16 / 59
第三幕
一陣
しおりを挟む――如月朔日、時は戌の刻。
篝火が灯る野原に八つの布陣が敷かれた。うち隣国、嘉阮を背にした高野と、対峙する山の尾根に本陣が構えられ、幻驢芭方を東軍、公主方を西軍に据え戦を迎えようとしている。
張り詰めた風が京を吹き抜けた。幾万の兵の向こうから洸清のもとへ瞬く間に駆けてきたのは、普段の軽装ではなく、くろがねの鎧を身に纏ったシジミだった。さっと虎牙が洸清を背に庇うが、彼女は跪き、ただ一言、口を開く。
「……最後だ」
誰もがその意図を理解した。幻驢芭方からの、まことに従う気はないかとの最後の問い。これに洸清が「否」と答えれば最早。皆が固唾を飲む。今生初めての重荷に、歯を食い縛り地を踏みしめてしなければ潰されてしまいそうだ。
――今、引き返せば。
過ぎる囁きを振り払い、洸清はシジミの目を見据える。この鋭い光も、最早敵なのだ。
「私は兄上達の行いを許すわけにはいかぬ。幻驢芭方の思想は公主殿下への謀反と捉えた。皇家をお護りすべく在る両家ならば、次代御門に成り代わるなどという宵殿にお味方は出来ぬ」
虎牙が小さく頷く。シジミに視線を戻せば、平生無愛想に引き結ばれた唇が寂しげに弧を描いた。
「……そうか」
彼女が跳び去ると同時に、臓腑を震わせる開戦の音色が大地を揺すった。
小隊を統べる騎馬兵の怒号に扇動され、駆け出す足軽達を見下ろしながら、暁光は固く目蓋を閉じた。
聴こえる。鋼の触れ合う音と短い呻き声。人馬の足音、雄叫びと嘶き。幾度も経験した戦場が、こんなにも悲しみに満ちている。
「目を逸らすな」
隣から降る声に肩が揺れた。思わずそちらを見やれば、宵君は仮面を手のひらに収め、炎の揺らぎを目に映している。
「先の戦で手を携え、共に勝利を讃えた者同士が、斬り合い、死に行く様を見ろ。失われる命から目を逸らすな」
「……は」
夜闇の中に松明の火が燃え広がり、鉄錆と硝煙の臭いが風で舞い上がった。宵君の手から墮速が仮面を受け取る。宵君は温度のない目差しを蠢く平原に注いだまま、両の手を胸の前で緩く合わせた。淀む風が凪いで、長い黒髪が漂う。
――己が命で贖うわけにもいかぬゆえ。
「……上様」
その様は、ある者には神聖に、ある者には慈愛深く映り、この方こそがまことの御門であられる、と誰のものとも分からぬ呟きが零れ落ちる。近衛兵の錦旗を前に崩されかけた兵の士気は、瞬く間に烈火の如く勢いを取り戻した。
西軍本陣。まるで、そこだけ日が昇っているかのように燃える戦場を見つめたまま、虎牙、と呼びかければ、青竹色の掛布が手渡される。洸清の身の丈からはみ出すほどに長大な、真っ直ぐに伸びた柄。
「虎牙、着いて来られるか」
紐を解き、滑らかな布を取り払えば、刃が十文字を象った槍が炎を照り返す。静かに佇んだ馬に跨り、洸清は首の勾玉を引き千切った。
「……もちろん、どこまでも」
バラバラと草に転がる赤は、夜闇に紛れて消えて行く。馬の腿を蹴り、洸清は戦場を迂回することもなく、真っ直ぐに東軍の本陣を目指した。追従する虎牙の手には、いつの間にやら暗器があり、洸清を討たんと群がる敵兵が次々とその刃に倒れる。おかげで誰も洸清を留めるには至らず、人波を切り裂いて焦茶の馬は駆け抜けた。
暁光の朱い目がそれを捉えると、宵君は仮面の紐を結い、月香の背に跨る。
「宵殿、どちらへ」
驚いた暁光が声をかけるが、宵君はそちらを一瞥したのみで、何も答えることなく本陣を後にした。後を追う墮速が去り際に「兄弟で決着をつけろってことだと思いますよ」と言い残してくれたのが救いだ。
月香の後ろ姿が薮に紛れる。残された本陣に宵君の身を案じる者はない。むしろ、敵の誰かに本陣に宵君が居ないと知れれば厄介であると相談が始まった。主上の留守を狙って攻め込まれ崩されようものなら、宵君に申し訳が立たぬどころではない。背後の囁きに、暁光は振り返らず案ずることはない、と笑った。
「本陣は私が任されよう。恭也」
「は」
「洸清を止めろ」
一歩踏み出し、恭也は目を見張る。しかし上様、と口を開きかけた恭也の目の前に、暁光の拳が突き出される。開かれた手のひらから零れ落ちたのは、澄んだ翡翠の勾玉。
「上様、それはあまりに。洸清様はお一人で敵陣を駆け抜け、上様と」
「応える必要はない。彼奴が退かぬなら討て」
暁光は温もりのない声で言い放ち、恭也に背を向けた。頼鹿から絵図を受け取り胡床に腰を下ろし、指揮を執り始める。恭也は躊躇ったが、固く目を伏せて馬の手網を引いた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる