花浮舟 ―祷―

那須ココ

文字の大きさ
11 / 59
第二幕

馴初

しおりを挟む

 鯨一郎邸門扉にて、当主の帰りを待つ影が一つあった。その姿を見留め、愛馬の手綱を引いた鯨一郎は溜息を堪える。

「殿、お帰りなさいませ」

「……門扉で迎えるのは止せと言ったはずだ。傍に門番が居るとはいえ危険だ。それに身体を冷やせば、腹の子に障るだろう」

 馬の鈍い茶の毛並みを撫でながら、嬉しそうに顔をほころばせる女を一瞥いちべつした。

「申し訳ございません、つい待ち遠しくって」

 鯨一郎の説教にも上機嫌になるばかりの彼女は、幻驢芭家の家臣である橋本家から嫁いで来た鯨一郎の正室である。出迎えなど臣下に任せれば良いものを、こうして自ら買って出たがる理由を鯨一郎は嫌っていた。

「遊郭上がりのめかけ風情には、門扉に触れることすら出来ませんものね。私が代わりに殿をお迎えしませんと、美瞳が可哀想ですわ」

 ついにはクスクスと笑い声を立てるので、鯨一郎は思わず足を止めたが、静かに深い息を吐き出すに留める。幻驢芭、白爪両家の絆をより強固なものにするべく、家臣同士で婚姻を結ぶことは珍しくない。彼女と夫婦として添うことも、鯨一郎にとってはないがしろには出来ぬ務めなのだ。 ゆえに、例え愛する者を侮辱されたとて、あまり咎めることは出来なかった。

「もう室に戻れ。夜半頃、私も戻る」

 唇を尖らせ渋々鯨一郎に追従するのをやめた室は、侍女に湯の準備を申しつけ、板張りの廊下を静静と去って行った。今度は安堵の混じった息を吐き、鯨一郎は彼女とは反対の方へ歩みを再開する。



『何だ鯨、そんなにその妓が気に入ったか。では私が買うてやろう』

 酩酊めいていした宵君の指先が傍の下男を手招きした。「女将を呼べ」と続く掠れた声に、呆気に取られていた鯨一郎は慌てて下男を引き留める。

 これは五年は前のことになるが、鯨一郎の記憶には昨夜の出来事のように、或いは昔に見た夢のように残り続けていた。あの頃の宵殿は、今となっては想像もつかぬ程に昼行灯ひるあんどんであられたな、と思い起こすことは最早日課である。

「……何度も申すようですが、私は斯様なかしまししい場は得手ではありません」

 遊女を待つ座敷にて、煙管の灰を火鉢に落とす宵君を見据え、鯨一郎は口を開いた。長身を行儀よく固め、正座をした膝の上で拳を握る鯨一郎を、宵君はおかしそうに眺める。

「良いではないか。お前はつまらぬ男ゆえ、座敷遊びでもたしなまねば生息子臭くて敵わん。連れて歩くのも時折嫌になる」

「きっ……! お戯れを、私には既に嫡男があります」

「そう身構えるな。切見世のように初対面で取って食われることはない」

 半ば無理矢理引きずられて訪れた花街にて、鯨一郎はいつも以上に胃のを痛める羽目になっていた。鯨一郎の顔に向かって宵君が吐き出した煙は、ほのかな甘い香りがする。

「……煙草ではありませんな」

「ほう? よう気づいたな」

「病み上がりのお身体に障りまする」

 それは煙草であっても同じよ。そう笑われてしまえば、鯨一郎は言い返すことが出来なかった。やがて一つの足音が近づいてくるが、宵君はおもむろに傍らの仮面を顔へあてる。すらりと襖を開け、敷居の外へ両膝をついたその人を見て、宵君は紺の紐を結い口を開いた。

「……佳凛かりんは如何した」

「青鳥と申します。佳凛は身体が優れぬゆえ、座敷まで這って来ようとするのを留め、代わりに私が参りました。今宵のお代は頂かぬと女将からの言伝です」

 軽く頭を下げ、淡々と述べた声は女人にしては低く、びぬ声だ。

「相わかった。……元より今宵の主客は私ではない。佳凛は私の昔馴染みゆえ丁度良いと思うたが……まぁ別のとて差異なかろう」

 そう陶器越しの視線を送られた鯨一郎は、宵殿、と縋るような声で咎めるが、襖を閉じた青鳥は静かに鯨一郎の隣へ腰を下ろす。荷葉の香を焚き染めた袖を整え、宵君の仮面を一瞥したようだったが、やがて鯨一郎と視線を合わせた。咄嗟に目を逸らす鯨一郎を叱るように、宵君が火鉢に煙管を打つ。

「そんなに硬くならないで下さいな。主様はお座敷遊びは初めて?」

「……左様。そこな御仁ごじんに、無理に連れられて参ったのだ」

 憎々しげに宵君を睨む鯨一郎に、ふふ、と笑う声が二つ聴こえた。

「それはそれは。宵様のことはあの妓からよう伺っております。大層意地悪がお好きと申しておりましたが」

「……まことに意地の悪い方だ、宵殿は」

 心外だな、と呟く声には答えないことにする。それが気に障ったか、もしくは単なる気まぐれか、宵君は再び喉で笑い声を立て、煙管で青鳥を指し示した。

「どれ、このような戯れはどうだ。 鯨、青鳥の真名を当ててみよ。外すたび着物を脱げ」

「宵殿、それはあまりに……」

「私が是というたなら是よ」

 唖然として拳を戦慄わななかせる鯨一郎を見て、青鳥は気の毒そうに「本当に意地悪なお人」と苦く笑う。

「それでは主様。私の名を当てて下さいな」

 かと言って青鳥は助け舟を出すわけでもなく、それどころか鯨一郎に名を答えるよう促した。青鳥自身、少々乗り気のところもあるが、何より宵君の機嫌を取っておいた方が佳凛にとって良いだろうと考えてのことだ。宵君を睨んでいたのと同じ目を青鳥に向けた鯨一郎だったが、観念し溜息を吐く。

「……其方は、美しい瞳をしているな。宵殿と同じ、清らかな浅瀬のような……あぁ、そうだ」

 ふ、と柔らかく微笑み、鯨一郎は此処へ来てやっと初めて足を胡坐あぐらに崩した。

美瞳みとだな」




しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

処理中です...