花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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第四幕

昔日

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 鯨一郎の手で沓に足を通した阿茶は、胡床から立ち上がると吉祥丸を振り返った。両腕の袖を胸の前で合わせ、眉を下げて微笑む。

「其方の臣を勝手に小間使いのようにして済まなんだ。許してたも」

「いえ、そのような……」

 吉祥丸は驚き、とんでもないと首を振った。感謝こそあれど、阿茶が謝る必要などない。吉祥丸は内心、胸のすく思いでいた。
 鯨一郎は呆気にとられ、二人を交互に見る。公家といえば、鯨一郎は偉そうで嫌味たらしい印象の人物しか知らなかった。阿茶を取り巻く付き人達は、その印象にたがわぬ様子だったが、阿茶はそうではない。

 ――なんと御心広く公平な方だ、これが幻驢芭家の当主となる方の器なのだろう。

 幻驢芭という家は、皇家の最も近しい臣として、京の理想を叶えるいしずえとなる家。御門が地上に咲き乱れる桃の樹ならば、幻驢芭家の当主は地中でそれを支える根となる存在。そして、鯨一郎の主である白爪家は厚き朱塗りの柵となって、御門を守護する。
 両家の当主は代々、それぞれ「宵」「暁」の字をその名に冠し、日の照らすときも闇の夜も京を護っている。

 ――御元服まであと五年もせぬ。この方はどのような名を賜るのか。

 きっと、凛々しく素晴らしい名に違いない。鯨一郎は微かに緩む頬を袖で拭い、中庭へ出る一行の後を追った。



 沖去の狭い地には、神を祀った社というものがない。ゆえに氏神といえば儚くなった代々の御門を意味する為、阿茶の元服の儀は御所の清涼殿せいりょうでんにて執り行われた。この殿上間は皇家と幻驢芭家の限られた人間にしか昇殿が許されておらず、阿茶がここへ昇るのも、今日こんにちが初めてである。

「息が詰まるか」

 儀式を前に、礼服姿の父に囁かれ、阿茶は緩く首を横に振った。

「早う冠と名を賜り、京の礎となりとうございます。幼名しか持たぬ童には、学ぶことしか出来ませぬゆえ」

 阿茶の烏帽子親は、現在の御門の二番目の弟が務めることと相成った。その一つ下の弟は阿茶の父である為、彼は阿茶の伯父にあたる。扇子で隠されることが多いが、その口元は阿茶によく似ていた。仮名けみょういみなを与えるのは二人の兄、御門である。庭の清水を映す双眸そうぼうを伏せ、阿茶は左足を踏み出した。


「……宵君よいのきみとは、まこと身に余る名ではないか。のう、鯨」

 満月に目を細め、乱れた狩衣を整えながら宵君は笑う。吐き出される息は酒気を帯び、色白の頬には紅が差していた。

「宜しいのですか、宴の主役がこのようなところで」

「何、皆宴が好きなだけであろう。私の元服から五日も経つというのに、親類一同は未だに夢現よ」

 喧騒の中で扇子を失くしたのか、宵君は袖で口元を隠す。身に余る名だと本人はいうが、鯨一郎には眉を顰めたくなる名に思えた。

「……宵とは、幻驢芭家そのものを示す字。そこに主君を意味する字のみとは……それでは、『貴方』は誰だというのですか」

 侮辱と捉えられても仕方のないことと承知で、鯨一郎は絞り出すように告げる。宵君は呆気にとられたように目を瞬かせ、やがて肩を震わせた。

「ふっ……ふふっ、あまり笑わせるな鯨。御歯黒がまだ落ちぬゆえ、あまりこのように笑いとうない」

 両手で口元を覆い隠し、堪え切れぬというように笑い声を漏らす宵君を見て、今度は鯨一郎が目を瞬かせることとなった。叱られようと頬を張られようと、懐刀で斬られようと受け入れる覚悟でいたので、首を傾げることしか出来ない。

「そうか、ふむ。そのような見方もあろうな。しかし鯨よ、あまり私を侮るでないぞ」

「侮っ……! そのような恐れ多い……」

「あぁ、良い良い。言葉のあやよ。まぁ聞け」

 やはり酔っているのか、何の躊躇いもなく草場に腰を下ろそうとする宵君に、鯨一郎は慌てて風呂敷の代わりに手拭いを差し出した。そっと隣に座れば、宵君はまだ上機嫌に笑っている。

「家と京の全てを背負い、その他には何も背負わぬ名。この上なく幻驢芭当主に相応しい名ではないか。……ゆえに、今の私には身に余る」

 小さく息を吐き、宵君は瞼を閉じた。しばし言葉もなく星を数えていたが、そろそろ戻らねば父君に叱られるな、と宵君は腰を上げる。その袖を鯨一郎はつい引き留めてしまった。

「もし……もし、差し出がましくなければ、私が貴方の糧となります。貴方が御門を支える樹の根なれば、私はその土となりましょう」

 口にして、鯨一郎は妙な気恥ずかしさに見舞われる。それは宵君も同じらしく、もう笑い声を立てることはなかった。

「お前の主君は白爪殿であろうに。……良い、では鯨。私が道を迷うたときは、お前が私の諱を呼び、このようにとどめよ。たった一度、呼ぶが良い」

「……御意に」

 お前は私の友であるゆえ、と呟いた宵君の、まだ幼さの残る声。それが青桐鯨一郎に聴こえていたかどうか、今となっては確かめようのないことである。


 

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