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第二幕
馴初
しおりを挟む鯨一郎邸門扉にて、当主の帰りを待つ影が一つあった。その姿を見留め、愛馬の手綱を引いた鯨一郎は溜息を堪える。
「殿、お帰りなさいませ」
「……門扉で迎えるのは止せと言ったはずだ。傍に門番が居るとはいえ危険だ。それに身体を冷やせば、腹の子に障るだろう」
馬の鈍い茶の毛並みを撫でながら、嬉しそうに顔を綻ばせる女を一瞥した。
「申し訳ございません、つい待ち遠しくって」
鯨一郎の説教にも上機嫌になるばかりの彼女は、幻驢芭家の家臣である橋本家から嫁いで来た鯨一郎の正室である。出迎えなど臣下に任せれば良いものを、こうして自ら買って出たがる理由を鯨一郎は嫌っていた。
「遊郭上がりの妾風情には、門扉に触れることすら出来ませんものね。私が代わりに殿をお迎えしませんと、美瞳が可哀想ですわ」
ついにはクスクスと笑い声を立てるので、鯨一郎は思わず足を止めたが、静かに深い息を吐き出すに留める。幻驢芭、白爪両家の絆をより強固なものにするべく、家臣同士で婚姻を結ぶことは珍しくない。彼女と夫婦として添うことも、鯨一郎にとっては蔑ろには出来ぬ務めなのだ。 ゆえに、例え愛する者を侮辱されたとて、あまり咎めることは出来なかった。
「もう室に戻れ。夜半頃、私も戻る」
唇を尖らせ渋々鯨一郎に追従するのをやめた室は、侍女に湯の準備を申しつけ、板張りの廊下を静静と去って行った。今度は安堵の混じった息を吐き、鯨一郎は彼女とは反対の方へ歩みを再開する。
『何だ鯨、そんなにその妓が気に入ったか。では私が買うてやろう』
酩酊した宵君の指先が傍の下男を手招きした。「女将を呼べ」と続く掠れた声に、呆気に取られていた鯨一郎は慌てて下男を引き留める。
これは五年は前のことになるが、鯨一郎の記憶には昨夜の出来事のように、或いは昔に見た夢のように残り続けていた。あの頃の宵殿は、今となっては想像もつかぬ程に昼行灯であられたな、と思い起こすことは最早日課である。
「……何度も申すようですが、私は斯様な姦しい場は得手ではありません」
遊女を待つ座敷にて、煙管の灰を火鉢に落とす宵君を見据え、鯨一郎は口を開いた。長身を行儀よく固め、正座をした膝の上で拳を握る鯨一郎を、宵君はおかしそうに眺める。
「良いではないか。お前はつまらぬ男ゆえ、座敷遊びでも嗜まねば生息子臭くて敵わん。連れて歩くのも時折嫌になる」
「きっ……! お戯れを、私には既に嫡男があります」
「そう身構えるな。切見世のように初対面で取って食われることはない」
半ば無理矢理引きずられて訪れた花街にて、鯨一郎はいつも以上に胃の腑を痛める羽目になっていた。鯨一郎の顔に向かって宵君が吐き出した煙は、ほのかな甘い香りがする。
「……煙草ではありませんな」
「ほう? よう気づいたな」
「病み上がりのお身体に障りまする」
それは煙草であっても同じよ。そう笑われてしまえば、鯨一郎は言い返すことが出来なかった。やがて一つの足音が近づいてくるが、宵君はおもむろに傍らの仮面を顔へあてる。すらりと襖を開け、敷居の外へ両膝をついたその人を見て、宵君は紺の紐を結い口を開いた。
「……佳凛は如何した」
「青鳥と申します。佳凛は身体が優れぬゆえ、座敷まで這って来ようとするのを留め、代わりに私が参りました。今宵のお代は頂かぬと女将からの言伝です」
軽く頭を下げ、淡々と述べた声は女人にしては低く、媚びぬ声だ。
「相わかった。……元より今宵の主客は私ではない。佳凛は私の昔馴染みゆえ丁度良いと思うたが……まぁ別の妓とて差異なかろう」
そう陶器越しの視線を送られた鯨一郎は、宵殿、と縋るような声で咎めるが、襖を閉じた青鳥は静かに鯨一郎の隣へ腰を下ろす。荷葉の香を焚き染めた袖を整え、宵君の仮面を一瞥したようだったが、やがて鯨一郎と視線を合わせた。咄嗟に目を逸らす鯨一郎を叱るように、宵君が火鉢に煙管を打つ。
「そんなに硬くならないで下さいな。主様はお座敷遊びは初めて?」
「……左様。そこな御仁に、無理に連れられて参ったのだ」
憎々しげに宵君を睨む鯨一郎に、ふふ、と笑う声が二つ聴こえた。
「それはそれは。宵様のことはあの妓からよう伺っております。大層意地悪がお好きと申しておりましたが」
「……まことに意地の悪い方だ、宵殿は」
心外だな、と呟く声には答えないことにする。それが気に障ったか、もしくは単なる気まぐれか、宵君は再び喉で笑い声を立て、煙管で青鳥を指し示した。
「どれ、このような戯れはどうだ。 鯨、青鳥の真名を当ててみよ。外すたび着物を脱げ」
「宵殿、それはあまりに……」
「私が是というたなら是よ」
唖然として拳を戦慄かせる鯨一郎を見て、青鳥は気の毒そうに「本当に意地悪なお人」と苦く笑う。
「それでは主様。私の名を当てて下さいな」
かと言って青鳥は助け舟を出すわけでもなく、それどころか鯨一郎に名を答えるよう促した。青鳥自身、少々乗り気のところもあるが、何より宵君の機嫌を取っておいた方が佳凛にとって良いだろうと考えてのことだ。宵君を睨んでいたのと同じ目を青鳥に向けた鯨一郎だったが、観念し溜息を吐く。
「……其方は、美しい瞳をしているな。宵殿と同じ、清らかな浅瀬のような……あぁ、そうだ」
ふ、と柔らかく微笑み、鯨一郎は此処へ来てやっと初めて足を胡坐に崩した。
「美瞳だな」
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