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第四幕
永訣
しおりを挟む苔生した岩に腰掛け、互いの背に凭れてしばし春風に吹かれていた。痛む頬を温い風が撫でる。静寂を破ったのは、やはり暁光であった。
「このまま去るが良い。私は弟を逃がした汚名を負う。同じ咎を分かつ兄弟なれば、遠き地の互いを思うのに何も恥じるところはあるまい」
洸清の肩が揺れる。「御意」と掠れた声とともに、そっと背に当たる体温が離れ、暁光は微笑んだ。達者で、と口を開きかけたが、突然強く手首を引かれ、目を見開く。
「なれば、兄上も来られよ」
草場に降り立ち、洸清は兄の手を両手で握り締める。唖然とする暁光を真っ直ぐに見据えて告げる。
「何処か……何処か遠く、誰も沖去という京を知らぬ地で、平民として貴方と生きられるのならば、私は」
「洸清」
深く息を吐き、お許し下さい、と洸清は囁いた。その目に映る感情から言葉の続きを悟り、暁光は視線を彷徨わせていたが、その双眸は弟の背後に縫い付けられる。
蟀谷が軋むほどの金木犀の強い香りが、風に漂った。
「――落とし物だ、坊」
暁光が声を上げるより先に、がくりと洸清の身体が揺れた。十文字槍はその持ち主の胸を貫き、銀の刃のみならず赤黒く染まった柄までもが暁光の目に焼き付く。
「野暮をはたらき申し訳ないとは思うておる……が、私の右腕を連れて往かれては困るのだ。許せ」
黒曜の髪が揺れる。温度を感じさせぬ白い陶器から、空々しい謝罪が洸清の耳に囁かれた。全身が心の臓になったように脈打ち、裏腹に恐ろしい程手指が冷えて行く。引き結んだ口の端から止め処なく鮮血が滴り落ちた。
「暁光は京に在らねばならぬ」
「ぐ、っ……」
膝を折り、頽れる身体から強引に刃が抜き取られる。あぁ、拭って頂いたのに、先刻よりも汚れてしまったな。遠ざかる意識の中で洸清はぼんやりと声にならぬ呟きを漏らした。固い地面に伏す衝撃は訪れず、代わりに伽羅の香りに包まれる。
「兄上……」
呼びかけは音にはならなかったが、暁光は洸清の肢体を受け止め、ゆっくりと膝をついた。眩い逆光に翳って、その表情は見えない。言葉を紡ごうにも、口内に溜まった鉄臭いぬるま湯が邪魔をする。少しずつそれを嚥下し、洸清は柔い風にさえ掻き消される程の声で告げた。
「貴方を、お慕いしております」
――このような弟を、貴方は軽蔑されるでしょうか。もしそうならば、このまま打ち捨てて頂いても、構いません。胸に空いた穴を踏み躙り、穢らわしいと侮蔑の言葉を吐かれようと、私にはその覚悟がございます、兄上。
暁光は驚かなかった。眉を顰めることも、笑うこともなかった。ただ静かに頷き、澄んだ鮮緑の目から零れる雫を指で拭う。柔らかく弟の頬を撫で、深紅の唇に慈悲を施した。
「……私もそうだった、洸清」
まだ温かい首筋に手を当て、暁光は目を伏せた。弱い鼓動が消えたのを確かめ、宵君が差し出した太刀を受け取る。
「良いのか?」
横たえた洸清の喉に刃を添え、暁光はぴたりと動きを止めた。宵君の問いに、暁光は気まずそうな笑みを浮かべる。
「……確かに、私は洸清を愛しています。愛しているが、それはただ、今際の淵に弟の恋路を成就させてやりたかった兄の心です。いつから秘めていたのか分からぬその苦しみが、せめて最期に昇華するようにと、咄嗟に……」
刃を深く押し込み、骨を断った。頬に飛び散った赤を手の甲で拭い、木から降り立ったシジミが手にした桐の棺物に洸清の首級を収める。
「貴方に従わぬと弟より告げられた日から、覚悟しておりました」
「……そうか」
暁光は嫌に静まった心で絹帯をからげて、太刀に付着したものを振り払い、両手で宵君へ返す。シジミに視線を送れば、ひとつ頷いて、彼女は木々の波間に消えた。それを見届け、暁光は宵君へ向き直った。
「お手を煩わせたようで……申し訳ございません」
「何、洸清に限っては元より其方に期待しておらぬ。敢えて討たれようとする其方を助太刀する用意はしていたが……まさか呑気に夢物語に花を咲かせておるとは」
低く笑い声を立て、宵君は太刀を鞘に納め、暁光に背を向ける。暁光はその姿から目を逸らすことしか出来なかった。
――やはり、この御方は狡い。今の私に平気で背をお見せになるなど。
宵君は、兄と慕う己から示される信頼と慈愛の前に、暁光が無力であることを知っているのだ。しかし、やり場のない喪失も憤怒も、強く暁光を苛んでいた。短く息を吐き、暁光は宵君の背中を見据える。
「……宵殿、ひとつだけ、よろしいでしょうか」
振り返った宵君の胸倉を掴んで拳を振り翳し、地を這うような声と鬼の形相で、救済を乞う。篝火のような目は、水の膜で揺らいでいた。宵君はゆるりと頷き、仮面の紐を解く。
「許す」
民の懇願を、宵君が拒むなどあり得ぬ。
微笑む宵君の左の頬を、暁光は一切の加減なく殴りつけた。仮面を取り落とし、僅かによろめいたが、宵君はすぐに顔を上げ、砕けた歯を暁光の頬に吐きかける。「許すが、無礼は無礼であるからな」と笑う宵君に、暁光はえぇ、と頷き、涙を拭った。
「貴方の血も、赤なのですね」
「どういう意味だ」
公主が侍女達と身を潜める居城の離れに、早馬が洸清の討死を報せた。合戦にも既に勝敗はついており、僅かに生き残った西軍の兵は降伏、或いは落ち延びたという。
「……洸清殿に代わり大将となった虎牙と申す者が東軍へ寝返り、本陣が壊滅したのを皮切りに総崩れとなりました。申し訳ございません」
絹の裾を握り締め、公主は少し荒れた唇を震わせる。
「斯様に悲しき戦があろうか。皆、許してたも。洸清、許してたも……」
瞼の裏に翡翠の瞳が蘇る。日に焼けた笑顔はいつも寂しげで、公主に掛ける言葉もどこか遠くへ向けられていた。
『誰かを思慕することは、遊戯や我儘などではない。愛する人と添いたいという願いの、何処に咎がありましょうか』
公主には不明瞭ながら、洸清の心が解っていた。洸清が公主を慰めた言葉は、彼自身が最も欲していた言葉だったのだろう。ゆえに、政や野心の為に公主の初恋が潰えることを、許せなかったのだ。
「――今宵は見事な望月であるな」
縁側から掛けられた穏やかな声に、公主は弾かれたように顔を上げた。旋風に舞い上がる、濃い花の香り。胸が焦がされるほど甘く、優美でいて、酷く不気味で威圧的な。
「まこと、神出鬼没の男よ。此処を護る近衛兵などお主には造作もないか」
艶のある金の爪先が畳を踏む。濡れた太刀を携えたまま、宵君は傅くこともなく公主の目の前に立った。そのような振る舞いは初めてのことであったが、公主はすぐに気がつく。戦は終わったのだ。
差し出された手は生白く、誰のものとも知れぬ血がこびりついている。近づけば、金木犀の隙間から鉄の匂いが漂った。
「髪が乱れておるな。結い直させよう」
「……御意に」
かつて公主と呼ばれた少女は、そこへ震える手を重ねた。
――如月十一日。洸清討死により、京を二分した戦は幕を閉じた。西軍の居城は後に『泡沫城』と呼ばれ、史実の解明が進んだ九十年代中頃、ようやく洸清以下戦死者の慰霊碑が建てられることとなる。
悪辣なる反逆者として知られる洸清の真実の姿は一躍話題となり、世には宵君こそが悪逆非道の暴君だったと考察する歴史家も少数ながら現れた。
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