花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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最終幕

睡蓮

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 大門に血が降り注いだ凶事は京中を騒然とさせ、中央に構える御所の高官達も慌ただしく戦の準備を進めている。卑劣な嘉阮かげんの皇帝を討つべく、幾度も軍議が開かれ、木製の駒が砕けるまで盤上演習が行われた。


「陛下、少しお休み下さい。もしも御身に万一のことがあれば、この極限まで高められた士気も瞬く間に地に落ちましょう」

 絵地図に指を置いたまま、宵君よいのきみ暁光ぎょうこうを振り返る。

 この戦における勝利への道筋の狭さ、険しさは、加賀党討伐の比ではない。京のはずれに潜んでいた徒党風情とは違い、嘉阮は周辺諸国でも群を抜いて強大な国家である。ゆえに宵君自らが戦略を講じ、床に就く間もなく演習をせねばならないことは暁光にも分かっていた。しかし宵君の体調を考えれば、こうして軍議の席に居るだけでも無茶をし過ぎているのだ。

 静養を求める進言を宵君が聞き入れることは稀である。暁光は半ば諦めていたが、宵君は数度頷き、台の傍を離れて京宵けいしょうを傍へ呼んだ。

「明日、其方が進捗を報せよ。暁光は私と共に参れ。話がある」

「御意」

 素直に御殿へ戻る姿を見るに、今宵は殊更ことさら加減が優れないのだろう。当然、宵君は自らの限界を知り、休み時を計る知性は持っているが、それでも尚暁光の憂いが絶えることはなかった。
 どこか事を急いているような面持ちを眺めるうち、心の臓が大きく脈うった。

 軍議に参ずる将や臣官には決して悟らせないが、宵君の病は日毎その身を蝕んでいる。墮們でさえ、最早その己が身を省みぬ振る舞いを強く咎めることはない。それは誰よりもよく知っているからであった。宵君の余命を。

 ――后妃と御子みこを成され、私を将軍に任じ……もしや宵君は既に、御隠れになる支度をしておいでなのか。

 瞼を伏せる暁光を見て、宵君は侍女に御殿内を人払いするよう伝えた。寝台に敷かれた褥に腰を下ろし、「其方しか聞いてはならぬことを話す」と開きっ放しになっていた木簡の巻物を手慰みに纏める。その足元へ跪き、暁光は黙して宵君の言葉を待った。

「嘉阮との戦にいて、出陣の号令となる頃合を其方に伝えておく」

 書簡の紐を結う手が震えているのに気づき、ご無礼を、と一言断ってその背を支える。このようなありふれた所作ひとつすら、寝台に身を起こしておくことすらお辛いのか。

「出陣の号令、ですか」

 腕に預けられた身体は、軽いと感じるほど痩せ細ってはいないが、不甲斐ない思いに苛まれることに変わりはない。宵君曰く、昼夜文官も武官も血眼になって囲っているあの演習台の盤面は偽りの戦略であるらしい。
 否、正確には途中まで偽りではなかったが、宵君は早々に、如何なる戦法を用いても圧倒的な兵力の差の前に勝利はあり得ぬと気づいていた。数だけでなく、嘉阮に若き傑物けつぶつが現れたとの噂も聞く。

「では、如何様にして」

「ある程度の布陣を組み、全軍を一斉にぶつける」

「……兵の士気だけを頼りに、捨て身の特攻ということでしょうか」

「それで大体正答だ。して、今からその号令を伝えるが、まぁ……兵が号令を待つかどうか、はなはだ怪しい。それならそれでも構わぬ」

 核心を突かぬ宵君の言葉に、暁光は首を傾げる。如何に兵の士気が高まっていても、その戦法では、とても嘉阮に勝てる見込みはないように思えた。


「号令は」

 どん、と胸に衝撃が走り、宵君の鋭い隻眼が暁光を射抜く。炯々と燃える眼は、清らかな青龍の眼光のように力強く、有無を言わさぬ重さがある。胸に打たれた白い拳は、もう震えてはいなかった。




「私の死である」






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