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第二幕
夜半
しおりを挟む「兄上の御心が分からない」
小石で水面を揺らしながら、苛立たしげに洸清は溜息を吐いた。石が水を切る音を聴きながら傍に控える虎牙は、「元からそういう方じゃあありませんでしたかね」と苦笑いをこぼす。
「違う。兄上は私には常に全てを話して下さった。あのように含んだ言い方をされたことは、今までただの一度もない……。それに、まことに御野心から公主殿下を象徴化しようとなさっているのか甚だ疑問だ」
「まァ、大人は洸清様が思うよりずっと汚いモンですから……。上様だって立派な大人でしょう。じゃなきゃこんな体制が出来たと思います? 抑も、ですよ。公主殿下の幼いのを一番好都合に思ってるのは、あの御二人なんじゃ」
退屈そうに欠伸を堪える虎牙の首筋に、す、と冷ややかなものがあてがわれた。微かに薄皮を破る短刀の刃は、怒りで震えているようだ。
「この洸清の前で、兄上を侮辱するか。私は『兄上の御心が読めぬ』と申したまで。忍風情がペラペラと、余計な口を利くな。次はない」
少量の血を流した傷口を指で摩り、虎牙は素直に謝罪を口にした。そうでなければ、喉を掻き切られかねない。洸清とて一時の感情で兄の頼りとなる忍を殺しはしないだろうが、保身には敏感な虎牙である。
「そこまで慕ってらっしゃるなら、直接上様に伺えばいいんじゃないですかね。ほら、上様だって洸清様には弱いっていうか、兄馬鹿……じゃなくて、弟想いじゃないですか。ちょっと引くくらい」
「お前は一言も二言も余計だな。まぁ良い……直接伺えれば楽なのだがな。もし兄上がただ、私を試しておられるのならば、兄上に答えを求めては失望させてしまうだろう」
「……本心なんじゃないですかね」
ぴたりと小石を弄ぶ手が止まる。洸清は図星を突かれたように息を飲み、虎牙を振り返った。
「それはどういう意味だ」
口にして後悔する。先程ああして余計な口を利くなと牽制したのだから、黙れというべきだったのだ。しかし洸清は問うてしまった。洸清に問われたからには、虎牙は洸清が最も聞きたくないことを、洸清の許しを得て口に出来る。
「だって今まで試されることも誤魔化されることもなかったんでしょう? なら、『野心と呼べないこともない』ってのが、上様の率直な本心なんだと思いますよ」
虎牙は水面だけを眺め、淡々と告げる。洸清も暁光の本心を漠然と感じ取っていた。しかし、それでも「私の意を酌んでみよ」との兄の言葉遊びであると信じていたかった。
「そのような、ことは……」
「ないって言い切れます?」
平生気だるげな虎牙の目は、どこか哀れむように、目を覚ませと訴えてくる。それでも父も母も同じ兄を疑うことは、洸清には受け入れ難いことと承知しているようだ。
「人は変わる。どんな聖人でも所詮は血肉を纏った人間なんです。里の頭領がそうだった」
俺たちみたいな孤児を拾って育てる優しさがあって、忍の才だって優れた人だったけど……ある日突然、金に目がくらんで里ごと女衒に売り払っちまった。そんなモンです。アンタにとって上様は神様みたいな兄御かもしれない、でも俺から見りゃ人並み外れてしたたかで、いやらしい人ですよ。
洸清はもう、虎牙を叱責することはしなかった。迷うように小石を指で辿りしばし押し黙った後、力なく立ち上がり馬の手綱に手を掛ける。
「……帰ろう。兄上の御顔が見たい」
洸清は馬の背に跨り、虎牙の返事も待たずに駆け出した。まだ兄を信じたいがゆえに、兄に対する確かな不信感を覚えたことを、洸清は己に恥じていた。
月も沈んだ夜には、灯篭の灯りだけが手元の頼りである。しかしその灯篭さえ、己の筆に合わせて人に動かさせなければならぬことに、宵君は呆れに似たもの感じていた。
「お前もすっかり年寄りだね。寿命も近いし」
「睦言を白々しく聞き返すほど耳の利かぬ其方に言われとうないわ。抑も、私は元より目が見えぬ。不明瞭な輪郭程度なら判るが……」
少し考えた後、堕們は宵君の手許を照らす灯篭の火を吹き消した。筆を止め、じとりと堕們を睨んだ宵君だが、それが匙として正しい行動であると思い直す。
「しかし、其方は休めというが、私がやらねば誰がやるというのだ」
「居るじゃない、この仕事をやるべき人が。お前より夜目が利いて、俺より耳が良い」
「……こんな半宵にか」
「いずれしなきゃならないことだろう? お休み中の公主殿下を起こすのは心が痛むっていうなら弟御でもいい。とにかくお前は休め。早死にされちゃ俺の腕が疑われるだろ」
「其方は充分延ばした。私がいつ死のうが咎める者はなかろう」
堕們の返事はない。思わぬ沈黙に宵君が振り返ると、狙いすましたように堕們の冷たい手に口を塞がれた。してやったり、という笑顔を見るとやはり狙いすましたのだろう。
「お前にはまだ生きててもらわなきゃ困るね。お前が死ねば俺は全てを失うんだから」
まるで睦言のような物言いだが、宵君は成程、と目を伏せて笑う。堕們の真意など、宵君には改めて思考せずとも解ること。あえて情け深い言葉を好むことも知っていた。
「随分と愛い奴だ。私が居らねば生きて行けぬと申すか」
「当たり前だろ?」
宵君は幾度となく繰り返したこの言葉遊びが、嫌いではなかった。むしろ、飾り付けられた奥にある堕們の冷淡な感情を好ましくも思い、私利の為に仕えることを許している。
「したたかなのはどっちだろうね」
「心がどうあれ、其方に私の命を延ばす気があるならば利用するまでよ」
「……お前のそういうところは好きだよ」
堕們の呟きに笑い声を立て、宵君は侍女に廊下の灯篭を消すよう申しつけた。侍女が下がると、廊下から灯りが消え、青い月の光だけが室内を薄らと照らす。目が慣れるまでしばしの暗闇である。
「さて、明日は管納院へ参ろうか。其方の腕の及ばぬところは、神頼み仏頼みよ」
「案外、敬虔なもんだね。信仰とはほど遠い振る舞いをするくせに」
その声に答えた笑みは、やはり死の香りを纏い儚く見えた。
「まぁ、私が死んでも其方が路頭に迷わぬよう、文に遺してやるさ」
俺が失いたくないのは、本当にお前自身かも知れないよ。堕們がその言葉を口にすることは、終ぞなかった。
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