しに酷くなる。碓氷峠からおなつに助けられてやっと江戸に着いたが、助太刀の叔父から己の落ち度を酷く咎められた。儘ならぬ世の中だ。最早そんな世とはおさらばだ。そう思って空を切った積もりの太刀だった。短慮だった。肘を上げて太刀を受け止めた叔父の腕を切りつけたのだ。仇討ちを追って歩き続けた中山道を、今度は逃げるために走り出す。女郎に売られたおなつを連れ出し・・・
ノースキャンプの見張り台
こいちろう
児童書・童話
時代劇で見かけるような、古めかしい木づくりの橋。それを渡ると、向こう岸にノースキャンプがある。アーミーグリーンの北門と、その傍の監視塔。まるで映画村のセットだ。
進駐軍のキャンプ跡。周りを鉄さびた有刺鉄線に囲まれた、まるで要塞みたいな町だった。進駐軍が去ってからは住宅地になって、たくさんの子どもが暮らしていた。
赤茶色にさび付いた監視塔。その下に広がる広っぱは、子どもたちの最高の遊び場だ。見張っているのか、見守っているのか、鉄塔の、あのてっぺんから、いつも誰かに見られているんじゃないか?ユーイチはいつもそんな風に感じていた。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
痩せたがりの姫言(ひめごと)
エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。
姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。
だから「姫言」と書いてひめごと。
別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。
語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。
小日本帝国
ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。
大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく…
戦線拡大が甚だしいですが、何卒!
改大和型戦艦一番艦「若狭」抜錨す
みにみ
歴史・時代
史実の第二次世界大戦が起きず、各国は技術力を誇示するための
「第二次海軍休日」崩壊後の無制限建艦競争に突入した
航空機技術も発達したが、それ以上に電子射撃装置が劇的に進化。
航空攻撃を無力化する防御陣形が確立されたことで、海戦の決定打は再び「巨大な砲」へと回帰した。
そんな中⑤計画で建造された改大和型戦艦「若狭」 彼女が歩む太平洋の航跡は