花浮舟 ―祷―

那須ココ

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第五幕

諦念

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 「――あい、確かに」

 女将の声で我に返る。気づけば勘定のほとんどが済み、女将は愛想良く皺だらけの手を捏ねていた。美瞳は傍らに控えていた男の隣に座っており、宵君の問いに何と答えたか、記憶が朧である。

「其方には急な話ですまぬと思うておるが、香すみ屋とは前々から書簡で進めていたことだ」

 微笑む宵君の様子を見るに、否と答えることが出来たのだろうか。しかし宵君ならば、是と答えたとしても微笑して受け入れるのだろうから、彼の表情も態度も、何一つ推測の参考にはならなかった。

 こうして目の前に居るだけで、嫌悪と怨嗟えんさの感情に呑まれそうになる。隠しきれたとは思えないが、この場に居る女将や武家の男まで、宵君と同様に平然としていた。

「……ではお暇しようか、繁正しげまさ。無駄な長居は野暮であろう」

 腰を上げた宵君に陶器の仮面を差し出す男の名は繁正というらしい。紐を結いながら、宵君は美瞳を振り返った。

 美瞳ははたと気づく。青桐邸に連れ戻されるのならば、鯨仙が宵君の手を煩わせるはずがない。ざわめく人々に手を振り似合わない質素な牛車に乗る背中をぼんやりと眺めた。御所で預かるということだろうが、それだけではわざわざ宵君本人が足を運ぶ必要はない。

 まさか、と幾度目かの驚きに手のひらが震える。使者ではなく直々の迎えが意味するところ、それはつまり、これより美瞳は宵君の庇護を受けるということだ。御所ではなく、宵君の。

 ――こんな屈辱があるだろうか。鯨一郎を殺した男に生かされるなんて。

 嘉阮一華やかな遊郭の大門から沖去との国境までは、良く均された砂利道が続く。時折大粒の石を車輪が撥ねたときは少々揺れるが、御簾のかかった車の中は嫌な静けさに包まれていた。というのも、美瞳と繁正は初対面な上、宵君は先程から腕を組み、少し俯いた姿勢のまま一言も口を開かないのだ。

「……これは驚いた。陛下と貴殿とは浅からぬ仲であるとは伺っていたが、まさかこのように無防備に休まれるとは、お珍しい」

 不思議そうな繁正の声は、何処か微笑ましそうにそう告げる。その横顔から正面の宵君に視線を戻すと、なるほど確かに、柱に凭れて眠っているらしかった。車の揺れにも、御者が関を通る際、役人と言葉を交わす声にも目を覚ます気配がない。美瞳を脅威に思っていないのは確かだが、何より、繁正と呼ばれたこの男を強く信頼しているがゆえのことだろう。
 美瞳はそう予測して静かに溜息を吐いたが、繁正は苦い笑みを浮かべて「まことに、狡い御方だ」と瞳を伏せる。

「ここに居るのは最も信用ならぬ男にございますぞ……陛下」

 仮面に伸ばされた繁正の手が震えていることに気づいた。その時記憶の隅に、一度か二度、鯨一郎から聞かされた名が蘇る。遠野繁正、そして繁國の名が。

「……こうして居ても、お目覚めにならぬとは。私がいつ、己の務めを忘れ、子の仇を前にしたただの親に返るとも知れぬというのに」


 繁國は、元は宵君が戦場で救った平民の子。その後幻驢芭邸にて健やかに育った繁國は、五歳の年に遠野家の養子となり、更に十年後に繁國という名を授けられた。

 ――鯨一郎の討死が報された時、あまりの喪失に朧になっていたけれど、確かに共に聞いた名だ。

「……陛下の腕に抱かれ五歳まで育ったその子を、まことの息子と思い愛した。家の務めもあるが、生涯をかけても返せぬ恩義に胸を打たれ、陛下についてきたと言っても良い。……それが亡骸すら帰らぬとは。この方の刃にかかり、一体どれほど惨たらしい死に方をしたのか」

 陛下にとっても繁國は御子であろうに、恐ろしい方だ、と繁正は拳を握る。美瞳には言葉が見つからなかった。巨大な流水に巻き込まれた小動物の如く、理不尽な身の上であることは同じだが、人の嘆きというのはその人にしか理解らぬものである。同情も慰めも、繁正には必要ないだろう。美瞳がそれを欲していないように。

「……それでも、陛下に仇なすような真似は、私には出来ぬのだが」

 繁正の肩が弛緩し笑い交じりの声が降る。生まれた家が彼を縛るのか、それとは別の念がそこにあるのか、美瞳には憶測しか出来ない。

「……天は地に恵みをもたらすが、時に災うもの。陛下は天なのだ」

 小さき民が歓喜しようと、嘆き悲しもうと、天は変わらずそこに在るように。太平の世を想い、久遠くおんを見渡す宵君と、同じ場所を見ている暁光の前には、如何なる犠牲も「致し方なし」と払われるのだろう。無情にも思えるが、根底に在るのは深い慈愛と庇護なのだと、繁正は赤く潤む目を伏せた。





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