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第五幕
邂逅
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煌びやかな花街の片隅、茅葺屋根の立ち並ぶ粗末な小路。泥の詰まった爪先で痩せた女の横腹を蹴り上げ、唾を吐く男に深く頭を下げながら、美瞳は男の激昂が治まるのを待つ。
お歯黒溝に花びらが浮いている。
かつて吉兆の青い瞳に高値が付いた傾城は、この砂色の小路を自らの居場所とした。否、高級な廓に居た『青鳥』を知っている女達の中には居場所など求めてはいなかったが、鯨一郎の居ない邸内よりは幾分か呼吸が出来る。
「おい、灰被り」
その呼び名を自然と受け入れるようになった頃、年増の姐女郎がいつになくそわそわと手招きをし「着いて来な」と背を向ける彼女に従い、古ぼけた打掛の裾を追いかける。
二月程を共に過ごして分かったが、彼女達は妬み嫉みの心を持ちはすれど、根が腐っているわけではない。灰被りという呼び方も、美瞳を底辺まで堕ちてきた哀れな仲間と認めているからこそだ。
「……何してんだ、ちゃっちゃと歩きな」
思わず足を止めてしまったのは、姐女郎が白い砂の敷かれた大見世の区画の中へ入って行った為だ。二人の身なりに好奇の視線が集まるが、慣れてしまったおかげでそちらはさして気にならなかった。戸惑いつつも、美瞳は姐女郎に続く。やがて姐女郎が足を止めたのは、かつて青鳥や佳凛が育ったあの見世、『香すみ屋』の前。入口の傍の牛車を一瞥し、姐女郎は美瞳を振り返る。
「あんたのお迎えだってよ。いいねぇ、天下の青鳥サマは、こんなになっても買い手がつくのかい」
こんな華見世にわざわざ呼びつける程の、身分の買い手が。恨めしそうに捨て台詞を残して、姐女郎は二人で歩いた路を引き返して行った。途中、背を向けたままひらひらと手を振る彼女の後姿を見送り、美瞳は牛車に目を戻す。人波に遮られ家紋らしきものは見えないが、大方の予想はついていた。
――十中八九、青桐の家の者か。低い身分とはいえ、側室が失踪したとあっては外聞が悪いから、連れ戻しに来たのだろう。
久々に顔を合わせる女将の顰めっ面に、美瞳は首を傾げた。女将が番頭に任せず自ら遊女の勘定を行うのは、余程の稼ぎ頭の身請けか、やんごとなき身分の客が相手の場合のみだ。青桐はそれほど高位の家ではない。その名が高く通っていたのは宵君の厚意と亡き鯨一郎が成した数々の武功によるものである。
目が合っただけで舌打ちを寄越す程に、美瞳を毛嫌いする女将があの日の勘定に立ち会ったのも、隣国の高官である宵君が主客であった為で――。
――まさか。
美瞳は目を見開いた。まさか、そんなはずはない。確かに牛車の家紋は見えなかったが、あの男を乗せるには質素な印象を受けた。護衛の姿もない。近づく襖の向こうに、沖去の君王が居るはずなどない。廊下に膝をついた女将の声が、急速に遠ざかった。鶴が描かれた襖が開かれ、座敷の灯が漏れる。顔を上げるのが恐ろしくて堪らない。目の前にある自らの両手を凝視したまま、美瞳は唇を噛んだ。
「面を上げよ」
思わず身を固めたが、その声は柔らかな甘露のような掠れ声ではなく、ありふれた壮年の男のものだった。拍子抜けともいえるような、不可解ながら一先ずの安堵を覚えた美瞳だったが、座敷で待つ客を一目見て頬を強張らせる。手前に座るのは、品のよさそうな初老の男だ。その出で立ちを見るに、中級武家といったところだろう。
先程から纏わりつく花の香りの主は、無論この男ではない。主客の席で、脇息に凭れた姿勢を緩慢に整え、その男は清らかな色をした隻眼を細めて笑った。
「久しいのう、哀れな小鳥。こんなにも身を窶して、さぞ辛かったろう」
穏やかな凪を思わせる口調で、深い慈愛の言葉を紡ぐ。広げられた両腕は以前よりも増して白く、少し痩せたように見えた。
足元から這い上がる激しい憎悪、寄せて返す言い表しようのない感傷をひた隠し、美瞳は女将に促されるまま宵君の正面に座して頭を下げる。やがて涼やかな笑い声が立ち、極めて優しく「青鳥」と声をかけられた。
「流石は才色兼備と人気を博した傾城よ。いくつも沸いて巡るはずの疑問を飲むか。……それとも、何だ」
ふと目の前に影が落ち、そろりと顔を上げる。手を伸ばせば届く、否、いっそ鼻先が触れる程の距離に、幾度も悪夢の中で、最愛の亭主の首を落とした顔があった。
美しい碧い目と、醜く濁った目。どちらも恐ろしく静かに美瞳の心根を覗き込んでいるようだった。
「些末な疑問など掻き消えるほど、私が憎いか」
お歯黒溝に花びらが浮いている。
かつて吉兆の青い瞳に高値が付いた傾城は、この砂色の小路を自らの居場所とした。否、高級な廓に居た『青鳥』を知っている女達の中には居場所など求めてはいなかったが、鯨一郎の居ない邸内よりは幾分か呼吸が出来る。
「おい、灰被り」
その呼び名を自然と受け入れるようになった頃、年増の姐女郎がいつになくそわそわと手招きをし「着いて来な」と背を向ける彼女に従い、古ぼけた打掛の裾を追いかける。
二月程を共に過ごして分かったが、彼女達は妬み嫉みの心を持ちはすれど、根が腐っているわけではない。灰被りという呼び方も、美瞳を底辺まで堕ちてきた哀れな仲間と認めているからこそだ。
「……何してんだ、ちゃっちゃと歩きな」
思わず足を止めてしまったのは、姐女郎が白い砂の敷かれた大見世の区画の中へ入って行った為だ。二人の身なりに好奇の視線が集まるが、慣れてしまったおかげでそちらはさして気にならなかった。戸惑いつつも、美瞳は姐女郎に続く。やがて姐女郎が足を止めたのは、かつて青鳥や佳凛が育ったあの見世、『香すみ屋』の前。入口の傍の牛車を一瞥し、姐女郎は美瞳を振り返る。
「あんたのお迎えだってよ。いいねぇ、天下の青鳥サマは、こんなになっても買い手がつくのかい」
こんな華見世にわざわざ呼びつける程の、身分の買い手が。恨めしそうに捨て台詞を残して、姐女郎は二人で歩いた路を引き返して行った。途中、背を向けたままひらひらと手を振る彼女の後姿を見送り、美瞳は牛車に目を戻す。人波に遮られ家紋らしきものは見えないが、大方の予想はついていた。
――十中八九、青桐の家の者か。低い身分とはいえ、側室が失踪したとあっては外聞が悪いから、連れ戻しに来たのだろう。
久々に顔を合わせる女将の顰めっ面に、美瞳は首を傾げた。女将が番頭に任せず自ら遊女の勘定を行うのは、余程の稼ぎ頭の身請けか、やんごとなき身分の客が相手の場合のみだ。青桐はそれほど高位の家ではない。その名が高く通っていたのは宵君の厚意と亡き鯨一郎が成した数々の武功によるものである。
目が合っただけで舌打ちを寄越す程に、美瞳を毛嫌いする女将があの日の勘定に立ち会ったのも、隣国の高官である宵君が主客であった為で――。
――まさか。
美瞳は目を見開いた。まさか、そんなはずはない。確かに牛車の家紋は見えなかったが、あの男を乗せるには質素な印象を受けた。護衛の姿もない。近づく襖の向こうに、沖去の君王が居るはずなどない。廊下に膝をついた女将の声が、急速に遠ざかった。鶴が描かれた襖が開かれ、座敷の灯が漏れる。顔を上げるのが恐ろしくて堪らない。目の前にある自らの両手を凝視したまま、美瞳は唇を噛んだ。
「面を上げよ」
思わず身を固めたが、その声は柔らかな甘露のような掠れ声ではなく、ありふれた壮年の男のものだった。拍子抜けともいえるような、不可解ながら一先ずの安堵を覚えた美瞳だったが、座敷で待つ客を一目見て頬を強張らせる。手前に座るのは、品のよさそうな初老の男だ。その出で立ちを見るに、中級武家といったところだろう。
先程から纏わりつく花の香りの主は、無論この男ではない。主客の席で、脇息に凭れた姿勢を緩慢に整え、その男は清らかな色をした隻眼を細めて笑った。
「久しいのう、哀れな小鳥。こんなにも身を窶して、さぞ辛かったろう」
穏やかな凪を思わせる口調で、深い慈愛の言葉を紡ぐ。広げられた両腕は以前よりも増して白く、少し痩せたように見えた。
足元から這い上がる激しい憎悪、寄せて返す言い表しようのない感傷をひた隠し、美瞳は女将に促されるまま宵君の正面に座して頭を下げる。やがて涼やかな笑い声が立ち、極めて優しく「青鳥」と声をかけられた。
「流石は才色兼備と人気を博した傾城よ。いくつも沸いて巡るはずの疑問を飲むか。……それとも、何だ」
ふと目の前に影が落ち、そろりと顔を上げる。手を伸ばせば届く、否、いっそ鼻先が触れる程の距離に、幾度も悪夢の中で、最愛の亭主の首を落とした顔があった。
美しい碧い目と、醜く濁った目。どちらも恐ろしく静かに美瞳の心根を覗き込んでいるようだった。
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