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第二幕
悪夢
しおりを挟む枯れた大地を駆け抜ける数多の人影と、唸る怒号、地響きに似た足音。
細い黒煙が立ち上り、辺りには錆と硝煙の匂いが充満している。戦というものは、だだっ広い野っ原で営まれるはずであるが、何故か何度立ってもどうにも息苦しい。漂う空気そのものに、緩やかに首を絞められるような場所だ。
明頼は脇差の柄を握り締め、折り重なる屍に足を取られながら本陣を目指した。前後の記憶は朧げだが、自陣が劣勢であることは察しがついた為、本陣に居るであろう宵君に応援の要請をしなければならない。既に誰かが向かったかもしれないが、明頼は己は死んではならない人間であるという自覚から、無意識に安全を求めて足を動かしていた。
「兄君……」
やがて砂煙の波間に求めた背中を見つけ、明頼は口を動かすが、喉がつかえたように声が出ない。もう一度兄君、と呼んでみれば、やはり声は音にならなかったが、宵君は緩慢に此方を振り返った。
その刹那、ど、と肩に衝撃を受け、肩口から腹にかけて生温く濡れる感覚がした。咄嗟にそこへ手を当てれば、ぬるりと鉄臭く鮮やかな赤が手指に絡みつく。開いた口から温かな体液が垂れた。兄が手にした太刀の刃にも同じものが絡み、滑らかな白い鉄を伝っては砂地に染みる。
徐々に意識を蝕む暗雲は、何故だか堪らなく恐ろしく思え、明頼は再び刃を振り翳した兄に手を伸ばした。
――兄君!
酷い動悸で目を覚ました明頼は、呆然と荒い呼吸を繰り返していたが、やがて自身が悪夢に魘されていたのだと理解した。
またか、と呟いた声は誰に聞かれるでもなく、白い息と共に寝所の天井へと吸い込まれていく。そこには苛立ちが滲み、どうにも寝直す気になれない明頼は静かに縁側へと歩み出した。木目の軋む音と、明朝の凍てつく空気はいくらか心を落ち着けてくれる。
「近頃は毎晩こうだな。兄君と争う夢ばかり……私にとっては、何より残酷な魘夢だ」
まだ心地よい冷水のような風に当たっていたいが、全身に汗をかいているし、風邪にでも罹ればきっと宵君を心配させてしまう。明頼は不寝番を呼び、着替えと温かい茶を持つよう頼んだ。腰紐を解いて袷をくつろげ、仕方なくきちりと戸を閉めて布団に戻る。
今夜この場に妻が居なくて良かった、と内心で零し、明頼は額に張り付いた前髪を払った。侍女が差し出した着替えに袖を通し、気持ちばかり厚着となった明頼は躊躇いつつ再び縁側へ出て、草履をものぐさに砂利に落とす。どうしても、閉じた室の中では良くない思考ばかりを巡らせてしまう。ゆえに明頼は、直に寒空を見上げ、飛び去る鳥を羨むことにしたのだ。だが、それがかえって良くなかったらしい。
「明頼」
深く落ち着いた、兄の声が聴こえた。これは明頼にとってのみそうなのかもしれないが、宵君は、名を呼ばれただけで膝を折って泣いてしまいたくなるような、安堵と感傷を誘う声をしている。振り返れば優しく微笑む彼の人が佇んでおり、少し乱れた襦袢の袷を整えていた。
「如何したのだ、其方にしては珍しく、早起きではないか」
「いえ……少々、夢見が悪く」
口を開いて気づく。べつに、悪夢のことは伝える必要はなかったのではないか。宵君に問われれば、不思議と真実を答えてしまう。
「なんだ、其方もか。私も近頃は不快な夢ばかり見るのだ」
明頼は思わず「兄君が?」と聞き返した。この常に落ち着き凛とした兄が、自分と同じように悪夢に疲れ、明け方の邸内を彷徨っていることが心底意外であったのだ。両目を瞬かせる明頼と同じ仕草で、否、幾分丁寧に草履を庭へ下ろし、宵君は縁側から砂利の上へ降りる。
「折角だ、少し話さぬか」
「……はい、喜んで」
宵君の、皮膚の引き攣れた横顔を滲ませるように、眩い暁が迫っていた。
「兄君、失礼します」
雀の囀る桜の木の下、庭の縁台に腰を下ろした宵君の肩を明頼は自らの打掛けで覆う。宵君はそれに手を重ね、笑いながら首を傾げた。
「これでは其方が寒かろう」
「私は良いのです。幻驢芭の次男として、当主を護る為だけに生きている」
少し目を見開いたあと苦笑いを零す兄の隣へ腰掛ける。長い濡羽の髪が薄浅葱の打掛けに清水川を描くのをぼんやりと眺めるうち、明頼の口はするすると勝手に言葉を紡ぎ出した。
「父君は、いつも私に仰いました。『いつも兄を助け、護りなさい。その命に代えても』と。父君にとって、幻驢芭にとって私は、兄君の用心でしかなかったのでしょう」
「其方は幻驢芭に来て、損ばかりをしておるな。しかし其方は全て受け入れ、まことの弟のように私に笑ってくれる。そんな其方が、まことの兄弟のように愛おしい」
思いがけぬ返事に、明頼は目を見張る。思わず宵君の顔を見上げれば、ただ優しく笑う左目と視線が合った。刹那に、明頼は声を奪われたようにひとつ短い息を吐き、目を逸らす。面と向かって尋ねたかったことが痼となって喉の奥でつかえたように、何一つ言葉にすることが出来ないのだ。
兄君、とやっと吐き出した声は、酷く掠れて情けない。宵君には明頼の胸中はお見通しだろうが、あえて口を開くことなく、明頼の二言目を待っていた。乾いた唾液を嚥下する。握った手のひらは酷く冷えているが、身体の中心は戦場に立つ前夜のように熱く脈打っていた。
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