花浮舟 ―祷―

那須ココ

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第二幕

暗躍

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 白みきらぬ空に、二頭の馬の荒々しい白い息が立ち上る。冬の霜を纏った草場を蹴って、京を一望する丘に立ち止まった影はまだ朧である。馬の背から降りて豊かな黒髪を首筋から払い、宵君はもう一人の男を振り返った。

「洸清に勘付かれたか」

「……申し訳ございません」

 頭を下げる暁光ぎょうこうから視線を外し、宵君は唸る。

いや……良い。其方らは父君も母君も同じ、二人だけの兄弟。其方が如何に上手く立ち回ろうと、いずれ腹は割れてしまうのであろう」

 微笑んでいるようにも見える横顔に、暁光は宵君と弟の明頼あけよりには血の繋がりがないことを思い出した。幼少の折から病をわずらってばかりいた宵君を見て、彼の父は万が一の為にと白爪家の親類から明頼を養子にとったのだ。

 ――しかし、宵殿はこれまで幾多の死線を退け、今も幻驢芭まほろばの当主として、否、京の実質的な御門みかどとして立派に務められている。今の京を護り治めることは、あの幼き公主には難しい……いっそ危険なのだ。

『御野心でないならば』

 旋風つむじかぜのようにこだまする洸清の声に、暁光は眉を潜める。野心などではない、と言い切ることが出来なかったのは、胸の内にくゆる紛れもない欲のせいであった。公主を天子の象徴とし、宵君と手を携えて、両家でこの京を治めて行けたならどんなにいいか。まさか洸清と思想をたがえる日が来ようなどと、暁光は夢にも思わずにいたのだ。すっかり濃く明瞭めいりょうになった己の影を見下ろし、暁光はひとつ白い息を吐いた。

「……明頼殿は、ご存知なのですか」

「否。……しかし、時間の問題であろうな。あれは案外さとい男ゆえ」

 洸清と明頼は年も近く、頻繁に連れ立って出かける仲だ。もしかしたら、既に洸清の口から伝わっているかもしれない。

 暁光が考えを巡らせていると、突然背後の茂みから「上様」と鈴の鳴るような声が聴こえた。その呼称は宵君にとっても暁光にとっても馴染み深いものだが、聞き慣れた声に暁光は自分に向かって呼びかけられたのだと悟った。

「シジミか」

「……ご報告申し上げます、上様」

 茂みに身を潜めたまま、彼女は厳かに告げる。加賀党の件だろうか、と暁光が考えるより先に、シジミが語ったのは洸清の密告だった。

「弟御が明朝みょうちょう、上様が邸を発たれた直後、御所ごしょに向かわれました。勝手ながら追尾致しましたところ、お二人の動向を公主殿下へお話になり……」

 言い淀むシジミに続きを促せば数段険しい声で、暁光にとって、また宵君にとっても信じがたい言葉が紡がれた。

「それから、『この洸清、明頼殿とともに、宵殿や我が兄、暁光に背こうとも、戦を構える事態となろうとも、公主殿下の権威をお護り致します』と」

 暁光は耳を疑ったが、シジミが暁光に虚言をするはずもない。

「洸清は、我々が公主殿下を象徴とするなら戦も辞さぬというのか」

「左様なことをお話したのでは、公主は我らが御身を脅かす気であると誤解なさるのではないか」

 宵君の声はどこか白々しく、「恐ろしいことよ」と笑い混じりの言葉には暁光のような狼狽は滲んでいない。日が照らす陶器の仮面を指先で撫で、宵君は暁光に視線を向ける。

「のう、暁光」

「……えぇ、全く……血の気の多い弟だ」

 誤解ではありますまい、と口に出せる程シジミは命知らずではない。何より暁光の意志がシジミの意志であり、彼が宵君に従うのであれば彼女もそうするまでのこと。その答えを知っているであろうに、「其方は如何する、シジミ」と宵君は首を傾げた。無機質な陶器を一瞥したシジミは、その目差しを暁光に向け、深く頭を垂れる。

「シジミは上様の忍。ゆえに、煉獄れんごくの果てまでも上様に御供致します。……さて、もう日が昇りきります。そろそろ邸に戻られませ」

 ただ一言頷いた暁光は、宵君に一礼して愛馬の首を撫でる。宵君から一拍遅れて鞍に跨り、その後姿を見送りきらぬままに手綱を強く引いた。

 御所の後方にたたずむ菅納院は、かつての時の御門が晩年に建立こんりゅうしたといわれる。
 彼は現在の公主の曽祖父にあたり、政にも戦にも類稀なる才覚を持っていたが、即位からわずか五年でこの世を去った。御年四十三歳であったが、皇家の血筋は皆六十年は存命であったことから、京の民は彼の死を酷く惜しんだという。

 細い湯の筋が碗へ注がれる様を眺めながら、宵君は重い口を開いた。

「……既に公主のお耳に入っているとは……もう少し猶予のあるものと思っていたのだが」

「白爪のぼんの猪突は、貴方も誤算やったなぁ。ま、うちらは宵殿に賛成や。寺が味方するいう方に民もつきますわ。そないなったら弟御らも思いとどまりますやろ」

 端整な僧侶の笑い声に、宵君は目を伏せる。傍らに置いた陶器の仮面を、こつ、と爪でひとつ叩いた。

「……だと良いが。全く、若さというのは眩く良いものだが、時に厄介よの」

 茶筅ちゃせんの立てる軽やかで瑞々みずみずしい音は、宵君の思考を邪魔立てすることなく、また静寂ほどには淋しくもなく、好ましい音色である。菅納院宗主、悦鏡えつきょうの振る舞う茶はどこか懐かしく、疲弊ひへいした心身を休めるのに丁度良かった。
 ここ菅納院には、宵君と同じ天然痘てんねんとうを患い、顔を失ったことで出家した鯨一郎の兄が身を寄せているが、滅多に姿を見ることはない。

「……今、京を護るのに必要なんは力と才や。貴方は何も間違うとらん、公主にはこの京を護ることは出来ん。どないに励んだところで、童は童や」

 茶碗を差し出しながら、悦鏡は開くことのない瞼の向こうから宵君を見詰めた。永遠の暗闇の中で彼に見えているものは、不思議と正しい未来のように思える。椿の葉が風にささめき、ひとつ白い花の首が揺り落ちた。宵君が温かい茶碗を手のひらに収めると、畳に身を屈め、ぐっと潜めた声で悦鏡は囁く。

「宵殿にしか出来ひん。……貴方が御門におなり」



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