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第五幕
静穏
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「――さァ、買った買った! 期待の新人、白鷺の新作。十五代御門『宵君』の錦絵だよ。 一枚たったの六十文で買えるのは今だけだぜ、お嬢さん」
前代未聞の戦に張り詰めていた沖去の街並みは、宵君の即位を境に元の活気を取り戻した。元より両軍共通して京の破壊は不本意のところ、人里を離れた山林などが主な戦場であったため、復興にも時間はかからなかった。民の笑顔が綻び、戦により内情が乱れたにも関わらず、他国の進軍も格段に減っている。
暁光の語った通り、沖去は現世における理想郷となった。
「ねぇねぇ、おみっちゃんはもう買った?」
「もちろん! 白鷺の『宵君』!」
町娘達が競って買い求めたのは、白鷺という十三歳の絵師が描いた、宵君の錦絵。両手を緩く合わせ、祈りを捧げる姿の絵だが、その右手のひらには白鷺の名が描き込まれている。
あの日掛けられた言葉と優しく頭を撫でる手を、隻腕の少年が忘れたことはなかった。
『顔を憶えているのなら望みはあろう。父母の仇、いずれ討ち果すが良い』
――俺はあのとき、ほんとなら一生言葉を交わすこともないような名家のご当主を傷つけたんだ。その場で殺されたっておかしくなかったってのに、利き腕まで残して貰えたおかげで、俺はまだ絵が描ける。
「白鷺! 今日も完売だ」
あいよ、と短く返事を寄越し手元で祈る宵君に視線を戻す。絵を売って稼いだ金は、初めのうちは両親の仇の行方の調査に使った。仇討ちは叶わぬこととなってしまったが、白鷺は今も宵君を描き続けている。
「そうだ、明日から金木犀の香を焚き染めて売ろうか。本人が使ってるもんはきっと手が届かないけど、似た香なら安くあるだろ」
「おっ、いいねぇ。さすが俺の見込んだ絵師だ」
「陛下」
鳥の子色の御簾の前に跪き、暁光は小さく声を掛けた。膳を持った侍女が、暁光に頭を下げる。
「……暁光。其方は私をそのように呼ぶな。変わらず宵、と呼べ」
「では、宵君。夕餉に粥を持たせましたが、召し上がりますか」
漆の盆から流れるように、豊かな髪が持ち上がる。その背を支えながら、褥の傍に控える堕們は苦い顔で「食えるか」と宵君の前髪を避けた。
「出来れば何か口にして欲しいんだけど。無理はしなくていい」
后妃となった公主との盛大な婚儀が執り行われた翌晩、糸が切れたように宵君は高熱に倒れてしまった。御門が倒れたと民に知られては、不安を呼び戻してしまう。その為、后妃、御典医となった堕們、参議となった暁光と僅かな侍女など、限られた人物しか宵君の容態を知らない。
「否……貰おう」
陶器の匙を手に取り、湯気の立つ粥を息吹で冷ましてから堕們はそれを宵君へ差し出した。薄く開いた唇の隙間へ粥が触れると、冷まし方が足りなかったのか僅かに肩が揺れ、じとりと堕們を睨む。
「ごめんごめん。お前は猫舌だったね」
「……周知のことであろうに、物忘れか?」
天下の宵君が炊き立ての粥に負けるとは傑作だ、と笑いながら、堕們は匙に息吹をかける。暁光は笑っても良いものかと迷ったが、「いっそ冷や粥の方がいいんじゃないかい」と堕們が追い打ちをかけるので、ふ、と息が漏れた。
「申し訳ございません」
「其方は良い。……堕們、わざとか」
「まさか」
笑う堕們に眉を顰めつつ、宵君は先程よりも念入りに冷まされた粥を食む。ぬるいと文句を零したのは、ささやかな仕返しなのだろう。
前代未聞の戦に張り詰めていた沖去の街並みは、宵君の即位を境に元の活気を取り戻した。元より両軍共通して京の破壊は不本意のところ、人里を離れた山林などが主な戦場であったため、復興にも時間はかからなかった。民の笑顔が綻び、戦により内情が乱れたにも関わらず、他国の進軍も格段に減っている。
暁光の語った通り、沖去は現世における理想郷となった。
「ねぇねぇ、おみっちゃんはもう買った?」
「もちろん! 白鷺の『宵君』!」
町娘達が競って買い求めたのは、白鷺という十三歳の絵師が描いた、宵君の錦絵。両手を緩く合わせ、祈りを捧げる姿の絵だが、その右手のひらには白鷺の名が描き込まれている。
あの日掛けられた言葉と優しく頭を撫でる手を、隻腕の少年が忘れたことはなかった。
『顔を憶えているのなら望みはあろう。父母の仇、いずれ討ち果すが良い』
――俺はあのとき、ほんとなら一生言葉を交わすこともないような名家のご当主を傷つけたんだ。その場で殺されたっておかしくなかったってのに、利き腕まで残して貰えたおかげで、俺はまだ絵が描ける。
「白鷺! 今日も完売だ」
あいよ、と短く返事を寄越し手元で祈る宵君に視線を戻す。絵を売って稼いだ金は、初めのうちは両親の仇の行方の調査に使った。仇討ちは叶わぬこととなってしまったが、白鷺は今も宵君を描き続けている。
「そうだ、明日から金木犀の香を焚き染めて売ろうか。本人が使ってるもんはきっと手が届かないけど、似た香なら安くあるだろ」
「おっ、いいねぇ。さすが俺の見込んだ絵師だ」
「陛下」
鳥の子色の御簾の前に跪き、暁光は小さく声を掛けた。膳を持った侍女が、暁光に頭を下げる。
「……暁光。其方は私をそのように呼ぶな。変わらず宵、と呼べ」
「では、宵君。夕餉に粥を持たせましたが、召し上がりますか」
漆の盆から流れるように、豊かな髪が持ち上がる。その背を支えながら、褥の傍に控える堕們は苦い顔で「食えるか」と宵君の前髪を避けた。
「出来れば何か口にして欲しいんだけど。無理はしなくていい」
后妃となった公主との盛大な婚儀が執り行われた翌晩、糸が切れたように宵君は高熱に倒れてしまった。御門が倒れたと民に知られては、不安を呼び戻してしまう。その為、后妃、御典医となった堕們、参議となった暁光と僅かな侍女など、限られた人物しか宵君の容態を知らない。
「否……貰おう」
陶器の匙を手に取り、湯気の立つ粥を息吹で冷ましてから堕們はそれを宵君へ差し出した。薄く開いた唇の隙間へ粥が触れると、冷まし方が足りなかったのか僅かに肩が揺れ、じとりと堕們を睨む。
「ごめんごめん。お前は猫舌だったね」
「……周知のことであろうに、物忘れか?」
天下の宵君が炊き立ての粥に負けるとは傑作だ、と笑いながら、堕們は匙に息吹をかける。暁光は笑っても良いものかと迷ったが、「いっそ冷や粥の方がいいんじゃないかい」と堕們が追い打ちをかけるので、ふ、と息が漏れた。
「申し訳ございません」
「其方は良い。……堕們、わざとか」
「まさか」
笑う堕們に眉を顰めつつ、宵君は先程よりも念入りに冷まされた粥を食む。ぬるいと文句を零したのは、ささやかな仕返しなのだろう。
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