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第五幕
玉響
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桜の蕾が綻び、羽虫や蝶の戯れる姿も活発になる時節。
后妃懐妊の報せは京内を華やかに彩り、多くの民衆を沸かせた。御所の正門である紫桜門は三日三晩の間、特別に解放され、公家や武家、商家の者達が自由に祝辞に参じることが許された。宵君の姿を目にするや否や、膝を折って感涙する者も少なくない。
夕刻を過ぎると身重の后妃は御常御殿へ戻り、閉門となる夜半までは、宵君の意向により貴賤を問わず全ての民が、宵君と言葉を交わすことが許されている。暁光をはじめ、多くの者が反対したが、皆の憂いをよそに、宵君は民の手を取り語りかけることさえあった。
「恐れながら宵君、少々許し過ぎです。民にとっては、その御姿を一目見るだけでも僥倖。一人一人に言葉を授けるどころか、おみ手に触れさせるなど……」
「良いではないか。愛しい民に夢を見せてやっても」
「その御言葉だけで充分です。私達と違い、彼らは毎日湯を浴びません。仕事柄、土や獣の死骸に触れる手です。京の為なくてはならぬ存在ながら、彼らが御身に病を齎す憂いがあることは御存知のはず」
宵君の艶の良い髪に滴る雫を布で拭いながら、暁光は胃を痛める。どうにも宵君は、庶民との距離が近い。ここ数日唇の色が悪く、身に纏う香の甘さも一層増した。日に日に宵君の身体が弱っていることは明白である。
――謁見前に民には衣を着替えさせ、手を清めさせてはいるが、貴人と庶民とではそもそも体のつくりが違うと堕們殿も仰っていた。あと一日ではあるが、明日から私は京を離れねばならない。あまり民に触れて頂きたくないのだが。
いつの間にか瞳を閉じ、微かな寝息を立てている君主を見て、暁光は眉間を揉んだ。
卯月の五日。民に宵君との会話が許された最後の日、暁光は加賀党の根城となっている西方の山岳地帯を平定する為、五千の兵を率いて京を出立した。
「私の留守中に宵君に何かあってはいけない。お前達が頼りだ。くれぐれも、謁見に参じる者達の挙動には注意せよ」
「御意」
愛馬、赤鱗の背に跨り、三人の忍に告げる。虎牙とシジミ、そして墮速だ。加賀党は如月の合戦に西軍が敗北して以降、不満を募らせており、党員の数、思想の過激さも数倍に増していた。元より厄介な相手ではあったが、月末までに京へ戻ることは難しいだろう。兵の誰もがそう覚悟していた。
だが果たして、暁光は半月程で山岳地帯を平定し、党首や参謀をはじめとする加賀党重鎮の首を携え、京の門を潜った。五千居た兵は半数以下となり、生き残った者達も満身創痍。欠けた腕や潰れた目が、戦闘の激しさを物語っていた。暁光の表情も晴れないことから、初めはそれが凱旋であると誰も気づかなかったほどである。
「申し訳ございません、宵君」
殿上に上がらず階段の下に跪く暁光に、宵君は「否」と穏やかに首を振る。加賀党には宵君でさえ、数年間手を焼いていたのだ。失った兵は少なくないが、暁光の成した山岳平定は偉業である。
「……出陣前、盤上にて五百の演習を行いましたが、どれほどの策を講じたとしても十日目にはこちらが壊滅……唯一勝算のあった策は、兵に無理を強いねばなりませんでした」
暁光の声は僅かに震えており、宵君は手にしていた書簡を傍らに伏せ、静かに玉座から腰を上げた。
「其方は此度の自らの戦を、五百しか策が浮かばず、兵を多く死なせたと捉えておるのか」
「……えぇ。貴方であれば、違ったのではないかと」
顔を上げることなく唇を噛む暁光の前に、柔らかく影が落ちる。宵君は暁光の正面に同じように片膝をつき、その肩に手をかけた。
「加賀党の勢力は一万弱、徒党とはいえ、手練れの数も少なくない。私であれば、山岳に奴らが築いた砦を三つの布陣で囲み、背後の森林に別動隊を忍ばせる。変装も良かろうな」
目を瞬かせる暁光に微笑み、宵君は続ける。
「しかし正面の陣を囮に背後を突くのでは、あまりに芸がない。その程度であれば奴らの粗末な頭でも予測出来よう。故に私なら」
正面の陣を囮に別働隊を背後からぶつけ、それすら囮に少数で敵陣の横腹を貫く。自らその先陣で敵を蹴散らし、正面、森林の軍の士気を高め一気に敵を叩き潰す。 宵君が聞かせた策に、暁光はぱっと顔を上げた。その様子に宵君は「して、其方はどうした」と優しげな笑みを浮かべる。
「全く……同じように致しました」
前後から迫る沖去の討伐軍と拮抗していた加賀党の中央を切り裂く、紅い軍旗を掲げた暁光の少数隊。疲れ果てた味方の目に、それは紛れもない希望の姿に映ったことだろう。
「加賀党如きに苦戦を強いられ、兵の矜持は傷ついたことであろう。それを再び奮わせ、見事押し返した手腕は称賛に値する。暁光、大儀であった」
穏やかでいて力強い労いの声に、暁光は深く頭を下げ、滲む視界を閉じた。
「勿体なきお言葉……」
后妃懐妊の報せは京内を華やかに彩り、多くの民衆を沸かせた。御所の正門である紫桜門は三日三晩の間、特別に解放され、公家や武家、商家の者達が自由に祝辞に参じることが許された。宵君の姿を目にするや否や、膝を折って感涙する者も少なくない。
夕刻を過ぎると身重の后妃は御常御殿へ戻り、閉門となる夜半までは、宵君の意向により貴賤を問わず全ての民が、宵君と言葉を交わすことが許されている。暁光をはじめ、多くの者が反対したが、皆の憂いをよそに、宵君は民の手を取り語りかけることさえあった。
「恐れながら宵君、少々許し過ぎです。民にとっては、その御姿を一目見るだけでも僥倖。一人一人に言葉を授けるどころか、おみ手に触れさせるなど……」
「良いではないか。愛しい民に夢を見せてやっても」
「その御言葉だけで充分です。私達と違い、彼らは毎日湯を浴びません。仕事柄、土や獣の死骸に触れる手です。京の為なくてはならぬ存在ながら、彼らが御身に病を齎す憂いがあることは御存知のはず」
宵君の艶の良い髪に滴る雫を布で拭いながら、暁光は胃を痛める。どうにも宵君は、庶民との距離が近い。ここ数日唇の色が悪く、身に纏う香の甘さも一層増した。日に日に宵君の身体が弱っていることは明白である。
――謁見前に民には衣を着替えさせ、手を清めさせてはいるが、貴人と庶民とではそもそも体のつくりが違うと堕們殿も仰っていた。あと一日ではあるが、明日から私は京を離れねばならない。あまり民に触れて頂きたくないのだが。
いつの間にか瞳を閉じ、微かな寝息を立てている君主を見て、暁光は眉間を揉んだ。
卯月の五日。民に宵君との会話が許された最後の日、暁光は加賀党の根城となっている西方の山岳地帯を平定する為、五千の兵を率いて京を出立した。
「私の留守中に宵君に何かあってはいけない。お前達が頼りだ。くれぐれも、謁見に参じる者達の挙動には注意せよ」
「御意」
愛馬、赤鱗の背に跨り、三人の忍に告げる。虎牙とシジミ、そして墮速だ。加賀党は如月の合戦に西軍が敗北して以降、不満を募らせており、党員の数、思想の過激さも数倍に増していた。元より厄介な相手ではあったが、月末までに京へ戻ることは難しいだろう。兵の誰もがそう覚悟していた。
だが果たして、暁光は半月程で山岳地帯を平定し、党首や参謀をはじめとする加賀党重鎮の首を携え、京の門を潜った。五千居た兵は半数以下となり、生き残った者達も満身創痍。欠けた腕や潰れた目が、戦闘の激しさを物語っていた。暁光の表情も晴れないことから、初めはそれが凱旋であると誰も気づかなかったほどである。
「申し訳ございません、宵君」
殿上に上がらず階段の下に跪く暁光に、宵君は「否」と穏やかに首を振る。加賀党には宵君でさえ、数年間手を焼いていたのだ。失った兵は少なくないが、暁光の成した山岳平定は偉業である。
「……出陣前、盤上にて五百の演習を行いましたが、どれほどの策を講じたとしても十日目にはこちらが壊滅……唯一勝算のあった策は、兵に無理を強いねばなりませんでした」
暁光の声は僅かに震えており、宵君は手にしていた書簡を傍らに伏せ、静かに玉座から腰を上げた。
「其方は此度の自らの戦を、五百しか策が浮かばず、兵を多く死なせたと捉えておるのか」
「……えぇ。貴方であれば、違ったのではないかと」
顔を上げることなく唇を噛む暁光の前に、柔らかく影が落ちる。宵君は暁光の正面に同じように片膝をつき、その肩に手をかけた。
「加賀党の勢力は一万弱、徒党とはいえ、手練れの数も少なくない。私であれば、山岳に奴らが築いた砦を三つの布陣で囲み、背後の森林に別動隊を忍ばせる。変装も良かろうな」
目を瞬かせる暁光に微笑み、宵君は続ける。
「しかし正面の陣を囮に背後を突くのでは、あまりに芸がない。その程度であれば奴らの粗末な頭でも予測出来よう。故に私なら」
正面の陣を囮に別働隊を背後からぶつけ、それすら囮に少数で敵陣の横腹を貫く。自らその先陣で敵を蹴散らし、正面、森林の軍の士気を高め一気に敵を叩き潰す。 宵君が聞かせた策に、暁光はぱっと顔を上げた。その様子に宵君は「して、其方はどうした」と優しげな笑みを浮かべる。
「全く……同じように致しました」
前後から迫る沖去の討伐軍と拮抗していた加賀党の中央を切り裂く、紅い軍旗を掲げた暁光の少数隊。疲れ果てた味方の目に、それは紛れもない希望の姿に映ったことだろう。
「加賀党如きに苦戦を強いられ、兵の矜持は傷ついたことであろう。それを再び奮わせ、見事押し返した手腕は称賛に値する。暁光、大儀であった」
穏やかでいて力強い労いの声に、暁光は深く頭を下げ、滲む視界を閉じた。
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