花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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第二幕

寄辺

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「……あぁ、やはり其方ではならぬな」

 明頼の頭を明瞭にしたのは、空を焼く朱でも、わずかな蕾の芽吹き始めた枝から鳥が飛び立つ羽ばたきでもない。その言葉の真意を尋ねるより先に、宵君は縁台から腰を上げた。

「其方の問いの答えは全て、其方が言いよどんだところにあろう。私に心中を明らかに出来ぬのであれば、私とて其方を選ぶことは出来ぬ。揺るがぬ実力の不足もある。大方、私の同志は暁光でなければならぬのか、との問いだろうが」

 言葉を切り、宵君は振り返る。握られたままの拳に視線を落とし、その口元が笑った。

「……しかし、其方の心にあるのは京でも公主でもなく、私の隣に並び立てぬ不服のみとは。随分、慕ってくれておるようだ」

「……何卒、何卒お許し下さいませんか。私の稚拙ちせつな心を、お許し下さいませんか、兄君」

 草履から足を抜き、宵君が襖の手前で立ち止まる。明頼は弾かれたように縁台から立ち上がり、柱に手をかけ縁側に立つ宵君に駆け寄った。

「貴方の隣に、など……暁光殿のような、雲の上の方に嫉妬心を抱くなど、烏滸おこがましいとは重々存じております。しかしなれど……」

「……明頼」

「貴方だけなのです! 武術の才もなく、生家から疎まれ、父君や母君も、幻驢芭に仕える者達すら『要らぬ用心であった』と笑った私を貴方だけが……」

 深い海の色をした目を細め、宵君は明頼が手を伸ばした右手を優しくやんわりと避ける。微かに指先を掠めた袖が、乱暴に振り払われるよりもずっと酷く明頼を打ちのめした。

「……先の問いの答えは、『』だ」

 ただ一言残して、宵君は立ち尽くす明頼に背を向けた。板の軋む音が遠ざかり、忙しなく務めに就き始めた家臣達のそれに紛れて消える。

「……貴方だけが、幻驢芭の次男として扱って下さいました」

 わずかに後ずされば、足の裏で砂利が擦れる音がした。風に吹かれ、所在なくただ揺れるのぼりのような心地に、明頼は固く瞼を伏せ、唇を噛むことしか出来ない。



「明頼殿」

 突如背後から掛けられた声に、明頼は飛び退くように振り返った。そこには庭に片膝をついた若い男が居り、その出で立ちから忍の類と理解したが、見覚えのない男だ。

「お初にお目にかかります、白爪の配下、虎牙と申します」

「……忍が名乗るとは、珍しい奴だな」

 警戒を僅かに緩めた明頼を見上げ、虎牙は頬を掻いて笑う。

「えぇ……だって、貴方はお味方になる方でしょ? あ、白爪の配下、って言いましたけど、俺は今は亡き大殿に仰せつかって洸清様に仕えてる身ですんで、当然火の中水の中、洸清様にお仕えするってわけなんですが」

 軽薄な笑いを零しながら紡がれる言葉を呆然と聞き、京で戦が起こることを前提としているような口ぶりに、明頼は堪らず声を上げた。

「待て。では洸清殿は、暁光殿と……」

「ゆうべは口利いてませんね。あぁ、兄弟喧嘩とかじゃなくて」

「分かっている。頼む、もう少し真剣に聞かせてくれないか。暁光殿も洸清殿も御心は揺るがぬのか」

 立ち上がり、さぁどうでしょう、と首を振った虎牙だが、真剣に、と頼んだ明頼の言葉を思い出したのか、「あー……」とばつが悪そうな声を漏らした。

「多分、もう戻らないと思いますよ。御二人共、頑固ですから。……俺だって、俺だってこんなことになるとか思わなかったよ、この前まで酒み交わして笑ってたのにさ」

 落ち着きなく手のひらで頬を撫でる虎牙の様は、由緒ある家に仕える忍の取る行動とはとても思えないが、その仕える家が割れようとしているのだから無理もないだろう。

「貴方はどうなさるんです? お宅の忍に止められて、先刻さっきの話は聞けなかったけど」

「あぁ、墮速だそくか……」

 とても忍びらしからぬ、薬草と花ばかりを扱っているどこか抜けた男を思い浮かべた。敵ではないとはいえ、よく知らぬ余所者よそものを宵君に近づかせなかった墮速の働きに、明頼は胸中で感謝した。幻驢芭に仕える忍である堕速は、堕們の実弟でもある。

「大体分かってますけどね。あんたがどうするか、っていうかどうすべきか」

「其方に分かるものか。分かってなるものか。私には、兄君だけが心のり所であったのだ、それを……」

「……そうやって、いつまで宵殿に寄っかかってんですか、あんた」

 苛立ちを隠しもせず、眉間に皺を寄せた虎牙は明頼の言葉をさえぎる。

「ああいう人が背負ってるものは、とんでもなく巨大なんすよ。あれくらい強くなきゃ押し潰されちまうくらい。それをあんたは一緒に背負うべきなのに……何であんたまで乗っかってんですか。それがあんたと上様……暁光殿の一番の差じゃないんですか」

 淡々と零れる言葉は矢尻のように明頼の肌を掠めたが、何も返す言葉はなかった。私は兄君を慕うつもりで怠慢たいまんの時を重ねて来たのか、と明頼は目を見張ったまま俯く。

「……兄君は、私如きに煩わされるような御方だろうか。否、其方のいう通りであるな。兄君の影となるつもりが、いつしかそのおみ足へ縋る荷になっていたのだ、私は」

 やがて随分長く庭に佇む明頼を不審がり、家臣達の足音が近づいてきた。それをいち早く察知した虎牙は、明頼に目配せを送る。

「其方の主へ伝えよ。この明頼、皇家への義のもと洸清殿にお味方致すと」

「……御意」

 襖の影から家人が明頼に声を掛けるより早く、虎牙は塀の外へ跳び去った。



「戻りました」

 簡潔な挨拶を述べ、虎牙は室の前で立ち止まり、跪いた。入れ、と声が掛かると、ぴたりと自身の身幅分のみ襖を開け、後ろ手に閉じる。

「虎牙、大儀であった」

「……まだ何も言ってませんけど」

「私はお前に任務を成すまで戻るなと言った。お前が戻ったということは、明頼殿にはこの私にご加勢頂けるということだろう」

 洸清の言葉に、虎牙は呆気にとられたが、そうですね、と大人しく口を閉ざした。そういうところは兄弟そっくりなんだよな、と内心で溜息を噛み殺し、随分と背の高い男の隣に腰を下ろす。と、その顔を見上げて虎牙は目を見開いた。

「えっ、鯨一郎殿! 何であんたが」

「私が呼んだのだ」

 鯨一郎に代わって答えた洸清は、虎牙に一枚の折り畳まれた書状を差し出す。傍へ寄ってそれを受け取り、目を通した虎牙は何すか、これ、と眉を潜めた。

「此度、公主殿下の権威をお護りすべくこの洸清と手を携えてはくれぬかと京中の武家諸侯へ文をしたためた」

「んな大胆な……」

「……だが、応えたのは此処に居る者達のみ」

 洸清の言葉に顔を上げ、面々を見渡せば、鯨一郎をはじめ五名の男が軽く会釈をする。幻驢芭家に仕える者は無論、酒熾家の恭也をはじめ白爪家に仕える家の者も席を空けたままである。

「たった、これだけっすか」

「案ずるな。これを見よ」

 引き攣った声を漏らす虎牙に洸清が見せたのは、上等な紙に幼い文字が走り、皇家の印がされた書状であった。それを受け取った虎牙は、何度もその書面を視線で辿る。

「皇家の近衛軍、実に三万の兵の使役を許可する……?」

 洸清は書状を返すよう手で合図し、虎牙はそれに従い元通り折り畳んだ文を差し出す。

「深夜、御所から密者が参ってな。公主殿下は宵殿、暁光殿への賛同を撤回され、御二人に御所へ出頭するよう命ぜられたが、これを拒否されたとのこと。つまり我々は謀反人むほんにんではない」

「謀反はあの御二人の方、ってことですか」

 それでいて、この味方の少なさは一体何なのか。虎牙は首を捻った。あの御二人も、大概滅茶苦茶なことしてると思うんだが、何でそんなに味方がつく? 考えを巡らせていると、洸清がひとつ溜息をつく。その表情は苦々しく、書状を袂へ仕舞うと指先で脇息きょうそくの細工を弄んだ。

「……あちらには管納院がついている」

「はぁ……成程。寺が着く方に民は着く、武家だって仏を信じる民だ。誰しも仏敵にはなりたくないってことっすか」

「神子には背けど、仏には背けぬらしい。こんなことならば、御所の向かいに社でも祀っておくのだったな。今更後の祭りだが……」

 苦笑いする洸清に、家臣どもは唸る。では、この面々は信仰を捨て、義を選んだ者達か。虎牙は数度頷き、分かりました、と呟いた。

「……それにしても、洸清殿も人が悪い」

 肩の力を抜いた虎牙の言葉に洸清は首を傾げる。主上への侮辱ともとれる発言を咎めようと鯨一郎が腰を上げる前に、だって、と遮った。

「俺が明頼殿の元へ行く前に、公主殿下を言いくるめて兵を動かす許可を取るなんて、意外でしたよ」

「……お前の手腕は信用している。明頼殿にお味方頂けることは、お前を遣わせようと考えたとき既に決まっていた。ゆえに、公主殿下には初めからそのようにお伝えしたまで」

 珍しく僅かに微笑んだ洸清は、淡々と告げる。つい先日までは暁光の後姿を追ってばかりいたというのに、不気味な程洸清は冷静だった。

「人も悪くあらねば、何一つ成せることなく捻り潰されて終わる。あの御二人を相手取るならば清い手段ばかりを選んでは居れぬだろう」

 洸清は深緑の目を伏せ、首に飾った勾玉守を撫でる。深く、それでいて澄んだ赤い石。昔日せきじつに暁光が土産だと洸清に贈ったものだ。兄の首には、三つの翡翠の勾玉が飾られている。清らかな緑を綺麗だろう、と撫でていた兄の笑みを思い浮かべた。

「互いの首を護るように、と祈ったのに……」

 呟きを声に乗せていたかどうか。少なくとも、この場の誰一人それに答えることは出来なかった。



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