花浮舟 ―祷―

那須ココ

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第二幕

決別

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「――は、兄上、今何と……?」

 洸清の驚嘆きょうたんした声に目を伏せ、暁光は訊き返された言葉を今一度繰り返した。

「昨晩の会談で取り決めた。来月の公主殿下の髪上げののち、宵殿が次代の御門となられる」

「信じられません……公主殿下は! 殿下は、どうなるのです」

 両の膝で硬く握った拳を震わせ、洸清は兄に詰め寄る。暁光はくつろいだいだまま視線を縁側に向け、小さく溜息のようなものを漏らした。痺れを切らした洸清が身を乗り出しかけると、暁光はそれを片手で制し、いくらか姿勢を正す。

「……宵殿と婚姻を結ばれ、后妃こうひとなられるのだ。幻驢芭家は皇家の血も色濃く、この京もこれまで宵殿が護って下さったようなもの。公主殿下をはじめ、頼鹿よるか殿に清高きよたか殿、それから、恭也きょうやもこの婚儀に賛成している」

「そんな、象徴どころか、玉座そのものを宵殿に譲渡せよと仰ったのですか。公主殿下は兄上を慕っておられるのに、その兄上が面と向かって他の男と結ばれろなどと……」

「洸清、口が過ぎるぞ」

「いいえ……いいえ兄上。こればかりは、貴方のお考えといえども、私は頷くわけには参りません」

 暁光の眉間に皺が寄る。滅多に目にすることのない、平生穏やかな兄の怒りに洸清は一瞬ひるむが、微かに湿る手のひらを握り直した。

「公主殿下がこの状況に、どれほど傷ついておられるか……」

「……では仮にお前が嘉阮かげんの皇帝であったとしよう。幼き姫君の統治する京とあの宵殿の統治する京、どちらを攻める」

「それは……」

「分かってはくれぬか、洸清。確かに公主殿下が王位を継がれても、他国の進軍を宵殿が阻むことに変わりはない。だが宵殿が御門ならばどうだ? あの恐ろしい『宵君』が御門ならば、奴らはその進軍すら躊躇ためらうだろう。兵や民の犠牲は格段に減る」

 洸清は唇を噛んだ。きっと兄は、公主に対しても同じ文言での説得を述べたに違いない。形のみの婚儀です、宵殿が護って下さるのです、と。初恋を訴える幼き瞳を、民を思うならと優しく封じたのだろう。

 ――そのような言い方をされては、お優しい公主殿下に反対など出来るはずもないのに、兄上は酷なことをなされる。

『俺から見りゃ人並み外れてしたたかで厭らしい人ですよ』

 耳を掠めた虎牙の声を振り払うように、洸清は立ち上がった。未だ庭の冬牡丹を眺めたままの暁光に背を向け、「頭を冷やして参ります」と逃げるように暁光の室を後にする。

 京の置かれている状況よりも公主の胸中を思うことは、若さゆえの感傷と言われるのが怖かった。今はこれ以上、兄の言葉を聞く気にはなれない。どちらへ、と尋ねる侍女をあしらって、洸清は邸の門扉もんぴを潜り、ふらふらと生まれ育った街並みを踏み始めた。

 暮れかけた朱い空は、暁光の目と同じ色をしている。すぐ傍らの足元から遠い丘までを見通すようなその兄の目を尊敬していたし、美しい赤はどこまでも澄んでいるものと思っていた。しかし実際は、数多の人の血をすすったような、どす黒い赤にも見える。そのことに洸清はずっと気づかない振りをしていた。

 飴売りとすれ違った刹那せつな、柔らかな懐かしい匂いが風と共に吹き抜け、その優しさに洸清は深い溜息を吐き出す。

「……もうあの飴を買い求めた頃の兄上は、居られないのだな」

 言葉にしてしまえば、憧れは憎しみへと形を変えてしまう。きっと最善ではないのに。もっと公主を苦しませずに済む道が、あの人になら見えているはずなのに。それを選ばないのはなぜか。

「やはり御野心か、兄上」

 いつかの酒宴の席で、宵君は暁光に語っていた。

『其方のことはまことの弟と思い、また無二の右腕とも思うておる』

 照れ臭そうな兄の笑顔と、はやし立てる皆の声。洸清の目にはそのどれもが微笑ましく映っていたが、思えば宵君と暁光は、あのとき既にちぎりを交わしていたのかもしれない。己にも制御のできない、行き場のない嫉妬ともどかしさが、今にもはらの奥から噴き出しそうだった。

「……虎牙。居るのだろう」

 薄暗く静まった小路で、洸清は頭上の松の木に話しかけた。微かな風を纏って地面へ降り立った忍は、怪訝そうな面持ちで居たが、やがて砂利に跪く。他に人の気配がないことを確かめ、洸清は口を開いた。

「明頼殿へ言伝を頼む。……最早他に道はないと」

「……いいんですか?」

 無意識に訊き返し、しまった、と口を押えた虎牙だったが、洸清はそれを咎めることなく「良い」と頷き、背を向ける。寂寥せきりょうを隠しきれない声だが、虎牙は御意、と再び樹木へ跳び移った。 遠くで聞こえる喧噪けんそうに目を伏せ、洸清は重い足取りで帰路につく。

「……良い、後悔はせぬ」

 冬の木枯らしか、幼き頃の兄の声が呼び留めるが、洸清は振り返らなかった。




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